酷い夕立の中を石塚はサーバー棟へ向かって走っていた。
 明日の理事会の準備で忙しいにもかかわらず、瑣末な事柄で研究所まで呼び出された。しかも、そこを出たときは小雨程度だったものが、あっと言う間に本降りになり、ずぶ濡れになってしまった。顔に当たる大きな雨粒を手で避けながら、全く……ついてない、と思った。
 漸くサーバー棟の玄関に辿り着くと、直ぐに入口の電子ロックを解除した。今日は梅雨寒なので、濡れた身体で外にいたくはなかった。中に入るとポケットからハンカチを取り出し、まずは眼鏡を拭く……が、湿ったハンカチではきちんと水滴を拭うことが出来なかった。石塚は天井の明かりに眼鏡をかざして眉をひそめた。これでは良く見えない。
(目を悪くしたのは、私の人生における最大の失敗ですね)
 眼鏡を内ポケットにしまい、石塚は苦々しく口唇を噛み締めた。額に張り付く髪を神経質にかき上げ、取り敢えず、秘書室へ向かうことにする。サーバー棟に泊まり込んで仕事をすることもあるので、常に着替えを一式、用意してあった。そこまでなら眼鏡なしでも歩けるだろう。そう思って足を踏み出そうとしたとき、急に背後から声を掛けられた。
「石塚さん?」
 ハッと振り返ると、薄茶色の傘を持った啓太がパタパタと駆け寄って来た。
「凄い……びしょ濡れですね。大丈夫ですか?」
 啓太は自分のハンカチで石塚の肩や胸を拭き始めた。石塚は目を細めて、じっと啓太を見つめた。
 赤いジャケットの隙間から覗く首筋は透ける様に白く、肌も滑らかそうだった。雨の湿度のせいか、そこから不思議なまでに甘い香りが立ち上ってくる。それを深く吸い込むと、頭の芯が軽く痺れて眩暈がした。先ほどまで苛立っていた気持ちが、すうっと安らいでゆく。ああ、この時間が永遠に続けば良い……と石塚は小さく瞳を伏せた。
「……」
 啓太は心配そうに石塚を見上げた。和希の秘書を務める石塚が日頃から多忙なのは良く知っていた。冷たい雨に打たれて気分が悪くなったのかな。何か少し疲れてる様にも見えるし……
「あの……本当に大丈夫ですか? 熱でもあるんじゃないですか?」
「……!」
 ハッと石塚は息を呑んだ。
 いつの間にか、思いも寄らない至近距離に啓太の顔があった。蒼く澄んだ二つの瞳に、密かに抱く黒い欲望を見透かされた気がして背筋が凍りつく。それは、啓太には決して悟られてはならない感情だった。迂闊だった、と石塚は心の中で自分を叱った。しかし、同時に理不尽な怒りも込み上げてきた。勝手に人の心を覗くとは……!
「……っ……!」
 石塚は啓太の右手を捉えると、力任せにダンッと横の壁に押しつけた。小さな呻き声が上がり、傘が乾いた音を立てて床に落ちる。
「石塚、さん……?」
 痛みに顔を僅かに顰めながら、啓太は石塚を見つめた。眼鏡を外しているせいか、石塚は日頃の柔和さが消えて怖いほど冷たい顔をしていた。そうか、と啓太は気がついた。
「ごめんなさい、石塚さん、驚かして。眼鏡がないから良く見えないんですね」
 安心して下さい、と啓太は石塚の胸をポンポンと軽く叩いた。慌てて石塚は啓太の手を離した。
「すみません、伊藤君、私は……」
「気にしないで下さい。俺も悪かったんですから」
 啓太は笑顔で傘を拾い上げた。
「いえ、そんなことは――……」
「あっ、雨、やんだみたいですね」
「……!?」
 言われて外を見ると、あれほど激しく降りしきっていた雨は完全に上がっていた。重く垂れ込める雨雲の隙間から細く一条の光が差している。それを受けて総てを許す無垢な手がしなやかに石塚へ伸ばされた。
「石塚さん、この傘、和希に返しておいて貰えますか? もう大丈夫みたいだから」
「……はい、そうですね。もう大丈夫です」
 石塚は小さく頷き、傘の柄をしっかりと掴んだ。啓太がペコリと頭を下げた。
「それじゃあ、失礼します、石塚さん」
「気をつけて帰って下さいね」
「はい、有難うございます」
 もう一度、啓太はお辞儀をすると、元気に生徒会室へ戻って行った。
 その姿を無言で見送りながら、石塚はキュッと掌を握り締めた。虚しく自らに問う。人が肉体に纏わる宿命として持っている弱さ。それに私はいつまで堪えていられるのだろう、と……



2009.7.3
少し機嫌の悪い石塚さんです。
有能な秘書は多忙なので備えは万全ですが、
あまり運は良くない様です。

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Café Grace
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