西園寺はフェンシング部員達を従えて会計室の前まで来ると、ドア越しに声を掛けた。
「臣、啓太、二人とも無事か?」
  会計室のドアは通電していない様に見えて、実は西園寺と七条のカード・キーには反応する仕組みになっていた。どちらかのカード・キーをリーダーに通し、パスワードを入力すればロックは解除される。しかし、室内の状況が全くわからないまま、ドアを開けることに西園寺は一抹の不安を覚えた。フェンシング部員達を連れて来たので襲撃されることはないだろうが、万が一ということもある。揉め事で挟み撃ちになる様な事態はどうしても避けたかった。その隙に、無粋な者達に私の部屋を荒らされては我慢ならない……!
「臣、啓太、私だ。返事をしろ」
  今度は軽くノックしてみた。すると、室内で誰かが囁いた。
「……開け、て……」
「その声は啓太か? 臣はどうした?」
「臣……?」
「七条 臣だ。そこにいるだろう」
「……いないよ」
「いないはずはない。お前と一緒にそこにいるはずだ」
「だから、いないって……今、そう言ったでしょう!」
  バンッッッ……!!!
  癇癪を起こした啓太が拳で乱暴にドアを叩いた。西園寺が静かに片眉を吊り上げた。
  こんな啓太は今まで見たことがなかった。明かりが消えたので、精神状態が不安定になっているらしい。七条ならそれに巧く対処するはずだが、返事がないということは何か予期せぬ問題が起きたに違いないと思った。
  瞬時に事態を把握した西園寺は密かに気を引き締めた。諸刃の剣は慎重に扱わなければ、こちらも怪我をする……
「ならば、啓太、お前の知っていることを言え。一体、臣と何があった?」
「知りたければ、自分の目で確かめたら? この部屋の主たる貴方に開けられない扉はないんだから。それに、浅ましい貴方にはまさにそれこそ相応しい」
「……この私が、浅ましいだと?」
  西園寺の纏う空気が一気に凍った。
「だって、そうでしょう? 知とは、謂わば容易く手折れる花と同じ。眺めて愛でるからこそ美しい。それを貪欲に追い求め、引き千切り、寄せ集める人の姿は、この瞳に浅ましい以外の何者にも映らない」
「それは世界を解く術を他に持つものの言い分だ、啓太」
「へえ~、そうなんだ」
「人の時間は限られている。だが、あらゆる科学的法則や理論は過去に経験した現象に対する一つの解釈であり、未だ真理とは言い切れない。だからこそ、人は次代のためにより多くの事柄を検証し続けてきた。そうして積み重ねて得た努力の賜物が知だ。知とは、自然に野に咲く花と決して同じではない。今、この瞬間も、どこかで誰かが新たな知を模索している。その姿は、私の瞳にただ眺めているものより遥かに美しい」
  すると、ドアの向こうでクスクスと啓太が笑った。
「好きですよ、貴方のそういうところ。光の様に真っ直ぐな貴方は、自らの内に完璧な一つの世界を創造することが出来る。でも、惜しむらくは、それが貴方の限界。完全さを求めるが故に貴方は自分の枠を越えられない……その美を乱すものは決して受け入れられないから」
「……!」
  西園寺は息を呑んだ。透明な声が更に畳み掛ける。
「自分でもわかってるでしょう? この学園で貴方は王と拮抗する唯一の存在だけど、今のままでは決してあの人には敵わない。清濁併せ呑んでなお自らを貫く度量を持ったあの人は、自分の外に無限の世界を創造出来る。でも、貴方は綺麗な井戸の中に棲む小さな蛙。ただ、蛙よりかは賢かった。それが貴方の悲劇」
「私は――……」
  咄嗟に西園寺は反論しようとした……が、一体、何をどう言えば良いのかわからなかった。私は誰かの掌で輝くものになりたい訳ではない。それでは私は何のために生きている……
  深遠の淵に立って、西園寺は自らの思考を研ぎ澄ました。瞳が自然に会計室のドアへと流れる。
  扉とは隔てるもの。無限の可能性を秘めた原石の様な世界から、完全に調和の取れた美しくも停滞する場所を。そして、いずれ開けられるべきものだった……それが役割だから。
(ここは私の美意識に基づいて私が創り上げた空間であり、その主は啓太の言う通り私しかなり得ない。つまり、扉の開放は私が己が枠を踏み越える最初の一歩になる……)
  西園寺といえど、そこに全く不安がない訳ではなかった。その先に待つのは光か、闇か……どう足掻いても人の身には知りようがない。しかし、西園寺はどんなときも常に変わらず、自分であり続けてきた。それは恐らくこれからも変わらないだろう。そうして積み重ねて得た時間は、西園寺の中で自己を形成する絶対的な自信へと変貌していた。
(私は幻に惑わされはしない。なぜならば、私は自らを完全に、完璧に把握しているからだ。ならば、何を躊躇う……!)
  意を決した西園寺はポケットから素早くカード・キーを取り出した。その瞬間――……
「堕ちるぞ」
  背後で中嶋が低く呟いた。
「……っ……!」
  西園寺の肩がビクッと跳ねた……すぐさま動揺を抑え込み、毅然とした態度でゆっくりと振り返る。
「それでも私は構わない……と言ったら?」
「ぐずる子供の相手をまともにするな。疲れるだけだ」
「……」
「それに、あいつは俺のものだ」
  中嶋は静かに西園寺を見据えた。
  西園寺が大きく目を瞠った。そこには病んだ感情が一つもなかった……自分は様々な思いに苛まれたというのに。
「なぜだ、中嶋……なぜ、お前は平然としていられる? 私達の話を殆ど聞いていたのだろう?」
「ああ」
「ならば、わかるはずだ。知ではなく、積み重ねてきた知の過程にこそ意義があるのが。だから、人は生に意味がない訳にはいかない。それが実存するということであり、人の飽くなき知への欲求はまさにその本質に基づいている。それとも、私が総て間違っているのか? 最初に神の様な存在があり、人を創ったとでも? だが、それは誰にも証明出来ない! 違うか!」
  興奮して少し声を荒げた西園寺を見て、中嶋が短く嘆息した。
「そんな水掛け論にいつまでも拘っているから、西園寺、お前は女王様と言われる」
「何だと……!」
「もし、実存が本質に先立つなら、才能のある奴は必ず成功しなければない。成功しなければ、そいつには才能がないことになる。だが、世界はそれほど単純ではない。だから、人は様々な努力を積み重ねる。そんなことはこの学園の者達をきちんと見ていれば、直ぐにわかったはずだ……お前ならな」
「……っ……」
  西園寺が痛そうな顔をした。中嶋が、すっと会計室のドアへ視線を移した。
「強いて言うなら、実存と本質は等しい。そうだろう、啓太?」
「ふふっ……それを決めるのは自分でしょう? 真理とは誰かが知ってるものでも、どこかにあるものでもない。ただ自分の中にだけある……」
  楽しそうな啓太の声に、中嶋が軽く眼鏡を押し上げた。
「希望と言葉はしばしば人を欺くと言うが、どうやらお前にはお仕置きが必要らしい」
  そのとき、廊下の天井にある蛍光灯がパチパチッと音を立てて一斉に点いた。中嶋と西園寺を遠巻きにしていたフェンシング部員達が、おお~っ、と歓声を上げた。
「部長、明かりが点きました!」
「ふう、やっとか」
  正直、彼には西園寺の話はあまり意味がわからなかった。才能や積み重ねてきた練習は自信の礎にはなるが、それだけでは決して試合に勝てはしないと経験で知っていたから。
  勝利の栄光を掴むためには、そこに漠然と存在する――だが、確実に未来へ影響を与える――運が必要だった。
  運を操ることは誰にも出来ない。なら、せめて自分の掌を掠めたときに取り零さないよう感覚を研ぎ澄ますしかなかった。そのためには……
「よし! 練習再開だ!」
  部長の号令に部員達は口々に安堵の声を上げ、ぞろぞろと体育館へ戻り始めた。彼も一緒に歩き掛けて、ハッと立ち止まる。
「あっ、女王様、合宿の件なんですが……」
  わかっている、と西園寺は頷いた……少し渋い顔をしながら。
「後日、改めて会計室へ来るが良い。今は練習に励め。今度の大会は期待している」
「有難うございます」
  ペコリと彼は頭を下げると、部員達と去って行った。その後姿が西園寺には眩しく映った。実践にて理を身に付けてゆく彼らと、机上でそれを得る自分は果たして同じものを見ていると言えるのだろうか。
(今、漸くわかった気がする。一体、私に何が欠けていたのか……)
  しかし、それを深く考えるのは後にした。西園寺は中嶋に尋ねた。
「彼らを配電室へ行かせなかったが、手は打っているな?」
「当然だ。あそこには既に見張りを付けてある。証拠さえ押さえれば、何も急いで捕まえる必要はない。それよりも今は……」
  中嶋は会計室の中を凝視した。考えを読んだ西園寺が慌てて口を挟んだ。
「ドアを蹴破るのはやめろ、中嶋、啓太が怪我をする」
  西園寺はカード・キーを自らリーダーに通した。ピッという聞き慣れた小さな音が妙に大きく廊下に響いた。中嶋、と西園寺が呟いた。
「私はロックを解除するだけで扉は開けない。それはお前の役目だからだ。その代わり、見せて貰おう。お前が啓太の恋人に本当に相応しいかどうか」
「良いだろう」
  中嶋は短く答えた。初めから誰にもこの役をやらせるつもりはなかった。パスワードの入力を待って躊躇うことなくノブを掴む。
  そして、終に扉が開かれた……


2010.4.2
漸く中嶋さんが会計室へ辿り着きました。
言いたい放題の啓太は後で西園寺さんにも謝りましょう。
それにしても……
廊下でする話ではないです。

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Café Grace
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