全く……伊藤の周囲は騒々しい。日曜の朝から誰が食堂で騒いでいるのかと思えば、成瀬と遠藤が伊藤の食事の件で揉めていた。事の発端は、どのサラダを選ぶべきかということらしい。どうやら遠藤はポテト・サラダを、成瀬はシーザー・サラダを推している様だ。ここの食事はビュッフェ方式なので、サラダだけでも数種類はある。メインも和洋中、欲しい者はデザートに至るまで選択肢は多岐に渡る。これでは埒が明かない。しかも、伊藤が空腹なのは明らかだった。あれでは本末転倒だろう。俺は伊藤の腕を引き、トレイにミモザ・ポテト・サラダと中華粥のセットを載せた。伊藤は確かにポテト・サラダが好きだが、同じものを続けて摂取するのは良くない。それに、朝から胃に負担の掛かる食事も避けるべきだ。これが最も理想的な選択だろう。伊藤も漸く食事が出来ると思ったのか、嬉しそうに微笑んだ。成瀬と遠藤が呆気に取られた表情で見ていたが、直ぐ自分達も朝食を選び、それぞれ伊藤の隣に腰を下ろした。もう大丈夫だろう。俺は吐息をつき、そこを後にした。
 休日とはいえ、寮長である俺には仕事がある。生活必需品等は常に切らさぬようチェックしなければならない。俺は寮の裏手にある備品室に向かった。その脇を、丹羽が猛スピードで駆け抜けてゆく。大方、また仕事をサボって逃げ出したのだろう。全く……仕方のない奴だ。はあ、とため息を零したとき、ふと木の根が露になっている箇所を見つけた。ここはあまり人も通らないが、誰かが躓いてからでは遅い。後で盛り土をしておこう。そう考えていたら、伊藤がこちらへ向かって走って来た。
「伊藤っ!!」
 木の根に足を取られ、転びそうになった伊藤の身体を俺は抱き留めた。あの勢いで倒れたら、確実に怪我をしていただろう。大丈夫か、と問い掛ける俺に腕の中の伊藤は小さく頷いた。どうやら丹羽を探しているらしい。ああ、また生徒会の手伝いをしているのか。俺は丹羽のいる方向を教えてやった。何事も、常に一生懸命なのは伊藤の美点だな。去って行く伊藤を見送り、再び歩こうとした俺の前に中嶋が現れた。あの怜悧な顔が微かに苛立っていたが、直ぐいつもの冷淡な表情に戻った。余程、丹羽のことが腹に据えかねているのだろう。事実、中嶋に連行されてゆく丹羽は、まるでこれから投獄される罪人の様に見えた。その後ろ、少し離れた処を伊藤がトコトコと歩いていた。俺はその歩き方に僅かな違和感を覚えた。
 俺は伊藤を傍に呼び寄せた。またあの根に躓いたらしい。今度は少々足首を捻っているのかもしれない。俺は二人に断りを入れ、伊藤を俺の部屋へ連れて行くことにした。丹羽と、今度は明らかに中嶋までもが不服そうな顔をした。人手が欲しければ、他の奴を使え。俺は伊藤の手を取った。
 幸い、大した怪我ではなかった。これなら、冷却スプレーで充分だろう。だが、今日は大人しくしていろ、と伊藤には良く言い含めておいた。
 少し遅い昼食を取っていると、厨房で滝がバタバタと何かを作り始めた。伊藤の見舞いにたこ焼きを持って行くらしい。損得なしで動くとは滝にしては珍しいな。俺が感心していると、冷蔵庫を覗いていた滝が声を上げた。見ると、手に白い器を持っていた。それは、俺が作った苺の杏仁豆腐だった。昨夜のデザートに出た苺の余りで作ったのだが、丁度良い。一緒に伊藤に渡してくれ。俺は食券を差し出した。確か伊藤は苺が好物だったはずだ。滝は暗い声で、まいど~、と言った。滝も食べたかったのかもしれないが、一人分しかないのだから仕方がない。悪いことをしたな、と俺は思った。
 陽射しも影ってきたので俺は洗濯物を取り込みにベランダへ出た。ここには大型乾燥機もあるが、雨でも降らない限りは使わない。洗い立ての白いシーツはふわりと温かく、とても気持が良かった。なぜか……ふと俺は伊藤を思い出した。伊藤は男にしては華奢な身体つきだった。未だ成長過程にあるせいだろうが、あれでは体力もあまりないに違いない。伊藤の健康には特に注意しなければならないな。そんなことを考えながら、何気なく裏庭に目を向けると、奥まった一角で卓人が伊藤のスケッチをしていた。伊藤は木にもたれ,、片膝を抱えて座っている。俺の言いつけは守っている様だ。卓人は熱心に手を動かしていた。そういえば、朝から卓人の姿を見ていなかったことを俺は思い出した。また食事も取らずに絵を描いていたのか。困った奴だ。だが、卓人は良い表情をしていた。
 伊藤が転校してきて以来、この学園は随分と変わった。人も、雰囲気も。さすがに理事長推薦のことはある。伊藤の才能は純粋故に最も失われ易い、あの魂そのものだ。俺は伊藤と共に過ごせるこの時間を大切にしたかった。卓人も、恐らく……そうなのだろう。
 不意に伊藤が立ち上がった。どうやら終わったらしい。俺は卓人に食事をさせるべく下へ降りた。伊藤は俺を見るや、すぐさま苺の杏仁豆腐の礼を述べた。気に入ってくれて良かった。そして、俺達は別れた。卓人は残念そうな顔をして階段を上ってゆく伊藤を見送った。俺は卓人を食堂へと引っ張り、食事を取らせた。相変わらず、卓人は少食だった。俺は小皿をもう一品、追加しようとした。そのとき、また伊藤がやって来た。奥の廊下が水浸しになっていると言う。すぐさま俺も確認したが、全くその通りだった。一体、どこから? すると、ある部屋のドアから水が溢れ出していた。ノックをしても返事がない。俺はマスター・キーで中に入った。
 そこには誰もいなかった。俺は浴室を覗いてみた。やはり蛇口の閉め忘れだった。すぐさま水を止めたが、既に到る処、酷い有様になっていた。ここの者には後で説教するとしても、床や廊下をこのままにしておく訳にはいかないだろう。仕方なく俺は道具を取りに行くことにした。
 廊下に出ると、水溜りの向こうに西園寺と七条がいた。西園寺は不愉快も甚だしいといった様子で、七条はただ微笑を浮かべている。そうか。あそこには二人の部屋があったな。そう思った俺に、西園寺が急き立てる様な視線を投げつけてきた。俺は心中、密かに何度目かのため息をついた。そのとき、背後から声が聞こえた。
「篠宮さん、俺達も手伝います」
 振り返ると、雑巾とモップを持った伊藤と卓人が立っていた。
「皆でやれば、直ぐに終わりますよ」
 伊藤の明るい表情に俺は救われた気がした。そうだな、と俺はモップを手に持った。すると、向こう側の七条が伊藤に、僕達にもモップを下さい、と言った。僕達? 一瞬、俺は耳を疑った。伊藤の差し出した二本のモップを、西園寺と七条がそれぞれ受け取った。
 俺達は水を拭き始めた。
 それは不思議な光景だった。学園で女王様とまで呼ばれる西園寺がモップを手に掃除をしている。七条は普段と変わらない微笑を浮かべているが、どこか楽しそうだった。絵筆以外は持たない様な卓人まで自らバケツの水を捨てに浴室へ行く。そういえば、伊藤の足の具合はどうなっただろうか。俺がそれを訊こうとしたとき、雑巾を持って床に跪いている伊藤を見つけた遠藤が猛然と走って来た。どうやら滝から伊藤が大怪我をしたと聞いたらしい。ほどなくして、成瀬と丹羽、中嶋も現れた。誰もが軽い捻挫と知ると、心底、ほっとしていた。俊介は大袈裟なんだよ、と伊藤は笑った。全くだ。滝には俺から注意しておこう。そして、俺達の作業に新たに四人が加わった。遠藤は伊藤が立ち上がろうとする度に身体を支えた。成瀬は伊藤の手から雑巾を受け取り、代わりにきつく絞った。丹羽はブルドーザーの如くモップで水を寄せ集めた。中嶋は対岸にいる七条に冷たい一瞥を投げただけで、無言でモップを動かした。
 人数が増えたお陰で、予想以上に早く水は片づいた。伊藤がいなければ、こうはいかなかっただろう。皆、個性も性格も違う者同士。寄れば、触れば、揉めることも少なくない。その俺達が共に一つのことをやり終えた。この充足感を俺は決して忘れないだろう。
 確かに伊藤の周囲は騒々しい。だが、こういうのも悪くない。皆で夕食を取りながら、俺は今日一日の胸のつかえが、すっと消えてゆくのを感じた。



2007.8.23
少し天然ぎみの篠宮さん。
ほぼオールキャストの話にしたので、
長くなってしまいました。
寮長さんってこんな感じかな。

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Café Grace
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