今日は久しぶりのオフだ……って、おい、猫にオフなんか関係ないだろうと思った奴! お前、明日から外を無事に歩けないから覚悟しとけ! こう見えても猫は結構、忙しいんだ。朝晩二回、この広い学園島を巡回し、昼はこの立派な毛並みと爪の手入れをしなければならない。それに加えて俺には聡がいる。あいつは俺にベッタリだからな。あいつの警護と心の平安も俺は護らなければならない。全く……昼寝をする暇さえない。だが、今日は聡が研究所へ用事があるとかで俺は留守を任された。つまり、オフだ。良い機会だから、少しばかりここの話をしてやろう。
 この学園は優秀な人材を集めて教育しているらしいが、俺に言わせれば、ずば抜けた才能を持つ者もいれば甚だ疑わしい奴までいる。まあ、個々の論評はやめておこう。俺の言葉は総て聡を通すからな。教員である聡に偏見を与える様な言動は厳に慎まなければならない。だが……まあ、一人くらいなら良いか。誰にするかな。そう、だな……学園MVP辺りが無難な線か。
 そいつの名前は伊藤啓太。あいつは不思議な奴だ。誰でもそれなりに人生経験を積めば、多少は精神に歪みが生じる……が、あいつにはそれがない。まるで生まれたての子猫の様に素直に相手のあり様を受け止め、包み込むことが出来る。そして、周囲をより良い未来へと導いてゆくんだ。この学園もあいつが転校してきて各段に雰囲気が変わった。ここはあくの強い奴が多くて個人主義に走りがちだが、今はあいつを中心に一種の協調性らしきものが芽生えている。お陰で、誰もが自分の才能を遺憾なく発揮出来る場になった。今では、あいつはこの学園に欠かせない存在となっている。正確には学園MVPはもう一人いるが、一般的にあいつ以外に使わないのはそのためだろう。
 だが、全く問題がない訳ではなかった。あいつは他人に対して先入観や警戒心を持たないため、暴力に対してあまりにも無力だった。これまで悪意に曝されたことのないあいつには身を護る爪も牙もなかったんだ。ここには理屈の通じない物騒な連中も大勢いる。どうする気だ、と俺は心配になった。そうしたら、あいつは思いも寄らぬ方法でそれを解決した。
 あいつはこの学園でも名立たる連中を魅了し、いつの間にか、取り巻きにしてしまった。奴らは爪も牙も充分に兼ね備えた上に、どいつも一筋縄ではいかない曲者ばかりだ。いかにこの学園が優秀な者を集めているとはいえ、連中を敵に回そうとする奴はそうはいない。こうして、あいつの身は安泰になった……が、その一方で俺の心には釈然としないものが残った。
 確かにあいつは良い奴だが、そこまで入れ込むほどのものか? あいつの何があの連中をそんなに深く惹きつけるのか、俺には理解出来なかった。だから、今日は時間もあることだし、それを徹底追及してみたいと思う。さて、どこにいるのか。あいつは色々な者からお呼びが掛かるからな。いざ探すとなると、これが結構、難しいんだ。
 おっ、見つけたぞ。あいつは山茶花の近くのベンチにぼんやり座り込んでいる。珍しいな。一体、どうしたんだ? ふむ……暫く様子を見てみるか。あそこは目立たない場所だが、花の香りで人を引き寄せるからな。そのうち誰か来るだろう。
 ほ~ら、早速、来たぞ。二人して何か相談をしているな。何を話しているんだ? ちっ、いつ聞いても人間の言葉はふにゃふにゃしていて良くわからない。やはり正確に把握するには聡がいないと駄目だ。まあ、どうせ大したことじゃないだろう。あいつは、いつもくだらないことを悩んでいるからな。最初は俺も繊細な奴と思ったが、そうじゃない。周りの連中があれだけ下心丸出しでも、全く気づかないあの鈍感さは並じゃない。あれは単に子供なだけだ。いや、純粋というのか? まあ、それもあいつの美点で――……
 おおっ、あのウルウルした上目遣いは何だ!? まるで小雨の降りしきる中、打ち捨てられた子犬……もとい子猫の様に切なげな眼差しは。そして、まだ幼さの残る表情に朧な艶を纏って首をコクンと傾げている。あれは無意識でやっているのか!? うっ、やばい! 何だか俺までクラクラしてきた。あいつのためなら何だってしてやろうって気になる! くっ、駄目だ! 堪えろ、俺! 犬の様に人間に尻尾を振ったら、猫も終わりだ! あいつを見てはいけない!
 ……どうやら俺は間違っていたらしい。先刻、あいつには爪も牙もないと言ったが、あいつはそれ以上のものを持っていた。知っているか? 子猫が可愛いのはそれで相手の庇護欲をそそって自分の身を護るためだ。それは最強の武器だが、一過性で成長するに従って消えてしまう。あいつのあの可愛さはまさにそれだ! 道理で、連中がベタ惚れする訳だ。あんな仕草や表情をされて抗える奴なんていない。その内、あいつがため息一つするだけでセーフティ・モードが発動するぞ。あいつは、自分が人の瞳にどう映るのか少し自覚する必要がある。よし! ここは俺がビシッと一発、あいつに忠告してやる!
「……」
 えっ!? 行かないのかって? ああ、やめた。今、あいつはあんな幸せそうな顔で微笑んでいる。俺は馬に蹴られるのはごめんだからな。
 あの二人が付き合っているのを知っているのは例の取り巻き連中だけだ。俺から見る二人は……まあ、良い関係と言うのか? 人間の恋愛は俺の範疇にないから良くわからない。だが、あいつのあの表情……何だか見ている俺の胸まで温かくなってくる。ああ、あいつには幸せになって貰いたい。そのために俺に出来ることがあれば何でも……はっ、俺は何を考えていたんだ? また、あいつの術中に嵌まるとこだったのか? 駄目だ! 駄目だ! 人間如きに篭絡されて、どうする! 俺もまだまだ修行が足りない! 猫は孤高の生き物だぞ! 誰にも媚びず、誰にも懐かない! 誇りを忘れるな、俺!
 はあ、はあ……どうやらお遊びが過ぎた様だ。やはり猫と人間は相容れない存在だ。学園のことを知りたければ後は勝手に調べろ。まあ、気が向いたら教えてやらないこともないが、そのときは手土産の一つや二つや三つは持参して来いよ。何せ猫は犬と違い、繊細でデリケートでナーバスな生き物だからな。それ相応の対応をして貰わないと話にならない。ちなみに、俺の好物は鳥のから揚げだ。特にもも肉が旨い! 本来なら三大地鶏のどれかをあげたいところだが、最近は偽装も多いからな。俺の様にグルメな猫には大問題だ。全く……嘆かわしい。何だか苛々してきたぞ。こういうときは気分転換に毛づくろいをするのが猫の習癖なんだ。あの木陰の辺りが気持ち良さそうだな。それじゃ、俺は行くからな。しっかり訳しとけよ、聡!


翻訳   海野 聡


2007.11.9
トノサマの様に毛足の長い猫は
ブラシで梳かしてあげないといけないので、
毛並みの手入れも大変です。
Graceもブラッシングが大好きです。

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Café Grace
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