静かな生徒会室に丹羽がペンを走らせる音が響いていた。会計室から上がってきた書類に素早く目を通し、署名した後、生徒会長印を押して正式な形に整えてゆく。それは単調で全く面白みのない作業だった。しかし、丹羽はいつになく真面目に自分の責務に取り組んでいた。
「……遅かったな」
  顔も上げず、丹羽が呟いた。音もなく入って来た中嶋は、ああ、と短く答えた。直ぐに内ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。さすがに校内で吸うことは出来ないので、ここまで我慢していた。ドアにもたれて、気だるそうに紫煙の先を見つめる。
  計画通りとはいえ、連日の様に闇討ちを掛けられると辟易した。日頃から生徒会に不満を持つ者達に加え、今回は予算を返却させられた部の腹いせも混じっている。しかも、これを機に近々予算編成を大幅に見直すという噂まで立っているので露骨なまでに裏工作が始まり、中嶋の周辺はかなり賑やかになっていた。
  今までなら、それは大した問題ではなかった。中嶋なら、そうしたものを跡形もなく綺麗に潰せた。しかし、押す力が強ければ強いほど、反発もまた大きくなってゆく。中嶋は啓太が生徒会役員になったとき、初めてそのことに不安を覚えた。
  このままでは、いずれ対応出来なくなる……啓太しかいないのだから。
  啓太は学園内の人気が高い上に会計部の信用もあり、更には謎の理事長が後ろ盾になっていると思われているので直ぐに危害が及ぶことはないだろう……が、この事態を招いたのは丹羽と中嶋の今日までの行動の結果であり、そのツケを啓太一人にだけ背負わせたくはなかった。だから、中嶋は啓太のコンプレックスの正体に気づいたとき、敢えて距離を置くことを選んだ。
  そう……啓太は心の奥に大きな闇を抱えていた。
  今まで、それは単なる劣等感だと考えていた。この学園において、一見すると特筆すべき能力を全く持たない啓太は異質だった。自分には何の取柄もない、と自信を失っても仕方がない。しかし、和希の話を聞いて、その闇はもっと深いところ……啓太の存在そのものにあるとわかった。
  地下室に閉じ込められたとき、幼い啓太は生存本能を脅かされた……が、まだ死を認識出来る年齢ではなかったのだろう。だから、本来、恐怖や怒りとなって外へ向かうべき思考と感情が内へと捩れてしまった。啓太の言動から推測すると、恐らくそれは……要るか、要らないか。
  正確なことは、今ではもう誰にもわからない。知る術もない……勿論、啓太自身にさえ。ただ、事故で記憶は失っても、自らを要らないものとした観念は無意識下に抑圧されて残ってしまった。その結果、啓太は自分の価値を他人の中に求めた。つまり、人に望まれることを望む。
(皮肉なものだな。パンドラの箱に閉じ込められた希望こそ、実は最もそれを必要としていたとは……)
  啓太の一部は、ずっと幼き日の地下室にあったのだろう。その箱が開いて、一度は失った自分の心の闇と向き合う機会を漸く得た。但し、それは中嶋への恐怖と形を変えて。なら、総て受け止めてやる。それで、お前があの日の闇で傷ついた自己を再構築出来るなら、幾らでも俺に幻を重ねれば良い。
  しかし、そのとき、中嶋はある重要なことを見落としていた。
  それに気づいたのは翌日……体操部員の一人が足を挫傷して病院へ運ばれ、続けて卓球部とフェンシング部でも同様の怪我人が出たときだった。その報告を受けたとき、中嶋は嫌な胸騒ぎがした。それら三つの部は今四半期の活動報告書が未提出で、滝に配達を依頼した督促状の宛先と同じだった。滝は忙しくなると、啓太に仕事を頼むことが多い。もしかしたら、今回もそうしたのかもしれない。
  啓太が彼らに何かしたとは思わなかった……が、自らを律する知恵を持たない希望は邪気が全くないだけに質が悪い。人にとって、それは大きな災いにも成り得た。このままでは、いずれ必ず妙な噂が立つだろう。自分のことで手一杯な今の啓太にそれはあまりに酷だった。
  そこで、中嶋はその事故を利用して啓太の安全を確保しつつ、邪魔者を一掃する計画を立てた。
  怪我を理由に予算を締めつける。そうすれば、啓太から人の目を逸らせる上に隠れた不穏分子を炙り出すことが出来るだろう。しかし、西園寺達は中嶋の意図を理解はしたものの、計画自体には限りなく反対に近かった。
『……態々相手を挑発する様な真似に、私は賛成出来ない……』
『……全くです。もし、それで眠れる獅子を起こす事態になったら、どう責任を取るつもりですか……』
『……俺は相手の力を殺ぐ最も効率的な方法を選んだだけだ。それに、寝ている者がいるなら、そいつはいつか必ず目を醒ます。なら、対策を取るためにも早く起こした方が良い……』
  結局、西園寺達は暫く啓太を預かることで妥協した。二人は啓太を気に入っているので、その間に会計部へ勧誘するつもりらしい。しかも、西園寺は啓太の特異性に気づいていた。だから、余計、開放された啓太を放ってはおけないと考えたのだろう。
  啓太には、仮初めでも箱が必要だった。
「……」
  細く煙を吐き出すと、中嶋は自分の席についた。そっと丹羽へ瞳を流す。
  その計画を話したとき、丹羽は一切、口を挟まなかった。三年も一緒にいたので中嶋を理解しているとも取れるが、どうも引っ掛かる。
(丹羽には俺がまだ気づいてない何かが見えているのか。それとも、眠れる獅子に何人か心当たりがあるのかもしれない。今まで、伊達に各部を遊び歩いていた訳ではないだろうからな)
  すると、その視線を感じたのか、不意に丹羽が口を開いた。
「中嶋」
「何だ?」
「お前が啓太を大切にしたい気持ちはわかるが、そろそろ向こうも危ねえぜ」
「西園寺か」
「ああ」
  丹羽は小さく頷いた。仕事の手を止め、真っ直ぐ中嶋を見つめる。
「俺は今まで俺達がやってきたことが正しかったとも、間違ってたとも言わねえ。結局、それは見方の問題だからだ。ただそう考えるから、そうなるに過ぎねえ。だが、俺達は一生懸命やってきた。それは事実だ」
「お前はあれで一生懸命なのか? 散々仕事を放棄しておいて」
「茶化すなよ、中嶋、俺は真面目に話してるんだぜ」
「悪い」
  ふっ、と中嶋が小さく笑った。続けろ。
「俺が今回の計画に賛成した理由の一つは郁ちゃんと同じだ。今の啓太は危険過ぎる。俺は啓太が気に入ってるからよ。愚かさ故の罪を知って啓太が苦しむ顔は見たくねえんだ。ついでに、まあ、あそこにいれば啓太が誰かに襲われる心配もねえしな。お前にとっては、寧ろ、そっちが本命かもしれねえけどな」
「……」
「そして、もう一つの理由……俺にとっては、こっちが本命だ」
「何だ、それは?」
「第三の思考」
「……成程な」
  中嶋は深く煙草を吸い込んだ。
  丹羽と中嶋が新しい生徒会を立ち上げた当時、学園内における権力は絶大なものだった。正直、それはあまり好ましい状態ではなかった……その先には衰退しか路はない。だから、二人は会計部の分離・独立を容認した。強力な反対者がいれば否定の否定にも力が籠もり、結果的に自分達を貫くことが出来る。しかし、所詮、それは内輪で牽制し合っているに過ぎなかった。ただ停滞するだけ……更なる発展を遂げるには、やはり完全なる対立者が必要だった。
  それは直ぐに現れた。
  生徒会が分裂して弱体化したことで対抗しようとする者達が徒党を組み、やがて反生徒会連合を立ち上げた。それは未だ全体の纏まりには欠けるものの、双方の緊張は着実に激しさを増している。もし、彼らの中に盟主が現れて相応の組織力を持つようになれば……そして、生徒会と反生徒会連合の両者を統一した存在が生まれれば、この学園に新しい世界が見えてくるだろう。
「随分、あいつを高く買っているな。だが、まだ総ては可能性の域を出ない。俺達に出来なかったことが、あいつにやれると思うのか?」
  中嶋は丹羽を凝視した。今回のことで第三の思考が誕生する足掛かりが出来れば良し。駄目でも、相手の力を殺ぐことは出来る。いずれにしても……丹羽に損はない。
(丹羽の掌で踊らされるのか、俺は)
  そんな考えが中嶋の頭を過った。丹羽は机の上に肘をつき、ゆっくりと指を組んだ。
「ああ……今、啓太は自らに目醒めようとしてる。その瞳が開かれたら不可能じゃねえ、と俺は思ってる。それは啓太の一番傍にいるお前こそ良くわかってるんじゃねえのか?」
「……」
「だから、中嶋……啓太を頼む」
  それは今まで聞いた丹羽の声の中で最も真剣な響きがあった。
  中嶋の胸の内――痛み――を理解しているからこそ、最後まで余計なことは何一つ言わず、ただ客観的に事実だけを見つめる。その強い眼差しに籠もるのは信頼……中嶋のこれまでの人生で最も無縁の言葉だった。思わず、中嶋は苦笑した。
「少し男振りが上がったな、哲ちゃん」
「おっ、今頃、気づいたのか?」
  丹羽は腰に両手を当てて大きく胸を張った。
「ああ、いつもあれに追い掛け回される姿ばかり見ているからな」
「げっ!! 嫌なこと思い出させるなよ、ヒデ!」
  今度は急に小さくなって、丹羽はぶるぶると身を震わせた。中嶋は低く喉を鳴らした。
  自分が誰かとこんなふうに話をする日が来るとは考えたこともなかった。それは、この学園で中嶋が手にした大きな成果だった。なら、啓太も自らを律する知恵をここで必ず学ぶだろう。
(それを知っているからこそ、俺は待てるのかもしれない)
  丹羽の反応に満足した中嶋は、そして、静かに煙草を揉み消した。


2009.7.17
王様と中嶋さんが軽口をたたきながら、
珍しく真剣に会話しています。
これは対等の二人だから出来ることかも。

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Café Grace
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