啓太は病室のベッドの上に身を起こし、窓越しに新月を見つめていた。今頃、中嶋も寮の自室でこうして夜を眺めているのだろうか。いつも学園島で過ごしているので同じ空間を共有することに慣れてしまい、離れていると酷く心細かった。中嶋という月に自分がいかに侵蝕されているのか良くわかる。重い闇に包まれた空が、まるで今の自分の心の様に思えた。中嶋さん……と啓太は寂しげに呟いた。

  その日の放課後、会計部への書類を山の様に抱えた啓太は廊下をよろよろと歩いていた。
「お、重い……」
  それは丹羽が今まで溜めに溜めたもので、啓太の腕には結構な重量だった。右へ左へと足元の覚束ない啓太に、通りすがりの海野が声を掛けた。
「あっ、伊藤君、そこ気をつけてね。ワックス塗ったばかりだから。僕も先刻ね――……」
「えっ!? 何ですか、海野先生? もう一度……わっ!!」
  啓太の注意がそちらに逸れた一瞬、つるっと踵が滑った。同時に足首が内側に捩れ、重心が後ろに傾く。ドシンッと派手に尻餅をついた啓太の上に大量の書類が降ってきた。
「大丈夫、伊藤君?」
  トノサマを抱えた海野が心配そうに啓太を覗き込んだ。
「……は、はい」
  啓太は小さく頷き、立ち上がろうとして――……
「痛っ……!」
  右足の鋭い痛みに、くるぶしを押さえて固まった。
「捻った?」
「……みたい、です」
  啓太は顔を顰めた。足首から疼く様な嫌な熱が広がり、僅かも動かすことが出来ない。海野がトノサマに言った。
「トノサマ、七条君を呼んできてくれる? 伊藤君、立てそうもないから」
「ぶにゃ~ん」
  トノサマは返事をする様に鳴くと、会計室の方へ走り去った。海野はそれを小さく手を振って見送ってから、辺りに落ちている書類に目を向けた。
「伊藤君、これ、どこに――……」
「啓太っ!!」
  突然、廊下に大声が響き渡った。和希が血相を変えて啓太の元に飛んで来る。
「どうした! 何があった!」
「あ……うん、ちょっと足を捻ったみたいなんだ」
「右足か? 見せてみろ」
  和希は生徒という今の状況を忘れ、大人びた口調で言った。啓太の傍に跪き、そっと靴を脱がせる。それだけで啓太は小さく呻いた。
「痛むか?」
「うん……でも、平気」
「……そうか」
  靴下も取り去ると、和希は皮下出血の有無や腫れ具合を丹念に調べた。
「靭帯は断裂していない。恐らく捻挫だな。だが、念のため今直ぐ病院へ行こう」
「えっ!? 良いよ、病院なんて。捻挫なら湿布しとけば治るから」
「駄目だ。レントゲンで骨折の有無と関節にずれが生じていないか確認する。捻挫は早期治療を適切に行わないと癖になるからな。この書類は総て会計部へ提出するものか……海野先生、啓太の代わりにお願い出来ますか?」
「あ……うん、わかった」
「助かります。さあ、行こう、啓太」
  そう言うと、和希は啓太を抱き上げようとした。わっ、と啓太は慌てた。恥ずかしさで一気に耳まで真っ赤になる。
「か、和希! 大丈夫だよ、そんなことしなくても! 肩だけ貸してくれれば、俺、ちゃんと歩けるから!」
  啓太は左手に自分の靴と靴下を持ち、右腕を和希の肩に回した。仕方なく和希はその手を掴むと、啓太の腰を取って立ち上がらせた。そして、海野に軽く頭を下げると、片足を宙に浮かせた啓太を支えて歩き出した……

  正門の前で啓太をタクシーの後部座席に乗せ、和希もその後に続こうとしたとき、ポケットの中で携帯電話が震えた。
「ごめん。啓太」
  一言、謝ると、和希は車から少し離れて電話を取った。
「石塚、どうした……ああ、またか……いや、今はまだ戻れない……ああ、そうしてくれ。それなら、暫く持ち堪えるだろう」
  電話の内容を察して、啓太が小さく口を挟んだ。
「和希、俺は一人で平気だよ。和希はサーバー棟へ向かう途中だったんだろう? なら、俺のことは気にしないで仕事に行ってよ」
「……石塚、少し待っていてくれ」
  和希は通話口を押さえて優しく微笑んだ。
「啓太、気持ちは嬉しいけれど、その足では歩けないだろう? そういう訳にはいかないよ」
「大丈夫だよ。俺、片足で跳ねて行くから。それに、今日は六時から跳ね橋の保守点検があるじゃないか。和希だって、そのためにシステムを調整しないといけないって言ってただろう?」
「ああ、でも、それはシステム担当の職員で何とかなる」
「何とかならないから、石塚さんが電話してきたんじゃないか。だったら、俺よりそっちを優先させるべきだろう? 和希はここの責任者なんだ。また前の様な事故が起きたら、今度は怪我人が出るかもしれない。そんなのは嫌だよ、俺。だから、和希の目できちんと点検して欲しいんだ」
「啓太……」
  啓太が転校初日に巻き込まれた跳ね橋の事故……あれは死者が出ても不思議ではないものだった。あのとき、啓太は誰も責めず、何も語らなかった。しかし、怖かったはずだ、と和希は思った。啓太がそれを口にしないのは、言えば誰かの責任問題になるから。あの件が大事にならずに済んだのは奇跡的に怪我人が出なかったことと、人の悪意など微塵も疑わない啓太の優しさによるものだった。だから、和希は啓太の気持ちに報いようと跳ね橋に関するシステムを総て一から見直し、安全面の機能を徹底的に強化した。今日は、それ以来、初めて行われる保守点検だった……が、故に一般のシステム職員では対応し切れない事態も多く、朝から和希の携帯電話には頻繁にその連絡が入っていた。
(あのときの啓太の心を無駄には出来ないな)
「わかった。俺は残るよ、啓太」
「うん」
  小さく啓太は頷いた。
「場所はわかる?」
「うん、大丈夫」
「なら、後の手配は俺がやっておくから。向こうについたら、啓太は総てそこの人の言う通りにすると約束して?」
「……わかった。約束するよ、和希」
  啓太は少し引っ掛かるものを感じたが、素直に和希の好意を受けることにした。そうしないと、過保護な和希は病院までついて来ると言い出しかねない。こんな怪我でそこまで迷惑は掛けられない、と思った。
  和希はふわりと微笑んだ。お願いします、と運転手に声を掛ける。すると、静かにドアが閉まって車は滑る様に走り始めた。

  学園島から三十分ほどの距離にある大きな総合病院の車寄せ(ポーチ)に到着すると、そこには既に車椅子と看護師が待機していた。彼らに従い、啓太は整形外科の診察室へと向かった。
  やはり捻挫だった。
  骨や関節に異常はなかったが、内側の靭帯を痛めているので暫く無理をしないで下さい、と医師に言われた。わかりました、と啓太は頷いた。医師はパソコンに何か打ち込むと、看護師を振り返った。
「君、伊藤さんを病室へ」
「はい、先生」
「えっ!? 俺、入院するんですか!? どうして?」
  啓太は不安そうに医師を見つめた。すると、医師は穏やかな声で告げた。
「院長からその様に、と」
「……」
  和希だ、と啓太は直感した。
  綺麗な個室に入るなり、啓太は直ぐ受話器を取った。和希と約束したので医師や看護師の前では大人しくしていたが、捻挫で入院は幾ら何でも大袈裟過ぎる。和希に断りの電話を入れたら、啓太は学園島へ帰るつもりだった。しかし――……
『……ごめん、啓太、跳ね橋は通行止めでもう車は通れないんだ。それに、直に上がる。そうしたら、明日の朝まで降ろせないから今夜はそこに泊まるしかないよ。着替えと洗面道具は用意してあるから。後で迎えの者が行くよ、啓太……』
(確かに橋が上がってたら帰れないけどさ……和希の馬鹿)
  暗い空へ向かって啓太は無音で呟いた。
  こんなにも急に、全く何の心構えもなく中嶋から離されるとは思っていなかった。一緒のときを過ごせるのは今だけというのは良くわかっている。そう遠くない将来、二人は同じ月を違う場所で見つめることになるだろう。でも、それは今じゃない。今じゃないのに……
「……っ……」
  蒼い瞳に涙が浮かんできた。
  無為に零れてゆく時間が惜しくて堪らなかった。この一分、一秒が中嶋との別離へ繋がると思うと居ても立ってもいられない。中嶋の想いや言葉を信じない訳では決してないが、啓太はどうしても自分に自信が持てなかった。あんなに素敵な人だから。本当に中嶋がまだ自分を望み、愛しているのか……こんなときだからこそ、傍にいて確かめたい。啓太は中嶋に逢いたくて仕方がなかった。逢いたい……逢いたい……中嶋さん……
「やっぱり帰る!」
  終に我慢出来なくなった啓太はベッドから勢い良く立ち上がった。しかし、途端に足首に鋭い痛みが走って床に崩れてしまった。頬を伝った雫が点々とパジャマの上に落ちる。
(中嶋さん……中嶋さん……)
  啓太は震える口唇を必死に噛み締めた。音にすれば、もっと辛くなってしまうから、名前は絶対に呼ばない。でも……
(貴方はまだ俺を望み、愛してますか、中嶋さん……)
  すると、信じられない声が聞こえた。
「啓太」
「……!」
  ハッと啓太は顔を上げた。一瞬、蒼穹の瞳が大きく見開かれる。視線の先……ドアの処に啓太が想い焦がれていた恋人の姿があった。
「どう、して……?」
「遠藤から聞いたはずだ」
  中嶋が、ゆっくりと近づいて来た。
「まさか……迎えの者って……」
「お前のことだ。寂しくて泣いているだろうと思っていたが、案の定、そうだったな」
「違っ……これは、その……あ、足が痛いからです」
  啓太は慌てて掌で頬を拭った。あまりに見え透いた言葉だったが、中嶋を想って泣いた涙を当の本人にからかわれるのは嫌だった。そんな啓太の心を察したのか、それ以上、中嶋も追求しようとはしなかった。
  ベッドに腰を下ろすと、中嶋が静かに言った。
「足を見せろ」
「あっ、はい」
  啓太は立とうとした……が、中嶋が瞳でそれを止めた。
「足だけ上げれば良い」
「はい」
  床に座ったまま、啓太は両手を後ろにつき、右足を伸ばした。中嶋はふくらはぎを優しく取って静かに踵を膝の上に乗せた。啓太が少し顔を顰めた。
「包帯が緩んでいるな。無理に立とうとするからだ」
「ごめんなさい……」
  今にも消えそうな声で啓太は謝った。中嶋は無言で包帯を外すと、足首をしっかり固定する様に巻き直し始めた。
「……」
  それを下から眺めている内に、また啓太の瞳に涙が滲んできた。普段と全く変わらない中嶋の言動に不安が胸を過ぎる。もしかしたら、中嶋の想いは自分が考えているほど強くはないのかもしれない、と。俺が単にそう信じたかっただけ。そもそも、この恋は最初から不釣合いだとわかってた。いつまでも一緒にいられる訳がない……
  すっと涙が頬を伝った。
(俺、そのときが来たら、ちゃんと言えるかな……さよならって……)
「……全く」
  包帯を巻き終えた中嶋が短く嘆息した。
「お前は少しでも放っておくと、ろくなことを考えないな」
「……そんなことないです。でも、俺、中嶋さんの足枷にはなりたくないから……だから……」
「なら、俺がお前につけてやる」
  そう言うと、中嶋は啓太の右足の甲におもむろに口づけた。薄い皮膚を舌先で撫で、強く吸い上げる。
「……っ……!」
  眩暈がする様な熱い感覚に、思わず、啓太は息を詰めた。やがて濡れた音と共に中嶋の口唇が離れたとき……そこには小さな赤い印がついていた。
「これでもまだ不安か?」
  中嶋が啓太の瞳を捉えて囁いた。
「俺、ずっといても良いんですか……中嶋さんの傍に?」
「お前を手放す気はないと言ったはずだ」
「はい……はい、中嶋さん」
  零れる涙を拭いもせず、啓太は綺麗な顔で微笑んだ。
  月のない夜だからこそわかるその輝き。たまには、そんな日も良いかもしれない……


2009.2.20
時間軸設定が
『曙光』後から『扉』前になっています。
やっぱり啓太に甘い中嶋さんです。
でも、あの可愛い顔で泣かれたら仕方ないです。

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Café Grace
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