秘書室で石塚は一人静かに仕事をしていた。
  表面上は何の変化もないが、実はかなり気分が沈んでいた。ここ数日、啓太が理事長室へ来ていない。お陰で、窓の外を見る度に啓太が歩いていないかと無意識に姿を探してしまった。しかし、そんな偶然が起こるはずもなく……結果、石塚は酷く憂鬱になっていた。何度目かのため息をついたとき、横から穏やかな声が聞こえた。
「石塚はんに、そないにため息をつかせはるとは罪作りな子ですな」
「……!?」
  石塚は仕事の手を止め、加賀見を見上げた。いつの間に入って来たのだろうか。全く気配がしなかった。微かに不快な表情を浮かべた石塚に、加賀見は柔らかく微笑み掛けた。
「いつまで見てはるつもりですか、石塚はん?」
「何のことですか?」
「あの子のことです……伊藤啓太。可愛い子ですな。それに、人を惹き寄せる……まるで陰が陽を引きつける様に。この学園を卒業したら、完全に手が届かなくなってしまいます。そうなる前に……奪いなはれ。貴方も、本心ではそれを望んではるでしょう?」
  クスクスと加賀見は笑った。
「伊藤君には既に恋人がいます。私は、あの子が幸せなら、それで満足です」
「綺麗ごとはやめなはれ。人が真に満足するのは欲望を満たしたときだけ。それが他人のものなら……奪うしかない。あの白い柔肌に口づけて、心ゆくまでその甘い蜜を堪能しなはれ。闇に浮かぶ淫らな肢体は必ずや石塚はんの想像を越え、今まで見てはるだけでは決して知り得な――……」
「加賀見さん」
  石塚が言葉を遮った。
「私を迷わせたいのならば、もっと天使の顔をしてくることです」
「おや、これでは駄目ですか?」
「ええ、ただ耳に毒な言葉が際立つだけで不愉快です」
  そう言うと、石塚は帰れと言わんばかりに書類を差し出した。加賀見が小さく肩を竦めた。
「どうやら石塚はんを怒らせてしまいましたな。仕方ありません。退散しましょう……が、これだけは覚えておきなはれ。見てはるだけでは永遠に真実はわからない。真、それを知りたいのなら、自らそこに手を伸ばすしかない」
  加賀見の爪が石塚の指をすうっと掠めて書類を掴んだ。すると、石塚が反対の手で加賀見の腕を急に鷲掴み、強引に自分の方へ引き寄せた……!
「……っ……」
  加賀見が顔を歪めたが、石塚はそれを無視する。
「加賀見さん、もしも、ある瞬間において総ての物質のその最小の部分まで知り尽くした知性が存在するならば、彼にとって不確実なことは何一つなく、過去も未来も手に取る様にわかるでしょう。この意味……貴方には、わかりますよね?」
「ラプラスの悪魔ですな。総てを知り、未来をも予見する知性……宗教的には神とも呼ばれる。ですが、原子や素粒子の位置と運動量の両方を正確に把握することは不可能です。それは量子力学によってわかってはります。一秒後の未来を知るために、一秒以上掛かっては意味がありませんな」
「……ええ、その通りです」
  石塚の指に更に力が入った。
「たとえ、ラプラスの悪魔といえども、未来を計算することは出来ません。ましてや、人の身である以上、真実がわかろうはずがありません。結果が同じならば、どちらを選ぶかは私の好みの問題です。つまり、余計なお世話ということです。私は今のままで充分、満足です」
  僅かに指が緩んだ隙に、加賀見は石塚の手を振り払った。掴まれていた部分が酷く疼き、無意識に腕を擦る。見かけより、案外、握力がありますな……
「石塚はん、私は今まで色々な人に会いましたが、貴方が一番手ごわい。ですが、そういうところを私は好いてるのかもしれませんな」
「私もですよ。貴方は私が忘れそうなことをいつも思い出させてくれます」
(そう……私は見ているだけで良い。あの子が幸せならば、ただそれだけで……)
  胸の奥の欲望にそっと蓋をして、石塚は再び仕事に目を向けた。加賀見も無言で踵を返してドアを開ける。すると、廊下をこちらへ歩いて来る茶色の癖毛を見つけた。ふっ、と加賀見の口の端が上がった。視界の隅で石塚を捉えながら、人好きのする顔で声を掛ける。
「こんにちは、伊藤君」
「あっ、こんにちは、加賀見さん」
  啓太はペコッと頭を下げた。それから、加賀見の横から秘書室を覗いて石塚を見つけると、明るく挨拶をした。
「こんにちは、石塚さん」
  一点の穢れもない無垢な表情は、つい先ほどまでこの部屋で自分の身に纏わる不穏な話がされていたとは露ほども思っていなかった。はあ、と石塚は密かに嘆息した。憂いの種は未だ尽きることがない。しかし、石塚は顔を上げて優しく微笑んだ。
「こんにちは、伊藤君」
  これが私の望みだから……


2009.8.18
ラプラスはフランスの数学者です。
石塚さんは文系ですが、
教養の範囲内で知っていた様です。

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