「七条さん、終わりました」
  最後の資料を綴じると、にっこりと啓太は言った。パソコンで新しいプログラムを作っていた七条は静かに振り返った。
「有難うございます。なら、立て続けで申し訳ないんですが、今度はこれをお願い出来ますか?」
「はい」
  綺麗に微笑みながら、啓太は七条から何枚かの書類を受け取った。
「これが最後ですから、終わったらお茶にしましょう」
「あっ、なら、今日は俺が淹れます」
「それは嬉しいですね。では、僕はお茶菓子の用意をしましょう。今日は素敵なマカロンがあるんです。ピスターシュ、ショコラ、マロン、プラリネ。二人で仲良く食べましょうね」
「はい、七条さん」
  クスクスと啓太は笑った。
  西園寺が東屋へ休憩に行っているので、堂々と甘いものの話が出来るのが楽しかった。何だか秘密の、いけないことをしている気がする。啓太が書類を持ってソファへ戻ると、七条は僅かに片眉を上げた。
  自分に対して啓太が見せる表情が急に幼くなった気がした。以前なら、こんなときは真っ先に西園寺のことを気にしただろう。
「でも、良いんですか? 西園寺さん、甘いものは見るのも嫌いだから……』
「大丈夫です。確かに郁は甘いものは嫌いですが、伊藤君が食べる姿を見るのは好きですから』
  そう言って小さくウインクすると、恥ずかしそうに頬を赤く染める。それが七条の知っている啓太だった。昨日までとは明らかに違う……
  そういえば、と七条は思った。
  昨夜の啓太は、まるで子守唄を強請る子供の様だった。あのとき、啓太の心の中で自分の置づけが変わったのかもしれない。親しい先輩から、更に一歩、内へ踏み込むことを許された者に。もし、そうなら……伊藤君の気持ちがあの人から離れ始めたのなら、僕は――……
「あっ……!」
  不意に啓太が声を上げた。
「どうかしましたか、伊藤君?」
「あの……このテニス部の遠征予算の見積書なんですけど……」
  啓太は一枚の書類を七条に手渡した。少し表情が陰る。
「これ、成瀬さんが王様と直接交渉して決めた話なので、概算請求だけ先に会計部へ提出して生徒会への書類は後回しになってるんです。えっと……その……遠征までそんなに時間がないので」
  本当は丹羽が書類仕事を嫌ったために先送りしたのだが、それは言えなかった。おやおや、と七条が肩を竦めた。
「相変わらず、あちらの仕事は滞りがちですね。せめて僕達に迷惑を掛けない程度に出来ないんでしょうか」
「すいません……」
「伊藤君のせいではありませんよ。これは真面目に仕事をしない丹羽会長と、それを諌めることが出来ないあの人が悪いんですから。でも、困りましたね、今日はここまでは終わらせたかったんですが」
「本当にすいません。多分、データはもう作成してあるので、明後日までには正式な書類に起こして持って来れると思います」
  中嶋の仕事のやり方は良く知っているので、少しでも七条の気が晴れればと啓太はついそれを口にしてしまった。すると、七条の紫紺の瞳に小さな炎が灯った。
「そうですか。なら、あちらにお邪魔して、そのデータだけ先に頂くことにしましょう」
「えっ!? でも、そんなことしたら……」
  啓太は言葉を濁した。七条の侵入に気づかない中嶋ではない。直ぐに熾烈なハッキング合戦になるのは目に見えていた。
「大丈夫ですよ、直ぐに終わらせますから。そうしないと、伊藤君と楽しくお茶が飲めませんからね。では、少し待っていて下さい」
  七条はパソコンに向き合うと、凄まじい速さでキーを叩き始めた。啓太はソファに腰を下ろして小さく顔を伏せた。やり切れない何かが込み上げてくる。
  中嶋から逃げるために会計室へ来る自分を西園寺達は温かく迎え入れてくれた。そして、この一週間は今まで以上に深い立場で会計部の仕事に携わってきた。本当に会計部員になってしまったかの様な錯覚さえ覚えるほどに。しかし、何かあったとき、啓太はいつも生徒会側に立って物事を考えていた。そういう中途半端な態度は二人に対して失礼だろう、と思った。何より啓太自身が納得出来ない。そろそろ自分の気持ちをはっきりさせるべきだった……生徒会をやめて、会計部へ入るかどうか。
「……」
  ここで過ごす穏やかな時間は啓太の心を癒してくれた。この暗い世界で七条に新しい光が見えるのも救いだった。手を伸ばせば、届くかもしれない……が、それは中嶋との繋がりを完全に絶つことを意味した。やはり躊躇わずにはいられない……
(……中嶋さん……)
  幾ら自分から離れたとはいえ、啓太は中嶋のことを想わない日は一日たりともなかった。もし、仮に中嶋に遊ばれただけだったとしても、そのことに気づかなければ、今よりは幸せでいられたかもしれない。ただ中嶋を見つめ、愛してさえいれば良いのだから。そんな無意味なことさえ真剣に考えてしまったほど……
(でも、俺は……思い出してしまった!)
  ギュッと啓太は拳を握り締めた。
  どんなに正当な理由を並べて、中嶋の行動を論理的に解き明かしても駄目だった。心がそれを受けつけない。あの日の恐怖と怒りは激しく啓太を苛んだ。にもかかわらず、未だ中嶋を忘れられない。愛しながらも怯え、恐れつつも愚かしいまでに望まれようとする。そんな自分に……絶望する。
(俺は……俺は……!)
  そのとき――……
「……っ!!」
  突然、会計室の総ての明かりが消えた。

「おい、またかよ、中嶋」
  げんなりとした様子で丹羽が口を開いた。
  先ほどから中嶋と七条が互いのデータを破壊し合っていたことは気づいていたが、電源を落とされたら仕事が出来なかった。折角、人が真面目にやってるのによ。すると、中嶋が言った。
「俺ではない」
「なら、七条か……ったく、お前ら、いい加減にしろよ」
「いや、奴でもない。何者かが物理的に総ての電源を落とした」
  中嶋は窓の外へ瞳を流した。
  今はまだ午後四時を過ぎたばかりだった。なら、会計室が真っ暗ということはないだろう。あそこは南に大きな窓がある。そこから差し込む光で充分、明るいはずだった。あいつが怖がるほど暗くはならない……
  ふ~ん、と丹羽が呟いた。ニヤッと口の端が上がる。
「前にもあったな、こんなことが」
「ああ、だが、この程度でセーフティ・モードはもう発動しない。あのバス事故の後、遠藤が徹底的に管理システムを見直したからな」
「だが、それは俺達だから知ってることだ。他の奴らにしてみたら、停電はまた俺達のせいで、セーフティ・モードは今回はたまたま発動しなかったって思うんじゃねえか?」
「……それがこれを仕掛けた奴の目的だろう」
  中嶋が静かに席を立った。
「丹羽、後は任せた」
  おう、と丹羽は低く唸った。そして、一言だけ忠告する。
「やり過ぎんなよ、中嶋」
「ああ」
  中嶋は短く答えると、生徒会室から出て行った。

  厩舎の明かりが不意に消えたので、黒鹿毛の馬は不安そうに耳をパタパタと動かした。男はその鼻筋を優しく撫でながら、馬を落ち着かせるためにポケットからかりんとうを取り出した。生徒会と会計部の不仲は有名だが、時折、それに否応なしに巻き込まれて迷惑する者がいることを彼らは一度でも考えたことがあるのだろうか。ある訳がない。その傲慢さが男は最も腹立たしかった。
  だから、浅野に手を貸すことにした。
(何かを良く見せるには、周囲のものを総て眠らせれておけば良い)
  今回、浅野が計画をどの程度まで実行するかは凡そ察しがついたが、良心は微塵も痛まなかった。それは彼らの自業自得だった。横暴な生徒会を諌めることもせず、逆に一緒になって学園に混乱をもたらす会計部など、最早、必要ない!
「……!」
  馬が苛々と地面を蹴った。神経質な動物なので、この状況に酷くストレスを感じているらしい。男は考えるのをやめて優しく微笑んだ。
「ポチ、ここは暗いから外へ行こうか」
  そこで沈みゆく陽を待つのも悪くない。そう思った。


2009.7.31
啓太が絡んでいるせいか、
珍しく中嶋さんが行動的です。
それにしても、
いつ、七条さんはマカロンを買いに行ったのかな。

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Café Grace
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