和希は午後の授業を受けながら、頬杖をついて啓太をじっと見つめていた。
 今、啓太は眠そうな顔で英文法の穴埋め問題を解いていた。そこには僅かの影も感じられない。啓太が取り乱したのは一度だけ……一週間前、医務室から和希に電話を掛けてきたときだけだった。
 しかし、あの日以来、啓太は変わった。
 暗闇を極端に恐れる様になった。いや、正確にはどんなに明るくてもまだ足りない……といった感じだろうか。昼も夜も部屋中の明かりを煌々と点けている。そのため、啓太は良く眠れなくなっていた。
(最近、啓太は夢見が悪いと言っていた。俺と再会したことで、子供の頃の記憶が無意識下に蘇りつつあるのかもしれない。今のところ血液検査に異常は見られないが、これが不活性化しているウィルスが目を醒ます予兆だとしたら……)
 それは『鈴菱』は待ち望んでいることだが、和希は違った。啓太を『鈴菱』の道具にはしたくなかった。啓太の転入を決めたときも、内心はかなり複雑だった。これで和希は遠い日の約束を果すことが出来るが、同時に啓太は運命への最初の一歩を踏み出すことになる。せめてもう少し啓太が成長するまで待ってあげたかった……周囲に惑わされず、自分の路を進める強さを身に付けるまで。しかし、またもや自分の不注意で啓太に危害が及ぶかもしれないとわかった以上、黙って見てはいられなかった。だから、もう一度、改めて心に誓った。啓太は必ず俺が護る、と。
 啓太を子供と思っている訳ではなかった。ただ、実社会を知らない啓太は未だ自分の手で何も成し遂げてはいない。その意味において、啓太はまだ子供であり……中嶋もまたそうだった。
 先日、中嶋には遠まわしにそれを告げた。中嶋が自分の矜持(プライド)に固執すれば、遅かれ早かれ、『鈴菱』は二人を引き裂いてしまうだろう。そうならないために、一刻も早く中嶋には自分とは違う方法で啓太の傍にいる術――護り方――を見つけて欲しかった。啓太は中嶋を選び、望み、愛したのだから。
『……貴方に……啓太は護れない……』
 その言葉は少し酷だと思ったが、中嶋は和希の真意をしっかりと受け止めた。啓太の様に本質を直接、見る目はなくとも、優れた観察眼と知識が充分にそれを補っている。なら、問題は何か……もう中嶋は気づいているだろう。
 和希には、今の啓太が深夜に手を洗うマクベス夫人に見えた。その恐怖は実体のない悪夢。病んだ心が生み出した想像の産物に過ぎない。ある意味、それは恋と似ていた。たとえ、他人の目には狂気と映っても、恋する者にとっては己が信じる唯一の事実。つまり、両方とも頭で理解することではない。
 この呪縛は、いずれ中嶋が解くだろう。それは中嶋にしか出来ないことだった。そして、和希には和希にしか出来ないことがあった。
 ここ最近、学園内で事故が相次いでいた。
 幸い、大した怪我人はなく、それ自体は些末な問題だった……が、なぜかそこに啓太の影がちらついた。生物準備室での一件と合わせて、そのことは既に本社へと伝わっていた。岡田からの報告では現時点で注意すべき動きはない。しかし、これ以上、啓太に余計な関心は持たれたくなかった。
(この件にウィルスは全く関係ない。だが、それは俺が心証を積み重ねて得た結論であって証明は出来ない。あまり長引かせると、こちらが不利になる……)
 終業のチャイムが鳴って啓太が教科書をしまい始めた。和希は憂鬱を振り払って明るく尋ねた。
「啓太、今日も会計室へ行くのか?」
 生徒会役員になる前から啓太は頻繁に生徒会室に出入りしていたが、今やあそこには近寄ろうとさえしなかった……中嶋がいるから。うん、と啓太は頷いた。
「なら、途中まで一緒に行くよ」
「うん」
 啓太は窓を背に微笑んだ。差し込む陽が眩しくて、和希は僅かに目を細めた。
(啓太、お前は俺の唯一の曙光(ひかり)……お前は必ず俺が護る)
 そして、静かに立ち上がった。

「失礼します」
 啓太が会計室のドアを開けると、七条が温かく出迎えた。
「いらっしゃい、伊藤君、待っていましたよ」
「こんにちは、七条さん」
 ふわっと啓太は微笑んだ。さっと室内を見回し、コクンと首を傾げる。
「あれ? 西園寺さんはいないんですか?」
「ええ、用事があって外出しています。伊藤君は僕だけでは不満ですか?」
 七条は少し寂しそうな表情を浮かべた。
「えっ!? そんなことないです。ただ、珍しいなって思って」
「それを聞いて安心しました」
 ふふっ、と笑う七条に啓太は微かに頬を赤らめた。天井に取りつけてある洋風の照明を見ながら、壁にある照度を調節するつまみを最大まで回す。室内が煌々と照らし出され、その眩しさに七条は僅かに目を細めた。啓太は鞄をいつものソファに置くと、今度は窓の左角にあるフロアー・ランプを点けた。そんな啓太を七条は無言で見つめている。
「七条さん、今日は何をすれば良いですか?」
 啓太が振り向いた。
「では、これから僕は馬術部の予算返却の書類を作成するので、そのお手伝いをして頂けますか?」
「返却って……また何かあったんですか?」
「ええ……伊藤君も知っていると思いますが、あそこは弓道部と同じで全国レベルの実力があるのは一人だけです。昨日、その彼が落馬して再来週の競技会に参加出来なくなったので、競技会用に支給した予算から既に確保していた厩舎のキャンセル料などを差し引き、残りは総て返却させることにしました」
「最近、多いですね……事故」
 ポツリと啓太が呟いた。
(落馬したの、あの人かな。酷い怪我じゃないと良いけど……)
 一昨日、会計室へ来る途中で滝にデリバリーを頼まれた啓太は厩舎の傍で馬を眺めている生徒に気がついた。その横顔が少し蒼ざめていたので心配になって声を掛けると、彼は頼りなげな微笑を浮かべた。
『……有難う。君は優しいね……』
 それから、二人は暫くそこで一緒に馬を眺めていた。彼には何か悩みがあった様だが、誰かが傍にいるだけで癒されることもある。啓太は自分がその役に立てれば良いと思った。そして、彼が自信を取り戻してくれれば、と。その気持ちが通じたのか、別れたときの彼の表情は最初よりも明るくなっていた。
「最近の彼はスランプで、しかも、風邪気味でした。コーチは暫く馬から離れて休むよう指導しましたが、優勝候補と目されていただけに焦ってしまったんでしょう。怪我自体は大したものではありませんが、体調の回復は望めないので競技会は断念するそうです。本当に残念です」
 七条は短く嘆息すると、そっと啓太を窺った。
 啓太の言う通り、最近、学園内では小さな事故が多発していた。一見すると、それは総て本人の行動に起因していた。今回の馬術部の件も、体調を崩しているのに馬に乗るなど無謀としか言い様がなく、落馬は当然の帰結に思える。しかし、仮にもこの学園に入学許可が下りるほど実力のある者がそんな過ちを犯すだろうか。現に、この二年間、そんなことはただの一度も起こらなかった。そこで、七条は軽い気持ちで事故を起こした生徒達に聞き取り調査を行った。すると、彼らには意外な共通項があった。
 誰もが事故を起こす前に啓太と接触していた。
 啓太は学園内で顔が広いので別に不思議ではないが、これは無視出来ない情報だった。七条はそれを西園寺に伝えた。
『……郁、これはどういうことでしょうか。僕には、まるで伊藤君が災いを撒き散らしている様に見えます。何か嫌な予感がします。この一連の事故と伊藤君は……あまり考えたくはありませんが、何か関連があるんでしょうか……』
『……やはりそうか……』
『……それはどういう意味ですか……』
『……啓太に害意はない。だが、私は初めて啓太を恐ろしいと思った……』
(郁があんなことを言うとは……)
 七条は小さく瞳を伏せた。今、西園寺は丹羽と話をしに東屋へ行っていた。恐らく今後の啓太の扱いを相談に行ったのだろう。七条は西園寺の最後の言葉を静かに思い出した。臣、啓太をこの部屋から決して外へ出すな……
「どうしたんですか、七条さん?」
 啓太の声にハッと七条は息を呑んだ。慌てて瞼を開けると、啓太が直ぐ目の前に立っていた。心配そうに七条を見上げている。
「何でもありません」
 七条は優しく微笑んだ。
 啓太は故意に人を傷つけることは絶対にしない。その点は西園寺も認めていた。怪我をした馬術部の生徒が言っていた。沈んでいた自分に啓太が温かく付き添ってくれたお陰で、気持ちがかなり楽になった。ただ、それが少し空回りしてしまった。彼の期待に応えられなかったのが残念だ、と……
(やはり伊藤君は皆の心を癒してくれます。悪いのは君ではありません)
 七条の右手が啓太に伸びた。そっと頬に触れる。啓太はその掌に嬉しそうにもたれた。
「七条さんの指、冷たいです」
「君は温かいですね」
 艶めかしい肌の感触に七条の心がざわめいた。赤く濡れた口唇に無意識に視線が引き寄せられてしまう。ふわっと啓太が微笑んだ。
「俺、体温が高いみたいなんです。やっぱりまだ子供なのかな」
「そんなことはないですよ。もう君は自分のことは自分で考えられる立派な大人です。それに……とても魅力的です」
「お世辞でも嬉しいです」
 蒼穹の瞳が真っ直ぐ七条を捉えた。澄んだ眼差しが七条の奥底にまで沁み込んでくる。
(君には闇に沈む僕にも届く光があります。でも、それは郁とは微妙に違う。総てを眩しく照らす昼の光が郁なら、君は暗い夜に差し込む一条の光。これから迎える明るい朝を予感させる曙の光……)
「さあ、そろそろ仕事を始めましょうか、伊藤君」
 七条が啓太から離れた。
 啓太の心が未だ中嶋にあるのはわかっていた。たとえ、今、二人の間に亀裂が生じているとしても、その寂しさにつけ込む様な真似はしたくなかった。奪うなら、正々堂々と正面から――……
「まずはこれのチェックをお願い出来ますか?」
 七条が書類の束を差し出した。
「はい、七条さん」
 啓太は両手でそれを受け取った……誰をも魅了する綺麗な微笑を浮かべながら。



2009.3.13
七条さんと啓太が急接近です。
中嶋さんはいつもの様に生徒会室かな。
ああ、本当に動かない人です。

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Café Grace
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