会計室にて

 時計の針が九時をゆっくりと過ぎようとしていたとき、不意にドアが開いて白い制服にきちんと身を包んだ西園寺が入って来た。パソコンに向かっていた七条はキーを叩く手を止め、穏やかな微笑を浮かべた。
「おや、郁、今日は珍しく早いですね」
「ああ、少し気になることがあってな」
「何か問題でも?」
「お前だ、臣」
 西園寺は厳しい目で七条をじっと見つめた。その意図を正確に読み取った七条は心外だと言わんばかりに胸に大きく手を当てた。
「郁、僕は日々善良に生きようと常に心掛けています。それなのに、誰かに悪意を抱くと思いますか?」
「中嶋は別だろう」
「そんなことはありません。僕はあの人がどんなに姑息で卑怯な性格でも、会計業務を妨害しようと子供じみた嫌がらせを何度してきても、決して嫌いはしません。その証拠に昨夜、僕はあの人へメールを送りました。少々遅くなりましたが、昨日はあの人の誕生日でしたので。ただ、心の歪んだあの人は直ぐに削除するかもしれませんが」
「間違いなくそうするだろう」
 西園寺は、はっきりと断言した。
 中嶋が七条からの私的なメールを大事に保存するとは到底、あり得なかった。それは二人の日頃の関係を見れば、考えるまでもなくわかることだった。やはりそうですか、と七条は表情を曇らせた。
「わかっていても折角の好意を無にされると傷つくものですね。だから、二十四時間以内にメールが削除されたら、データを総て破壊するウィルスを仕込んでおきました」
 七条は軽く首を傾げて小さく笑った。そこまでして嫌いではないとよく言えたものだ、と西園寺は思った。
(まあ、日中にそのメールを出さなかっただけ良かったか。啓太は中嶋の誕生日を楽しみにしていたからな。一応、配慮したのだろう)
「臣、また一段と性格が悪くなったな」
「おや、そう見えますか?」
「ああ」
「郁、昨夜はまた遅くまで読書をしていましたね。それなのに、早起きをしたから疲れがまだ残っているんですよ。今、お茶を用意します」
 何食わぬ顔で七条は立ち上がり、給湯室へと向かった。はあ、と西園寺は短く嘆息した。
(全く……臣も臣なら、中嶋も中嶋だ)
 昨日の放課後、七条は丹羽を捕獲した帰りの中嶋に会い、密かに機嫌が悪かった。軽い挨拶をしただけと本人は言っていたが、勿論、その話を額面通りに受け取れるはずがない。恐らくこれはそのときの意趣返しなのだろう。互いに毛嫌いしているなら無視すれば良いものを……なぜ、放っておけないのか。西園寺には欠片も理解出来なかった。
 再びため息が零れそうになって、ふと西園寺は傍の机に積まれていた大量の書類に目を留めた。これを見た丹羽の文句が今にも聞こえてきそうな気がする……
「ああ、郁、それは僕が向こうに持って行きますから」
 七条がトレイに紅茶を載せて戻って来た。しかし、西園寺は首を横に振った。
「いや、私が行く」
 生徒会室で中嶋と七条が顔を合わせれば、冷たい言葉の応酬を互いに厭きることなく延々と繰り広げるのは必至だった。その間、中嶋の手は止まる。つまり、仕事が滞る。それなら、自分で行った方が良いと西園寺は考えた……たとえ、この書類の山がとても重そうだとしても。
「郁には無理だと思いますよ」
「そんなことはない。この程度の量ならば、私がいつも自室まで運ぶ本と重量は殆ど変わらないはずだ」
 己が非力さは充分なほど自覚しているが、はっきりそう指摘されると不愉快だった。意地になった西園寺は書類の山を何とか持ち上げた。重いと思っても決して口には出さなかった。すると、七条がやんわりと言った。
「郁、紙の山は本と違って微妙なバランスを保つために結構、腕力が必要です。しかも、この中には機密資料も幾つかあります。途中で誰かに持たせることは出来ませんよ」
「……っ……」
 一瞬、西園寺の瞳に微かな躊躇いが浮かんだ。それを見逃す七条ではなかった。さり気なく書類を取り上げる。
「やはり僕が行きますね」
「……わかった」
 西園寺は渋々頷いた……が、せめて一つ、苦言を呈しておかないと気が済まなかった。
「臣、あちらが滞れば私達の仕事に支障を来(きた)す。それを忘れるな」
 わかりました、と七条は頷いた。
「あの人が不必要に絡んでこなければ大丈夫です。それでは、行って来ます」
 パタンと会計室のドアが閉まる音を聞きながら、西園寺は七条が一時間は戻らないことを心の中で覚悟した。

生徒会室にて

 中嶋は窓の外を見つめながら、無言で煙草をふかしていた。
 名前を見るのも不愉快な人物――七条――から、怪しいこと極まりないメールを受け取った。本来なら直ぐに削除したいところだが、仕事に関することがあるかもしれないので、仕方なく開封して内容を確認した。それは七条が心を入れ替えたのでなければ、新手の嫌がらせとしか思えない代物だった。やはりな、と中嶋は胸の奥で呟いた。そして、これをどう切り返そうかと先ほどから冷たく考えていた。
「おっ、早いな、中嶋」
 突然、バンッとドアが開くと、ネクタイを緩めて制服をいつもの様に着崩した丹羽がドカドカと音を立てて入って来た。中嶋は大きなため息をつくと、鋭く丹羽を睨みつけた。
「朝から騒々しいぞ、丹羽」
「悪~い。悪~い。何か今朝はこう、力が漲っててよ。少し運動不足なんだよな~」
 丹羽は大きく肩を回した。中嶋が小さく鼻で笑った。
「毎日、あれだけ動き回っておきながら、よく言う」
「そんくらいで足りるかよ。あ~、一日くらい思い切り暴れ回りたいぜ。最近、暇だからな」
「ほう? お前の目にはこの書類の山が見えないらしいな」
「あ~、内はいつもこんなもんだろう」
 ばつが悪そうに丹羽はガシガシと頭を掻いた。どうやら中嶋は少し機嫌が悪いらしい。そう悟った丹羽は余計なことは言わないよう早く席に着こうとして何気なく中嶋のパソコンに目をやった。
(こいつは……!)
 一瞬、丹羽は我が目を疑った。そこには七条からの簡素なメールが表示されていた。

Happy Birthday.


 いつの間に二人は誕生日にメールを交換するほど親しくなったのだろう……と丹羽は虚しく思った。勿論、そんなことは絶対にあり得ない。中嶋と七条が笑顔で握手をするということは太陽が西から昇るに等しかった。丹羽の視線に気づいた中嶋が無言で煙草を深く吸い込んだ。
「どうするつもりだ、それ? 削除するのか?」
 丹羽が低い声で尋ねた。
「……いや、急いで削除する必要はないだろう。これは、終にあいつが目上の者に敬意を払った立派な証拠になる」
「だが、何か仕掛けがあるかもしれねえぞ」
「このPCに重要なデータは一つも入ってない。万が一のときは初期化(フォーマット)すれば良いだけだ。勿論、こちらの業務に全く支障がない訳ではないが、それはそれであいつの底が知れたということになり、俺に損はない」
 中嶋が冷酷に口の端を吊り上げた。その凍りつく様な表情に丹羽は軽く肩を竦めた。
「まあ、売られた喧嘩を買いたくなる気持ちは俺にもわかるけどよ~」
(出来るだけ穏便に済ませろよな……って、言うだけ無駄か)
 この件に首を突っ込んでもろくな目に遭わないと経験から察した丹羽は、黙って自分の椅子に腰を下ろした。目の前にある書類に手を伸ばす。すると、中嶋がファイルを持って立ち上った。
「会計室へ行ってくる。サボるなよ、丹羽」
「へいへい」
 丹羽は投げやりな調子で呟いた。そして、中嶋が一時間は戻らないことを密かに覚悟した。

廊下にて

「全く……今日は朝からついてないですね」
 偶然、鉢合わせした相手を七条は能面の様な顔で見据えた。中嶋は柳眉を吊り上げ、冷たく七条に言い放つ。
「それは俺の台詞だ。人の誕生日を満足に覚えることも出来ない奴と、仕事のためとはいえ、こうして顔を合わせなければならないのだからな」
「注意力の散漫な人はこれだから困ります。きちんと送信日時を見ましたか? 十九日になっています」
「日付の変わる一分前に向こうのPCに送られても確認するのは翌日になる。そんなこともわからないとは呆れるほど無能だな」
「それは貴方の都合であって僕には一切、関係ありません」
 二人の間を、一陣の風が吹き抜けた。七条が書類の山を差し出した。
「貴方の様に、礼節の欠片もない人間にはなりたくないものです」
 中嶋はそれを受け取ると、代わりにファイルを渡した。
「厚意の押しつけほど質の悪いものはないな」
「他人の厚意に謝意を表することさえ出来ない貴方に何を言っても全くの無駄ですね。でも、僕は違います。有難うございます」
「ほう? なら、謝意を表して、いっそ会計補佐を辞任したらどうだ? こちらとしては、その方が遥かに有難い」
 意図的に謝意の意味をすり替えて中嶋が口唇を歪めた。すかさず七条が反論しようと口を開き掛けたとき、窓から啓太が和希と一緒に登校して来る姿が見えた。
「おや、伊藤君と遠藤君ですね」
 七条の声がが少し柔らかくなった。
 今朝の啓太はとても幸せそうだった。和希に何か訊かれたのか、大きく首を振りながらも嬉しそうに微笑んでいる……が、遠目でもはっきりわかるほど身体の動きが鈍かった。あれでは心配した和希が啓太を休ませようと遅かれ早かれサーバー棟へ連れて行くのは目に見えていた。午後は啓太の笑顔に苺のシャルロットを添えて過ごす計画を立てていた七条は、早々に手を打った方が良さそうだと思った。
 一方、中嶋は胸の奥で小さく舌打ちしていた。
 昨夜は無理をさせてしまった自覚があるので今日は休めと言っておいたのに……お陰で、和希がいつも以上に付き纏っていた。啓太を共有する気はないので、中嶋は早急に処置を講ずる必要を感じた。少なくとも、ここで不毛な争いをしている暇はない。
「……」
 無言で中嶋は踵を返した。七条も急いで廊下を戻り始めた。少しでも早く仕事を片づけて、過保護な理事長から啓太を取り返さなければならないから。相手を出し抜くのはそれからでも充分、間に合うだろう。

 小春日和の空の向こうは既に嵐の予感に満ちていた。しかし、そんなことなど全く気づかない啓太は体調を気遣う和希に恥ずかしそうに礼を言った。また一人、その渦中に身を投じることになるとも知らず……
「本当に俺は大丈夫だよ。心配してくれて有難う、和希」



2010.12.10
’10 中嶋さんBD記念作品です。
時間軸的に『不滅』の続編になっています。
多分、祝う気が殆どない七条さん。
啓太を喜ばすためにしたのかな。
Happy Birthday,Nakajima.

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Café Grace
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