結局、その晩も殆ど眠れなかった啓太は早めに登校しようと和希が部屋へ来る前に寮を後にした。和希には後で連絡すれば良いと思った。最近の和希は過保護に益々磨きが掛かってしまったので、せめて夢の中では自分のことは忘れて自由になって欲しい。これ以上、和希に迷惑を掛けたくなかった。
 和希は仕事があるにもかかわらず、登下校は元より放課後に行く会計室まできっちりと啓太を送り届けた。一人で大丈夫だから、と幾ら言っても聞き入れては貰えなかった。どうしてもそれが出来ないときは寄り道をしないよう何度も強く念を押された。勿論、啓太は真っ直ぐ会計室へ向かった……途中で誰かに何かを頼まれない限り。それは約束を破ることになる気もしたが、啓太はどうしても人の役に立ちたかった。誰かに必要とされれば、その瞬間だけ世界が少し明るくなる。こんなに暗くては本当に何も見えなかった。何も、何も……
(いつまでも和希に甘えてばかりはいられないからな)
 うん、と啓太は手を握り締めた。
 啓太は人工林の傍にある厩舎へと向かった。七条から馬術部の事故の話を聞いて以来、怪我をした生徒の馬はどうしているのか、ずっと気になっていた。動物なので、日々の世話は欠かせない。少し覗いてみて馬術部員だけでは手が足りないなら自分が手伝おうと思った。
「あっ、馬だ」
 練習用馬場の奥に馬を見つけた啓太は小さな歓声を上げた。
(まだ七時にもなってないのに、もうやってるんだ。俺、来るの遅かったかな)
 その前を通り過ぎて右にある厩舎の開き戸を開けると、左右に正方形の広い馬房が五個ずつ並んでいた。外の陽射しが眩しいので、目が慣れるまで中は酷く暗く感じた。右側の手前から二番目の房に額に小さな白斑のある黒鹿毛の馬がいる。話を聞いていたので、啓太はそれが怪我をしたかもしれない生徒の愛馬だと直ぐにわかった。気性は少し荒いが、甘えん坊でかりんとうが大好物らしい。今は主人がいないせいか、その馬はとても寂しそうに見えた。
 啓太はポケットからハンカチの包みを取り出した。
(食べてくれるかな)
 かりんとうを掌に乗せて差し出すと、馬は躊躇うことなくパクッと食べた。啓太は小さく微笑んで馬の鼻筋優しくを撫でた。すると、いきなり後ろから声を掛けられた。
「内の部に何か用かい?」
「わっ……!」
 驚いて振り返ると、そこには七条と同じくらいの背丈の生徒が立っていた。逆光で啓太からは相手の姿が良く見えない。
「……君は」
 彼の声音が急に硬くなった。
「態々催促に来なくても、明日までに予算はきちんと返すよ」
「えっ!? あの……?」
 コクンと啓太が首を傾げると、冷たく突き放す様に上から言われた。
「君は一年の伊藤啓太だろう? 知ってるよ。部室だと居留守でも使われると思った? 悪いが、僕達はそんな卑怯な真似はしない。どこかの生徒会役員と一緒にしないで欲しいな」
「あの……俺、何か誤解されてるみたいなんですけど……俺はただ人手が足りないんじゃないかと思って馬の様子を見に来たんです」
「……それだけ?」
 彼が怪訝そうに訊いた。はい、と啓太は頷いた。
「競技会用予算を早く返せって催促に来たんじゃないのか?」
「その話は知ってますけど、俺は別に……」
 啓太は小さく口籠もった。今は生徒会の仕事してないし……
「そうか。なら、僕の勘違いか。ごめん。気分を悪くさせる様な態度を取って」
 相手の語調が少し柔らかくなった。啓太が大きく首を振ると、クスッと彼は笑った。くしゃっと啓太の髪に触れる。その優しい手に啓太はこの見知らぬ上級生に対して急に親近感を覚えた。
 昔から、こうして頭を撫でられるのが好きだった。
(そういえば、かず兄もよく撫でてくれた気がする……)
 啓太はうっとり彼を見つめた。在りし日の和希の姿が目の前の人物と重なる。幼い頃、自分が世界で最も好きだった人……そういえば、この人もかず兄と少し似てる気がする。どこか憂いを帯びた、この瞳の色彩(いろ)とか……
「……っ……」
 彼が小さく息を呑んだ。啓太の、稚くどこか夢現な表情に妙に惹かれる。いや……そそられる。仄かに上気した肌、艶やかな口唇、恍惚とした瞳……一体、彼は俺の向こうに誰を見てるんだろう。出来れば俺を見て欲しい……
(な、何を考えてるんだ、俺は……!)
 自分の考えに居た堪れなくなった彼は咄嗟に頭に浮かんだことを口に出した。
「あ……その、君も役員なら色々大変だろう? 最近、生徒会は評判悪いから」
「えっ!? どうしてですか?」
 ハッと啓太は我に返った。彼は小さく腕を組んで、苦虫を噛み潰した様な表情で言った。
「予算を一々返却させてるからだよ。丹羽達の横暴は今に始まったことじゃないが、今回は……さすがに目に余る」
「あの……それがどうして?」
「わからないかい? 予算を返却させるということは、つまり、生徒会は僕達を全く信用してないということだろう? こんな不愉快な話は聞いたことがない。僕達はきちんと監査を受け、余った分は年度末に自主的に返納してる。私的に流用する気はないんだ」
 彼は苛々と指で腕を叩いた。自分で振った話題だが、徐々に怒りが込み上げて口調が熱くなってゆく。
「部の運営は書類だけを扱っていれば良い生徒会とは違うんだ。ある程度は各部の裁量に任せる部分があって然るべきだと思う。だが、生徒会は決してそれを認めない。上から総て一元的に管理しようとするんだ。今回の様にね」
「でも、正規の部活動なら予算面はきちんと保障されてるので何の問題もないはずです。別に返しても……」
 思わず、啓太は丹羽達を庇ってしまった。生徒会は今まで自分が仕事をしていた場所だけに悪く言われたくなかった。そう、ただそれだけ……
 彼が可愛い弟に接する様に啓太の頭を撫でた。
「伊藤君、馬は生き物なんだよ。何の予告もなく、突然、蹄や関節を痛めることもある。子馬の購入に関しても、競りのシーズンでない時期に良い出物が見つかる場合もあるんだ。そういうときは時間が総てだ。なのに、丹羽は仕事が嫌で不在が多い。そんな生徒会に、どうして僕達が一々お伺いを立てなければいけないんだい?」
「……」
 確かに、と啓太は思った。生徒会室で仕事をしていたとき、丹羽が不在で帰ってゆく人が大勢いた。彼が生徒会に不満を募らせるのは尤もな気がする。相手の声が、また少し硬さを増した。
「それに、この学園は完全実力主義が浸透してるが、そこにも大きな問題が潜んでると僕は思う。人には好・不調の波がある。どんなに頑張っても駄目なときがあるんだ。だが、生徒会はそういうデリケートな部分は一顧だにせず、結果だけを見て予算を削減するんだ。正直、内みたいに全国クラスの実力を持つ部員が少ない部は、いつ自分達が同好会に格下げされるかずっと怯えてるよ。同好会の扱いが酷いのは君も知ってるだろう?」
「正規の部ほど優遇されてないことは知ってます」
「部室さえ貰えず、どうやって立派な記録を出せって言うんだい? 僕達は皆、安心して自己研磨に集中出来る環境があると聞いてこの学園に入学した。なのに、実際は強者が弱者の上に胡坐をかいてる。こんなのは間違ってるだろう? こんな格差は一刻も早く是正すべきなんだ、それを容認してる生徒会も含めて! 皆、本心ではそう思ってるよ。ただ、権力を握ってる丹羽達が怖くて逆らえないだけなんだ」
「あ、あの……」
 啓太は小さく瞬きした。
 いつの間にか、話の論点が変わってきてしまった。どうしてこんな話になったんだろうと思った。俺は、ただ馬の世話が気になって来ただけなのに……
 それでも、啓太は彼の話を良く考えてみた。正直、同好会にはあまり良い印象を持ってはいなかった。しかし、こうして聞くと彼らの抱える不満もわかる気がした。それを表は丹羽、裏は中嶋が潰している。皆、望んでいることは同じなのに……
 彼が遥か遠くへ瞳を流し、独り言の様に呟いた。
「弱者は総てを運命と思って受け入れるしかないんだ。この不条理を……」
「……っ……!」
 それを聞いた瞬間、無意識に啓太の身体が動いた。一気に彼との間合いを詰めると、キュッと胸にしがみつく。そこに顔を埋めて、啓太は声を荒げた。
「不条理なんて言葉で完結させないで下さい! 俺、ここに転入した直後、その……色々あって諦めそうになりました。でも、王様達が助けてくれたから、今、ここにいるんです。そのとき、学んだんです。大事なのは自分がどうしたいか。それに向かって自分がどう行動するかなんです。だから、貴方も負けないで下さい。不条理だって思うなら、なおさら……!」
「……伊藤君……」
「もし、運命を決めるものがあるとしたら、それは自分の意思です! 自分の意思だけが路を切り拓く力になるんです! 運命とは、自分の意思なんです!」
「自分の意思、か……」
 彼が啓太の言葉を繰り返した。重苦しい沈黙の中、啓太は恥ずかしくて顔を上げられなかった。
(俺、知らない人に何を言ってるんだろう。でも、この人の気持ちが良くわかる。いきなり退学勧告を受けたとき、俺もそう思った。今、俺がここにいられるのは王様達が励まして力を貸してくれたからなんだ。そう、この人はあのときの俺と同じだ。なら、今度は俺の番……俺がこの人の力になる!)
 啓太はキュッと腕に力を入れた。
「俺に出来ることがあったら、何でも言って下さい。王様達は話せばちゃんとわかってくれます。俺、貴方の力になりたいんです」
「……啓太……」
 彼の両手が躊躇いがちに上がった。やがて啓太をきつく抱き締め、耳元で熱く囁く。
「有難う。君のお陰で、漸く何かが吹っ切れたよ。今から僕も、この学園を少しでも良くするために頑張ってみることにする。そして、綺麗になった学園を、啓太……君にあげよう」
「いえ、それはこの学園の皆にあげて下さい」
「……欲がないね、君は」
 彼の口唇が啓太の髪に軽く触れた。そのとき、ポケットの中で啓太の携帯電話が震えた。彼が啓太から離れた。顔を隠す様に馬の方を向く。
「……電話だね」
「あ……多分、友人です。俺が何も言わないで寮を出て来たから心配して掛けてきたんだと思います」
「なら、早く出た方が良い」
「でも、俺……」
「馬の世話なら厩務員もいるし、僕達だけで大丈夫。気持ちだけ有難く貰っておくよ。それと、ポチにくれたかりんとうも」
「ポチ? この馬、ポチって名前なんですか?」
「いや、僕が勝手につけたあだ名だよ。ほら、額にポチッと星があるだろう? だから、ポチ。これは僕達だけの秘密だよ、啓太」
 背中越しに、チラッと彼は視線を投げた。その瞳が悪戯っぽい色彩(いろ)を湛えているので、啓太はクスクスと笑った。
「わかりました」
 啓太は彼が本当に好きになった。その背にペコリと頭を下げると、パタパタと外へ駆け出した。
(あんな人が生徒会に入ってくれれば良いのに……)
 校舎への石畳を辿りながら、ふと啓太は彼の名前を訊かなかったことを思い出した。赤いネクタイだったから二年生かな……と考えていると、また電話が震えた。
「あっ、和希? ごめん、連絡しなくて……」

 啓太が去った後、男もポケットから携帯電話を取り出した。ある番号を押す。
「……俺だ」
『初めてだな、お前から掛けてくるのは。良い連絡か?』
「ああ、俺も腹を括った。これ以上、奴らの横暴を放置してはおけない。虐げられし者の痛みを今こそ思い知らせてやる」
『心強いね。だが、これまで散々俺の誘いを断っておいて、一体、どういう心境の変化だ?』
「ある人に教えられたんだ。運命とは、俺の意思だということを」
『へえ~、良いこと言うじゃないか』
 通話口の向こうから小さな笑い声が聞こえた。男は冷たく目を眇めた。すると、その雰囲気を感じて相手は沈黙した。再び男の口が開く。
「浅野、九時に円馬場に来れるか? 出来るだけ早く詳細を詰めたい」
『さすがだな。もう計画があるのか。やっぱりお前を盟主に選んだ俺の目に狂いはなかったな。わかった。九時に必ずそっちに行く』
「……」
 通話が切れ、男は携帯電話を閉じた。黒鹿毛の馬がお菓子を強請る様に顔を近づけてくる。その鼻筋を優しく撫ぜながら、男が低く笑った。
「ポチも啓太が気に入ったか……俺もだ。出来れば啓太は傷つけたくないな。啓太こそ、まさに盟主に相応しい……俺達、反生徒会連合のな」
 そして、静かに厩舎を後にした。



2009.4.10
啓太にしがみつかれたら、
抱き締めたくなるのは人情です。
そして、馬にポチと名づけるネーミング・センスは
王様に負けずとも劣りません。
ああ、あの人の名は……

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Café Grace
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