啓太はコピーした資料を丁寧に纏めて、トントンと軽く角を合わせた。端をホッチキスで留めて完成。単純な作業の繰り返しだが、啓太は文句一つ言わず、慣れた手つきで仕事を片づけていた。そのとき、ふと右手首に妙な違和感を覚えた。
「……?」
  手を止め、そっと袖のカフスを外した。捲って見ると、薄く赤い痕がついている。あっ、先刻の……
「その手はどうした?」
「……!」
  顔を上げると、いつの間にか、中嶋が傍に立っていた。啓太は小さく首を振った。
「別に何でもないです。俺がちょっと不用意なことをしたから驚いて掴まれただけです」
「……そうか。それが終わったら、これを分類してファイルに綴じておいてくれ」
  中嶋は素っ気無くそう言うと、啓太の机に書類の束を置いて自分の席へ戻って行った。はい、と啓太は素直に返事をした。それから、再び手首に視線を落とす。状態を確かめる様にクルクルと回してみた。
(う~ん、別に痛くはないんだけど……)
  その痕は痣になるほどではなかったが、なぜか酷く疼いた……まるで石塚にまだ掴まれているかの様に。自分が他人からどれほど魅力的に見えるか自覚しない啓太には、石塚の瞳に潜む色彩(いろ)の意味が全くわからなかった。ただ、いつになく険しかったあの顔が……まだ冷め切らずに残っている手首の熱が朧にそれを責めている気がした。
(驚いたんじゃないなら、どうしてあんなことしたんだろう?)
  啓太は、あの直前に何をしていたか良く考えようとした。確か……あのとき、石塚さんがぼうっとしてたから、俺、気分が悪いのかもしれないと思って――……
「啓太」
「あっ、はい」
  ドキッと啓太は飛び上がった。石塚のことを考えていたので、先ほど受け取った書類にはまだ手もつけていなかった。
「すいません、中嶋さん、直ぐファイルします」
  すると、中嶋が少し不機嫌そうに言った。
「その手を出せ」
「あ……はい」
  言われるまま、啓太は右手を差し出した。
  中嶋は持っていた冷却シートを痕の上に貼ると、取れない様に筒状のネット包帯を啓太の手首に嵌めた。啓太の肌に他の男の印が残っているのは酷く気分が悪かった。そこに誰かの黒い欲望が絡みついているのが、はっきりとわかる。暢気なこいつに態々そのことを教えはしないが、こんなものは直ぐに俺が消し去ってやる……!
「この程度なら、暫く冷やせば気にならなくなる」
「有難うございます、中嶋さん」
「遊んでいないで、さっさと仕事をしろ」
「はい」
  大きく頷くと、啓太は書類に手を伸ばした。分類しながら、時折、手首を見て微笑を噛み殺す。俺のこと心配してくれたんだ。やっぱり優しいな、中嶋さん……
  冷たい感触が余計な熱を奪うにつれ、啓太の中で徐々に石塚の影が薄くなっていった。やがて疼きも消えて、恋人がくれた小さな幸せだけが心を満たしてゆく。無邪気なその瞳は未だ開かれないまま……


2009.7.3
時間軸的に『夕立』の続編になっています。
啓太に届かない石塚さんの想い。
もしかしたら、中嶋さんも同じ路を辿ったかもしれない。
そんなことを思った、ある梅雨の日の朝……

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