「……なあ、啓太……お前、中嶋と付き合ってるよな」
 書類に生徒会長印を押しながら、不意に丹羽が口を開いた。
「えっ!? あ……はい」
 啓太はテニス部の遠征申請書を繰る手を止めて小さく頷いた。隠し事の出来ない性格なので知っている者は知っているが、改めて訊かれると何か恥ずかしかった。今、中嶋は資料保管室でファイルを探している。その機会を狙っていたのか、突然、丹羽は啓太の方へ大きく身を乗り出してきた。
「なら、恋人らしいこともしてるのか?」
「し、してるって……何を言ってるんですか、王様!」
 ポンッと啓太が一気に沸騰した。
 まさか丹羽からそんなことを尋ねられるとは思ってもいなかった。確かに中嶋とはもう何度も身体を重ねている。この部屋で抱かれたこともあった。しかし、今週は小テストと提出課題の期限が重なっていたので、夜はずっと和希や中嶋に難しいところを教えて貰っていた。もしかして、欲求不満が顔に出ているのかも、と啓太は密かに蒼ざめた。
(昨日、中嶋さんも同じこと言ってた。物欲しそうな瞳だって。俺、そんなことありませんって言ったけど、本当は自分でも少し自覚ある。王様にも指摘されるなんて……一体、俺、どんな顔してるんだろう……)
 小さく俯く啓太に丹羽が再び声を掛けた。
「どうやらしてねえ様だな」
「……はい」
「まあ、中嶋相手じゃ難しいのはわかるけどな」
「……!」
 啓太はキュッと口唇を噛み締めた。今まで誰かと付き合うどころか告白さえしたことのない自分では、恋愛経験の豊富な中嶋を満足させるのは難しいとは思っていた。
(快楽の海に溺れるのはいつも俺一人。それは、わかってたけど……)
 丹羽のその言葉は啓太の耳にとても痛かった。
「俺、まだ慣れてないから……その……良くわからないんです」
「う~ん、あれは不意討ちがセオリーだが、中嶋の奴、なかなか隙を見せねえからな。それに、あの眼鏡も邪魔だよな」
「……? 眼鏡は外してますけど」
「なら、気配を読まれてるな。確かに直に触られると指紋がつくからな。全く……細かいあいつの考えそうなことだぜ」
 丹羽は腕を組んで天井を見上げた。何かを考え込んでいる。啓太はコクンと首を傾げた。
(気のせいかな。微妙に話が噛み合わないんだけど……)
「よし、啓太! 俺が手を貸してやる!」
 パシッと丹羽が拳を叩いた。
「えっ!? 手って?」
「中嶋の眼鏡は俺が外してやるって言ってんだ。だから、啓太はその隙やれ」
「や、やるって……俺からですか!?」
 大きく目を見開いた啓太に、当たり前だろう、と丹羽は頭を掻いた。
「俺がやったら気持ち悪いし、第一、啓太も嫌だろう?」
「それは、そうですけど……」
「なら、啓太しかいねえじゃねえか」
「で、でも……」
 組んだ指先を、くるくると啓太は回した。
(中嶋さんを自分から誘うなんて……中嶋さんは俺が誘ってるって良く言うけど、俺にはそんな自覚ないし……なのに、急に言われても……あっ……!)
「あの……王様?」
「うん?」
「眼鏡を外したら……その……王様はどうするんですか?」
「どうって……俺がここにいたら落ち着かねえか?」
「そういう問題ではなくて……幾ら王様でも、俺、そんなところは見られたくないです」
「まあ、そうだな。普通、あれは二人でするもんだよな」
 コクンと啓太は頷いた。
 中嶋を誘惑する方法など啓太には一つしか思い浮かばなかった。口唇を重ねて、抱いて下さい、と囁く。その後は流れに任せれば良い。しかし、想像するだけでも顔から火が出るほど恥ずかしいので、そんな姿を他人には絶対に見られたくなかった。
「なら、俺はここにいねえ方が良いよな」
 ニカッと丹羽は破顔した。その瞬間、地を這う様な低い声が聞こえた。
「どこへ行くつもりだ、丹羽?」
 中嶋が氷の瞳で丹羽を見据えながら、後ろ手に資料保管室のドアを閉めた。しかし、丹羽はその物騒な気配を鮮やかに無視して大股で歩み寄ると、いきなり中嶋の眼鏡をさっと奪い取ってしまった。慌てて啓太が立ち上がる。
「お、王様っ……!」
「ほう?」
 左の柳眉が僅かに吊り上がった。中嶋の周囲から急速に温度が奪われてゆく。啓太が急いで丹羽へ駆け寄った。
「王様! 中嶋さんの眼鏡を返して下さい!」
「何、言ってんだ、啓太? これがあったら邪魔だろう?」
「別に邪魔じゃないです!」
「なら、ハンカチでも使うつもりか? それじゃ雰囲気が出ねえだろう? やっぱりこういうのは素手でやらねえとな。それが正しい恋人同士のあり方ってやつだ」
 うんうんと丹羽は頷いた。
「だからって、これじゃあムードも何も……」
「説明しろ、啓太」
 中嶋が二人の会話に割り込み、啓太を睨みつけた。
「えっと……あの……それは……」
 もごもごと口籠もる啓太を見兼ねて、代わりに丹羽がビシッと中嶋に言い放った。
「中嶋、啓太から聞いたぞ。お前、最近、恋人らしいことしてねえそうだな。幾ら仕事が忙しいって言っても、少しは啓太のことも考えてやれよ。これじゃ啓太が可哀相だろう!」
「……」
「お、王様……」
 もう啓太は泣きたくなってきた。恋人を満足させていないと丹羽に指摘され、中嶋が深く静かに怒っているのが手に取る様にわかる。確かに俺は欲求不満かもしれないけど、それは中嶋さんだけのせいじゃないのに。王様の馬鹿~!
「なら、俺にどうしろと?」
 中嶋は小さく口の端を歪めた。
「まずは座れ」
 丹羽が中嶋の椅子を指差した。無言で中嶋は自分の席につくと、ゆっくりと長い足を組んだ。すかさず丹羽が顎で啓太に合図を送る。
(こんな状況で俺にやれって言うんですか!?)
 啓太の瞳に、じわっと涙が滲んできた。丹羽は最後まで見届けようと腕を組んで仁王立ちになっている。もう梃子でも動きそうになかった。
(人前でキスなんて出来ないよ、俺……でも、このままじゃ王様、絶対、納得してくれない……)
 絶望的な気持ちで啓太は中嶋を見た。すると、射る様な視線が啓太の胸を貫いた。
「……っ……!」
 ピシッと啓太が凍りついた。丹羽が大きく息を吐く。
「中嶋、啓太を脅かしてどうするんだよ。それに、啓太も啓太だ。こういうのは後ろからって決まってるだろう」
「王様、俺には無理です! 出来ません!」
「諦めるな、啓太! 恥ずかしいのは最初だけ……要は慣れだ!」
「でも、王様!」
「でも、じゃねえ! 後は簡単だろう! こうやって……」
 丹羽が半ば泣き顔の啓太の腕を引っ張った。無理やり中嶋の後ろに立たせる。
「両目を塞いで、誰だって言うだけだ!」
「……えっ!?」
 パチリと啓太は目を瞬いた。一瞬、自分の耳を疑ってしまう。もしかして……王様の言う恋人らしいことって、これのこと?
 後ろに立つ丹羽の顔を恐る恐る窺うと、力強い瞳が大丈夫だと言う様に頷いた。
(何だ……)
 ほっとすると同時に全身の緊張が解けた。
 啓太は漸く自分が大きな勘違いをしていたことに気がついた。良く考えてみれば、情事の度合いを訊くなど全く丹羽らしくない。道理で話が噛み合わなかった訳だ、と密かに胸を撫で下ろした。しかし、それで問題が解決した訳ではない。丹羽から、ひしひしと無言の圧力を感じる。
(やっぱりやらないと駄目か)
 はあ、と啓太はため息をついた。
「あ、あの……それじゃあ……失礼します……」
 そっと両手を上げ、啓太は中嶋の目を軽く塞いだ。その瞬間――……
「良くやった、啓太!」
 大きな声が響くと同時に、丹羽が中嶋のジャケットのポケットから何かを抜き取った。ドアがバンッと開き、勢い良く廊下へ飛び出してゆく。
「王様……?」
 コクンと啓太は首を傾げた。一呼吸、遅れてハッと息を呑む。しまった! 逃げられた!
 最近、丹羽は全く仕事をしていなかった。新しいルアーを手に入れたので、釣がしたくて仕方がないらしい。お陰で、生徒会室は完全に書類で埋まってしまった。その状態に業を煮やした中嶋が、終に丹羽お気に入りの新型ルアーを人質に取るという暴挙に打って出た。
『……卑怯だぞ、中嶋……』
『……お前が真面目に仕事をしないからだ。今日中に溜まった書類を総て片づければ、これは無事に返してやる。だが、もし、逃げたら、もう二度とこのルアーには会えないと覚悟しろ……』
『……くっ……』
 あのときから、丹羽はルアーを取り戻す機会を狙っていた。当然、中嶋はそれに気づいていたので逃亡を阻止出来たはずだが、敢えてそれをしなかったのは啓太がいたためだった。座った状態で丹羽の前に立つ啓太を避けて蹴りは放てない。ルアーを抜き取る瞬間に丹羽を取り押さえるにも、暴れた手が啓太に当たるかもしれないので出来なかった。この至近距離でそんなことが起こったら、恐らく青痣程度では済まないだろう。丹羽が急には止まれないのを中嶋は良く知っていた。
(中嶋さん……俺に怪我をさせないために態と王様を見逃したんだ。多分、王様もそれをわかってた。だから、今日が期限のものだけは終わらせてから逃げたんだ)
 逃亡者なりの仁義に啓太が少し感心していると、冷たい指が右手首をきつく捉えた。椅子が静かに回転し、座ったまま、中嶋が啓太を見上げる。
「……っ……」
 啓太の背に悪寒が走った。
 中嶋は優しいが、厳しくて意地悪なのも……また事実だった。丹羽の意図に気づかなかったとはいえ、啓太は中嶋の目を塞ぎ、逃亡に堂々と手を貸してしまった。そのことを完全に忘れていた……
(中嶋さん……怒ってる……)
 沈黙が重く肩に伸し掛かった。啓太は身じろぎ一つ出来ず、まるで判決を言い渡される被告人の様な気分で中嶋の言葉を待った。すると、耳障りの良い低い音が啓太に柔らかく尋ねた。
「そんなに恋人らしいことがしたかったのか、啓太?」
「えっ!?」
 中嶋の言う『恋人らしいこと』が何か、咄嗟に啓太は判断出来なかった。王様と同じ意味で言ってるのかな。それとも……
 困惑する啓太に、中嶋が奇妙に優しい微笑を浮かべた。
「仕事はまだ大量に残っているが、不満を溜め込むのは身体に良くない。幸い、お前と丹羽のお陰で、今日の分には目処がついた。その礼に、これから明日の朝まで、たっぷりと恋人らしいことをしてやろう。お前は目隠しが好きな様だからな」
「……っ……!」
 手を引くよりも早く中嶋が啓太を絡め取った。あっと言う間に机に押し倒されると、大きな掌が瞼の上に落ちてくる。
「んっ……っ……ふっ……」
 重ねた口唇から沁み込む淫らな感触に眩暈がした。こんな場所で、と抵抗しようにも自覚より遥かに渇いていた身体が勝手に熱くなってしまう。啓太はその背にキュッとしがみついた。
(中嶋、さん……)
 塞がれた目に中嶋の影だけは輝いて見えた。だから、啓太は理性と羞恥を暫く横に置くことにした。中嶋に満たされてゆく幸せにもっと浸りたかった。この不満が消えるときまで。貴方がいなければ、俺の瞳には昼も夜もないから……



2009.6.12
思い切り勘違いの啓太です。
でも、お仕置きにしてはかなり甘いです。
中嶋さんも恋人らしいことをしたかったのかな。

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Café Grace
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