給湯室で鼻歌を歌いながら、啓太はマグカップやコーヒー・カップの染みを水で練った重曹を使って丁寧に擦り落としていた。綺麗になると、それを次々にシンクに溜めた湯の中に沈めてゆく……慎重に、疵をつけない様に。食器棚には、もうグラスと湯飲みしか残っていなかった。
  使用済みのペーパー・ドリッパーからは、まだほこほこと芳ばしい香りが漂っていた。今日の豆はマンデリン・キリマンジャロ・ブラジルをブレンドしたもの。コクのある苦味が特徴で、ブラックでもカフェ・オ・レでも美味しい。仕事の息抜きとして飲むには適していた。
  啓太は壁に掛けてある時計を見上げた。中嶋さんが会計室へ行って三十分……そろそろ戻って来るかも。そのとき、静かにドアの開く音が聞こえた。
「あっ、お帰りなさい、中嶋さん」
  嬉しそうに啓太は振り向いた。
「ああ」
  中嶋は短く唸った。全身から不機嫌そうな空気が滲み出ている。また七条と激しくやりあってきたらしい。今日は中嶋の分が悪いのは最初からわかっていた。会計部への提出期限を明らかに過ぎた書類だったから。勿論、忘れていた訳ではない。ギリギリで間に合うように中嶋は作成した。しかし、それを持たせた丹羽が途中でトノサマに襲われ、気を失っている間に紛失してしまった。大急ぎで作り直したものの、半日……期限を過ぎていた。そのことを七条に責められ、なじられ、中嶋は腸が煮えくり返っていた。
「俺、コーヒーを淹れたんです。直ぐ持って行きますね」
  啓太が明るい声で言った。
「ああ」
  中嶋は自分の席につくや否や、すぐさま煙草を取り出した。しかし、鼻をくすぐるコーヒーの香りに手が止まる。中嶋の状態を予測して啓太が気を利かせたのだろう。それは自分の行動が読まれている様で少し面白くないが、悪い考えではなかった。まだ胸の奥で淀んでいる、この紅茶の残り香を消すには丁度良い。
「はい、中嶋さん」
  啓太が机にコーヒーを置いた。中嶋はそこへ視線を落とし……目を眇めた。
「何だ、これは?」
「コーヒーです」
「俺が訊いているのは、なぜ、コーヒーが湯飲みに入っているかだ」
「カップがないんです。少しコーヒー染みがついてきたので、今、つけおき洗いをしてます」
「来客用のがあるだろう」
「それも全部つけてしまいました」
  ニコッと啓太は笑った。
  中嶋は密かにため息をついた。器で味が変わる訳ではない……が、こいつは俺を怒らせたいのか。しかし、啓太が期待する様な眼差しで見ているので渋々湯飲みに手を伸ばした。
「あっ、駄目ですよ、中嶋さん、ちゃんと両手で持って下さい」
  啓太が注意した。中嶋はそれを軽く黙殺し、無言でコーヒーを飲んだ。どうですか、と啓太が尋ねる。
「ああ……悪くない」
「良かった」
  ふわりと啓太は微笑んだ。
  最近、啓太は手頃な値段の豆で美味しいコーヒーをブレンドするのが巧くなった。ある程度は経費で落とすことが出来るが、仕事の合間に飲むものにそう高価なものは認められない。仕方なく中嶋は今まで自費でコーヒー豆を用意していた。それをもったいないと思った啓太は、やや深煎りで焙煎度合いの近い四種類の豆を自分でこっそり買ってきた。どれもストレートで飲むには一長一短があるので、中嶋の好みに合うように配合を色々試してみる……
  勿論、最初は駄目だった。コーヒーの淹れ方の基礎は出来ているが、ブレンドとなるとやはり勝手が違う。しかし、啓太はネットで調べた配合率を自分の味覚で調整して、ほどなく良いコーヒーを淹れられる様になった。早速、それを中嶋に出してみた。すると、中嶋は何も言わずに飲み、最後に一言……まだ軽いな、と呟いた。
  その日以来、息抜き用のコーヒーは啓太が経費で収まる範囲でやりくりをしていた。
「もう一杯どうですか、中嶋さん?」
  飲み終えた湯飲みを下げながら、啓太が更にコーヒーを勧めた。
「ああ……だが、今度はきちんとカップに入れろ」
「まだ駄目ですよ。先刻、つけたばかりですから」
「来客用のはそれほど使っていないはずだ」
  中嶋が、じっと啓太を見据えた。すると、微かに啓太の目が宙を泳いだ。
「でも、良く見ると……その……薄い染みがついてます。暫く誰もしなかったから……」
「……そういえば、そうだな」
  ふっ、と中嶋は微笑を浮かべた。右手を伸ばし、優しく啓太の頬に触れる。
「大変だったな、啓太」
「あ……はい、でも、後は洗うだけですから」
  やった、と啓太は心の中で小躍りした。やっぱりあれは本当だったんだ……!
  実は、先日、啓太は新聞で興味深い記事を見つけた。そこには、手が温かくなると人に対して優しくなるという実験について書かれていた。それを読んでいて、ふと啓太は中嶋のことを思い出した。確かに自分は中嶋より体温が高いが、その分を差し引いたとしても中嶋の手や身体は冷たかった。なら、温めれば中嶋さんは、もっと優しくなってくれるかもしれない……!
  早速、啓太は試してみることにした。
  中嶋にカイロを持たせることは出来そうもないので、自然に手が温まる様に記事にある実験と同じ方法を取ることにした。コーヒーを持たせる。しかし、マグカップやコーヒー・カップではあまり熱が伝わらない気がした。両の掌でしっかりと包み込んで持つ物が良い。それには湯飲みが適していた……が、中嶋がそんな物でコーヒーを飲むはずがない。そこで、啓太は更に一計を案じた。
  総てのカップを染み取りと称して使えなくすることにした。
  実際、良く使うマグカップの底は少し黒ずんできたので好都合だった。啓太は重曹でそれを綺麗に落とした。ただ……仕上げに洗わないだけ。本当はあと十分もあれば終わる。そのことを中嶋に黙っているのは言う必要がないから。だから、そう……これは嘘ではない。隠し事の出来ない自分の性格でも、これなら後ろめたさも殆どないので通用するだろうと思った。今日、その計画を実行したのは明らかに中嶋の機嫌が悪くなるとわかっていたから。もし、実験結果が本当なら、中嶋さんはきっと優しくなるはず……
(全部、一度に染み取りするのは大変だったけど……やって良かった)
  啓太は温かい中嶋の掌にもたれ、嬉しそうに瞳を閉じた。すると、中嶋が耳元で低く囁いた。
「なら、それが終わったら……たっぷりお仕置きが出来るな、啓太」
「……えっ!?」
  驚いた啓太の頬を中嶋が両手で挟み込んだ。温かい右手と……冷たい左手。中嶋の口の端が意地悪そうに上がった。
「俺があの記事を知らないとでも思ったのか?」
「えっと……俺、そんなつもりじゃ……」
  啓太は後ずさろうとした。しかし、顔をしっかりと押さえられているので動けない。何か得体の知れない汗が啓太の背筋を伝い落ちた。
「お前が俺をどう考えているのか良くわかった」
「あの……あ……ごめんなさい、中嶋さん」
「謝ることはない、啓太、別に悪いことはしていない。だが、お前も誤りは早めに訂正したいだろう? だから、どこが、どう間違っているのか……これからお前が納得するまで、じっくりと教えてやる。俺は優しいからな」
  そう言うと、中嶋は静かに啓太のネクタイに手を掛けた。
「……っ!!」
  後悔、先に立たず。これは、その言葉を永遠に忘れないと思った、ある冬の日の出来事……


2009.1.2
重曹を使って環境には配慮しても、
詰めが甘かった啓太です。
でも、中嶋さんの優しさは素直でないからわかり難いです。
啓太も苦労します。

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Café Grace
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