地よりも深く沈んだ闇の底で、一人の子供が大きな扉を叩いていた。これを開ければ今より少しはましになるかもしれない、と淡い希望を抱いて……必死に。しかし、不意に聞こえた声に、ハッと振り返った。
「今、何て言ったの?」
  すると、少し離れた場所に立っている自分と同じ二つの蒼穹を持った人が哀しそうに首を振った。
『その扉は開かないんだ』
「どうして!」
  キッと子供は彼を睨みつけた。純粋であるが故に容赦ない鋭さを放つ視線に、茶色の癖毛をした人は小さく俯いた。
『その扉は一人では開けられない。君の他に、もう一人……ある人の力が必要なんだよ』
「じゃあ、その人を呼んで!」
『……ごめん。それは出来ない』
「どうして!」
『その人は君を……望んでないから。君を愛してはいるけど、望んでない。それじゃあ、この扉は開けられないんだ。これを閉めたとき、君にはあの人しかいなかったから。それに、君も――……』
「そんなの、わかんない! ここ、開けてよ! 早く開けてっ!!」
  子供は再び激しく扉を叩き始めた。

「伊藤君、大丈夫ですか?」
「……!」
  呼ばれて、啓太は慌てて顔を上げた。急に明かりが消えたのに驚き、無意識に目を瞑ってしまったらしい。そんな自分を傍らに跪いた七条が心配そうに窺っていた。
  啓太はキョロキョロと不安げに辺りを見回した。
  南にある大きな窓から陽が射し込んでいた。西に傾き掛けているので少し黄色味を帯びているが、西園寺の徹底した美意識によって室内はその陰りを殆ど感じさせない。いや、寧ろ、自然光を巧く取り入れて仕事をする場所とは思えないほど居心地の良い空間になっていた……が、そんなことはどうでも良かった。配置の妙で影を消しても全く意味がない……!
「……っ……」
  心に映る風景があまりに暗いので、せめて目で見る世界だけは明るく眩しくあって欲しかった。これでは、まるで箱の中に閉じ込められた様で息が詰まる。啓太は立ち上がると、七条の前を通ってパソコンの横にあるドアを開けた。取り敢えず、それが一番近くにあったから。しかし、そこは資料保管室だった。光による退色を防ぐために窓一つない。
「……っ!!」
  背筋に凄まじい悪寒が走った。
  出られない……ということが、とても怖かった。周囲が自分に向かって一気に伸し掛かってくる気がする。頭が混乱して酷い眩暈がした。周囲が歪んで気持ちが悪い。とにかく、ここから出なければ……一分、一秒でも早く!
  蒼ざめた啓太は、もう一つのドアへ駆け寄った。それは間違いなく外へ通じていた。ノブをガチャガチャと乱暴に動かす。
「……開かない」
  抑揚のない声が呟いた。ええ、と七条が頷いた。
「電源が落ちると、外部からの侵入防止のため、そのドアには自動的にロックが――……」
「開かない!」
  バンッと啓太が強くドアを叩いた。
「伊藤君!?」
「……開けて、七条さん」
  啓太が囁く様に言った。しかし、七条は小さく首を振った。
「残念ですが、予備電源が作動しなくては僕にはどうすることも出来ません」
「……嘘」
  涼やかな眼差しで、啓太がゆっくり振り返った。ふわりふわりと七条へ近づいて来る。
「伊藤君……?」
「俺、知ってるんです。七条さんがここでいつも使ってるそのパソコン……それだけはサーバー棟の管理システムから直接、電力を取ってますよね。前に中嶋さんに物理的に電源を落とされて手も足も出なかったから、あの後、こっそり接続したんでしょう?」
「遠藤君ですね、情報源は……まあ、気づいているとは思っていましたが」
  七条は軽く肩を竦めた。ふわっと啓太が綺麗な表情で微笑んだ。
「七条さん……それを使って、あの扉、開けてくれませんか」
  それは媚でも懇願でもなかった。人の想像上にしか存在しないはずの、まさに真っ白で純粋な期待……あまりに眩しくて総ての言葉を失いそうになる。
(成程……だから、郁が恐ろしいと言ったんですね)
  七条は哀しげに瞳を伏せた。自分が啓太に惹かれた理由がわかった気がした。
  言葉も習慣も何もかも違うこの国に来たとき、七条の世界は闇に包まれていた。そこに西園寺が現れて光を見せてくれた、と思っていた……が、そうではなかった。世界は最初から明るかった。ただ、自分が目を瞑っていただけ……心に負った傷を見たくなくて。認めたくなくて。西園寺はそれを気づかせてくれたに過ぎなかった。どんなに手を取り、足を取って貰っても、最後に一歩を踏み出せるのは自分の力だけだから。
「……」
  自らに目醒めさせてくれた西園寺には深く感謝している。今の自分があるのは西園寺のお陰と言っても良い。しかし、そのとき以来、七条は夢を見れなくなってしまった。また傷つくのが怖いから……
(郁は総てを白日の下に曝す……人が隠そうとする傷までも。その迷いのない強さは闇に沈む僕にはとても得難く、今以って郁が必要であることは些かも変わりがない。でも、僕は弱い人間だから……やはり夢が見たかった)
  啓太が幸せなら、それで構わない。そんな綺麗ごとで気持ちを誤魔化していたつもりはなかった……が、同じ苦しみを抱えた者同士が一緒にいたら、互いの傷を舐め合うだけになる。無意識にそのことがわかっていたからこそ、この一週間、啓太の瞳が少なからず自分へ向けられるのを感じながら、色々言い訳をして手を出さなかった。いや、出せなかったのだろう。
(僕は、そんな関係は望まない。たとえ、君の見せる夢がどんなに美しくても……)
  七条は静かに視線を上げた。啓太を諦めた訳ではない。中嶋を認めるつもりもない……が、この迷える魂を早く正しい場所へ還してあげたかった。七条はキュッと拳を握り締めた。
「申し訳ありませんが、伊藤君、やはり僕の答えは同じです。物理的に電源を落とした者がいる以上、不用意にロックを解除するのは危険です。ここには予算に関するあらゆる書類があります。この隙に、それを狙ってくる不心得者がいるかもしれません。ですが、あちらと違って僕達はあまり力技は得意ではありませんからね。暫く様子を見た方が良いでしょう」
「そんな弱気なこと言うなんて、七条さんらしくないですよ」
  クスクスと啓太は笑った。
「僕は単に事実を述べているだけです」
「事実!?」
  啓太が目を瞠った。そっと七条の頬に右手を伸ばす。
「運も永遠も信じてないのに、事実は信じるんですか? それこそ最初から存在しない幻想じゃないですか。事実なんて、ただそう考えるから、そうなるに過ぎないだけ。言い換えれば、主観に満ちた解釈の一つですよ。そんな言葉を使うのは、よほどの自信家か夢想家(ロマンチスト)だけです」
「僕は甘いお菓子の大好きな夢想家(ロマンチスト)ですよ、伊藤君」
「それも、嘘。七条さんは、ここにいる誰よりも実際家(リアリスト)でしょう? オカルトに興味があるのは信じてるからでも、信じたいからでもなく……信じさせて欲しいから。自分が信じるに足る何かを探してるんですよ。もう一度、夢を見るために」
  痛いところを無邪気に突く啓太を七条は哀しそうに見つめた。
「伊藤君、心を閉ざしていたら、どんなに周囲を明るくしても光は届きませんよ」
「……っ……!」
  バシッと乾いた音と共に啓太の掌が一閃した。その手を敢えて受けた七条を、蒼い瞳が鋭く射る。
「七条さんに何がわかるって言うんですか!」
「わかります。他の誰にわからなくても、僕にはわかります。なぜなら、それは、かつて僕自身も経験したこと――……」
「聞きたくない!」
  啓太は逃げようとした。しかし、その腕を七条が捉えた。
「聞いて下さい、伊藤君! 恐れるなとは言いません。ですが――……」
「聞きたくないって言ったでしょうっ!!」
  そう叫ぶや否や、啓太は開きっ放しの資料保管室へ向かって七条を突き飛ばした。
「伊藤君っ……!」
「今日の七条さんは嘘ばっかり! もう何も聞きたくないっ!!」
  素早く閉めたドアを背中で押さえつけながら、啓太は横にあるパソコン机をガタガタと引き寄せた。開かない様にしっかりと重石をする。
「はあ……はあ……っ……」
  ふらふらと後ずさって、啓太は自分の作った防壁をぼんやりと眺めた。七条の声は、もう聞こえない。聞こえないはずなのに……
『出してっ!! ここから出してっ!! 出してよっ!!!』
  どこかで子供が叫んでいる気がした。

(……騒がしいな)
  放課後の喧騒を逃れて、東屋で一人静かに微睡んでいた西園寺は不快そうに瞼を開けた。校舎の方から大勢の声が聞こえる。今は学園内に不穏な空気が満ちているので何かあったのかもしれない。そう思って、西園寺は急ぎ会計室へ戻ることにした。植え込みの角を曲がったところで、フェンシング部の一団がこちらへ歩いて来るのに気づいた。西園寺は足を止めた。この時間は体育館にいるはずの彼らが、なぜ、ここにいるのだろう。
「お前達、何をしている?」
「あっ、女王様」
  西園寺に声を掛けられ、部員達は戸惑いながらも近づいて来た。女王様と呼ばれて、西園寺の視線が更に厳しくなる。
「今は練習中のはずだ」
「でも、あんなに暗くちゃ、練習なんて出来ませんよ」
  誰かが刺々しく言った。その言葉から、西園寺は直ぐ現状を読み取った。
「そうか。電源が落ちたのか」
  生徒会と会計部が学園のシステム上でやり合うのは珍しくなかった。しかし、啓太が影を恐れている今、その争いを終結させるために中嶋が電源を落とすとは思えなかった。七条はそんなことはしない。なら、これは両組織以外の第三者が何らかの意図を持って起こしたと考えるべきだろう。終に動き出したか……
「……」
  西園寺は小さく腕を組んだ。それは全くの無意識だったが、何人かが露骨に顔を顰めた。
「生徒会とトラブルのはいつものことかもしれないけど、俺達にまで迷惑掛けないでくれませんか」
「こっちにも我慢の限界があるんです」
「そうだ! そうだ!」
「幾ら予算を握ってるからって、そうそう勝手なことばっかりやられたら堪りませんよ」
「そもそも、会計部を分離したのが間違ってたんじゃないんですか」
「だから、揉めるんですよ」
  抑えていた文句を次々と口から零す部員達を、西園寺はゆっくり見回した。
  生徒会への不満が会計部へ向けられたことは今まで一度もなかった。会計部が管理するのは出入金のみで、予算認可の権限はあくまでも生徒会にあった。しかし、そんな区別を厳密にしているのは自分達だけかもしれない、と西園寺は初めて気がついた。部にとっては予算が下りるかどうかが重要であり、それに携わる生徒会と会計部の職責の違いは彼らから見たら大差ないのだろう。事実、以前は一つの機関だった。
(もしかすると……)
  そのとき、誰かが小さな声で言った。
「なあ、女王様に会ったんだから、もう生徒会室へ行かなくても良いんじゃねえか?」
「そうだな。王様に言うのも、女王様に言うのも同じだしな」
  それを耳にした西園寺が怪訝そうに二人に尋ねた。
「お前達、丹羽の処へ行くつもりだったのか? なぜ、態々行こうと思った? それに、苦情ならば代表者一名で充分だろう」
「そうですけど……でも、誰かが皆で生徒会室に行こうって……」
「そうそう。こういうときは、皆ではっきり文句を言うべきだって……」
「誰がそう言った?」
「えっ!? それは……なあ、お前、覚えてるか?」
「いや……誰だったかな……」
  彼らは互いに顔を見合わせて首を捻った。
(やはりそうか)
  西園寺はこの停電の目的を確信した。同時に自分の身に危険が迫っていることも……
(生徒達の目を生徒会に引きつけている間に会計部を襲うつもりか。丹羽の長所は同時に短所にも成り得る。諌めるものを失えば、奴の大雑把な性格や振舞いがより際立って見えるだろう。民意とは低きに流れ易いもの。そうなれば、現状の人気がいかに高くとも、持ち堪えられはしない。その先にあるのは……)
  かつて丹羽達が前生徒会に対して行ったのと同じことをしようとしている者達がいる。学園内において絶大な権力を持つ生徒会を倒す唯一の方法。それは生徒達の意思による罷免……リコール。
「……」
  生徒会の総てを肯定している訳ではないが、現時点において丹羽以上に生徒会長に相応しい者はいなかった……自分自身をも含めて。丹羽達は既に計画の概要に気づいているだろう。ならば、今、私がしなければならないことは……無事に会計室へ辿り着くこと。この際、少々不本意なやり方だが、仕方がない……
「そういえば、先日の陳情だが、あれは部の総意なのか? 私には、とてもそうとは思えなかったが」
  西園寺が部員の一人を見つめて尋ねた。それを聞いた別の者が批難する様な声を上げた。
「あっ、お前、勝手に行くなって言っただろう」
「だって、部長がいつまでも合宿場所を決めないから……」
「山か海かで悩んでたんだよ」
「そんなの山に決まってるじゃないですか」
「俺は海が良いんだよ」
  つまらないことで言い争う二人に西園寺は眉をひそめた。しかし、お世辞にも体力があるとは言えない自分にとって、今は人に紛れて移動する以上に安全な方法はなかった。はあ、と西園寺は密かに嘆息した。そして、これを教訓に少し運動もしようと心に決めた。

「ちっ……」
  少し離れた校舎の陰で、西園寺の様子を窺っていた何人かが小さく舌打ちした。
  フェンシング部員達が西園寺の周りで揉めていて手が出せなかった。焦れた一人がポケットから携帯電話を取り出す。
「すまない、浅野、西園寺の確保は出来そうにない」
『そうか……頭を押さえられれば早かったんだが、まあ、仕方ない。お前達は襲撃部隊と合流しろ』
「七条相手にそんなに人数はいらないだろう? 電気がなければ、奴には何も出来ない」
  明らかに不満そうな口調に、電話の向こうから真剣な声がした。
『敵は七条じゃない。これだけ生徒会への不信が高まってる今、この停電の目的に気づいても丹羽は迂闊に生徒会室を動けないだろう。だから、代わりに来るぞ……中嶋が』
  ほう、と男が感嘆した。
「副会長か。成程……相手にとって不足はない」
『奴を甘く見るな。まずいと思ったら、さっさと手を引け。放っておいても、扇動部隊に煽られた連中が勝手に暴れてくれる。それだけでも今の生徒会ならダメージになる』
「そういえば、先刻、永原が息巻いてるのを見たな」
『柔道同好会か。奴らは丹羽にかなり恨みがあるからな。暇なら、それでも眺めてれば良い』
「あいつら、馬鹿だからな」
  小さく笑いながら、男は電話を切った。横で話を聞いていた三人に短く命ずる。行くぞ。
「その必要はない」
「……!」
  突然、降ってきた声にハッと全員が振り返った。すると、沈む夕陽を背に受けて中嶋が一人静かに立っていた。


2009.9.11
いつも何かを背負っている中嶋さん。
相変わらず、こっそりひっそりの人です。
でも、これで七条さんは一息つけました。
ただ、後で啓太は謝らないと……

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Café Grace
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