「あれ、伊藤君?」
廊下を歩いてた僕は少し先に伊藤君の姿を見つけて首を傾げた。いつも元気な伊藤君だけど、なぜか今日はしょんぼりしてる様に見える。伊藤君は素直な良い子だから態度で直ぐわかるんだ、僕。えっ!? 教師らしい台詞だって? 本当、トノサマ? やった~、僕も少しは成長したんだ! 皆の悩みを一生懸命、解決してきた甲斐があったよ。これでまた一歩、憧れの熱血教師に近づけたよね……って、浮かれてる場合じゃなかった。伊藤君、どうしたんだろう? ねえ、トノサマ、何か知ってる?
「……」
  ふ~ん。そっか……それで、喧嘩になっちゃったんだ。珍しいよね。普段は仲の良い二人なのに。やっぱりまだ子供なんだね。えっ!? 相手の方はそうでもないかもしれないって? そうかな。まあ、確かにちょっと変わった子だとは思うよ。年のわりに伊藤君を見る瞳が凄く大人びてて、たまに僕も驚いちゃうしね。でも、根本的なとこでは伊藤君の方が強いんじゃないかな。だから、あの二人は巧くいくんだと思うよ。お互いが良い意味で補完し合ってる。あっ、今のも教師らしかった? ふふっ……ねえ、トノサマ、教師は困ってる生徒を放っておいたら駄目だよね。僕、どんなことでも出来る限り皆の力になってあげたいんだ。それに、いつも伊藤君には色々手伝って貰ってるから今度は僕達が二人を仲直りさせてあげようよ。今さ、丁度良い作戦を思いついたんだ。トノサマも協力してくれる?
  僕の計画を聞いたトノサマは、任せとけ、と言って廊下を元気に走って行った。僕はトノサマを見送ってから、大きな声で伊藤君に呼び掛けた。
「待って~、伊藤君~」
「何ですか、海野先生」
  伊藤君は立ち止まって僕を振り返った。
「ねえ、今、時間ある? ちょっと僕を手伝ってくれないかな」
「良いですよ」
「有難う。助かるよ」
  そうして僕達は一緒に生物室へと向かった。
  伊藤君は普通を装ってるけど、やっぱり少し精彩に欠けてた。今の伊藤君の気持ち、何となくわかるな。多分、僕もトノサマと喧嘩したら凄く辛いと思うんだ。喧嘩は、したときよりも仲直りの方が難しいよね。時間が経てば経つほど、お互い変な意地が出て来るからさ。でも、大丈夫! 二人が喧嘩してたことなんか忘れるくらいビックリする様なことが起きれば、あっという間に仲直り出来るよ。大事な教え子のためだもん。ここは大船に乗った気で任せてよ!
  僕は密かにドンと胸を叩いた。
  生物室は、先刻まで資料を読んでたから少し散らかってた。ちゃんと片づけないと西園寺君に怒られるんだけど、今はそれどころじゃないよね。僕は適当に書類を退けて伊藤君の作業スペースを作った。
「海野先生、何を手伝えば良いんですか?」
「あっ、うん、ちょっと待って」
  僕は右奥の薬品棚を開けて、リン酸二水素ナトリウムとリン酸水素二ナトリウムを取り出した。その横には空の薬品瓶が一つ置いてある。
「今度、分光光度計で紫外線スペクトルの測定をして溶液濃度を求める実験をするんだけど、それに使うリン酸緩衝液を作る準備を手伝って欲しいんだ」
「あの……リン酸緩衝液って何ですか?」
「あっ、そうか。伊藤君はまだ知らなかったね。緩衝液とは緩衝作用のある溶液のことだよ。わかり易く言うと、少量の塩基や酸を加えてもpHが大きく変化しない溶液のこと。緩衝作用は生体システムでも使用されてるよ。たとえば、血液には緩衝液としての機能があるんだ。だから、恒常性維持のために様々な塩類が溶け込んでも平衡を保ってられるんだよ。
  今回の実験で使うニコチン酸のカルボニル基はpHの変化によって、紫外線スペクトルの吸収パターンがずれちゃうんだ。そうすると、正しい測定結果が得られないでしょう? だから、溶媒には水でなくリン酸緩衝液を使うんだ。それさえちゃんと作れれば、紫外線スペクトルの測定は機械がやってくれるから大丈夫なんだよ」
「そうなんですか」
  伊藤君はわかった様な、わからない様な顔をしてた。まあ、仕方ないよね。伊藤君にはまだ早い実験だし。本当はもっと色々教えてあげたいけど、あまり話してたらトノサマが戻って来ちゃうから……
「でも、それって生物じゃないですよね?」
「うん、僕、化学の先生に頼まれたんだ。明日の授業でそれをやるんだけど、今日は大学の方で講義があるからお願い出来ませんかって。引き受けたのは良いんだけど……その……僕、ちょっと不器用だからさ、伊藤君に手伝って貰おうと思ったんだ」
「わかりました。それで、俺は何をすれば良いんですか?」
  ジャケットを脱ぎながら、伊藤君は尋ねた。僕は持ってた二つの瓶を伊藤君の前に置いた。
「簡単だよ。これの中身を少量ずつプラスチックのケースに入れるだけだから。ほら、そこに入ってるケースだよ」
  僕は伊藤君の横の箱を指差した。伊藤君は中を覗いて、小さくて細長いプラスチックの丸いケースを一つ手に取った。
「量は適当で良いから。そうしたら、リン酸二水素ナトリウムの方にはNaHPOって書いたラベルを、リン酸水素二ナトリウムの方はNaHPOってのを貼ってくれる? 名前が良く似てるから間違えないでね。数人のグループで実験するらしいから、各十個くらい作れば大丈夫だと思う」
「わかりました」
  コクンと伊藤君は頷いた。
  伊藤君は直ぐに作業に集中し始めた。それを横目に、僕は薬品棚にさり気なく近づき、空瓶にそっと十酸化四リンのラベルを貼った。ここの棚には危険な薬品は入ってないけど、念のためにちゃんと確認した。生徒を危険な目に遭わせる訳にはいかないからね。うん、大丈夫! そうして僕は態と扉を開けたままにしておいた。よし! これで準備完了! そう思ったとき、トノサマが飛び込んで来た。
「あっ、おかえり、トノサマ」
  トノサマは携帯電話を銜えてた。それを僕に渡すと、真っ直ぐ伊藤君のとこへ行った。どうやらトノサマの方も巧くいったみたい。
「あれ~、トノサマ、どうしたの、この携帯?」
  僕はそれを見て首を傾げた。ちょっと態とらしかったかな。僕、お芝居って苦手かも。
「あっ、それ……!」
  伊藤君は誰の携帯電話か直ぐに気がついた。でも、トノサマを追って部屋に入って来た人を見てピタッと口を噤んだ。相手の方も、まさかここに伊藤君がいるとは思ってなかったみたいで驚いてその場に立ち尽くしてる。
「ごめんね。トノサマが悪戯したみたいで」
  僕が携帯電話を渡すと、いえ……と口先だけの返事が聞こえた。その瞳は僕でなく、じっと伊藤君を見てる。何か傍にいる僕まで切なくなる顔してるなあ。この年でこんな表情するなんて、この子、本当に僕より年下なのかな。まあ、この学園にはしっかりしてる子が多いから珍しくはないけどさ。大人の僕としては、高校生には負けてらんないって思うんだよね。うん。
  伊藤君は無言でまた作業に戻った。今度はラベルを貼るつもりみたい。でも、視線を感じて緊張してるのか、手からラベル・シートが滑り落ちた。その瞬間をトノサマは見逃さなかった。
「あっ!!」
  トノサマが伊藤君より早くシートを掠め取ってしまった。トノサマはラベルを銜えて颯爽と薬品棚の方へ逃げる。さすがトノサマ……って感心してたら駄目だった。僕は何も知らないんだから、ちゃんとトノサマを窘めないと怪しまれるよね。
「あ~、駄目だよ、トノサマ、悪戯したら」
  うん、今度は巧くいった気がする。誰も疑ってない。疑ってない。
「ほら、海野先生もそう言ってるだろう? 良い子だからラベルを返して、トノサマ」
  伊藤君がトノサマを捕まえようと腕を伸ばした。すると、トノサマはそれをひらりとかわして大きくジャンプした。長いしっぽが薬品棚の空瓶に当たり、床に着地したトノサマの上に落ちてくる……!
「気をつけて! その瓶には十酸化四リンが……!」
  僕の声に、咄嗟に伊藤君はトノサマを庇って身を丸めた。
「……っ……!」
「わっ……!」
  思わず、僕はキュッと目を瞑った。硝子の割れる大きな音に備えて両手で耳を塞ぐ。でも……あれ? 何も聞こえない。恐る恐る僕は瞼を開けた。すると、トノサマを抱えて小さくなった伊藤君の上で別の二本の手が瓶をしっかり受け止めてた。正直、僕はほっとした。空だとわかってても、やっぱり心臓に悪い。十酸化四リンが本当に皮膚についたら火傷しちゃうからね。
「おいで、トノサマ」
「ぶにゃ~ん」
  伊藤君にラベルを返すと、トノサマは何事もなかったかの様に僕のとこへ戻って来た。僕はトノサマを抱き上げ、こっそり囁いた。有難う、トノサマ、これであの二人も仲直り出来たみたい。ほら……
  落ちてきた薬品瓶から助けて貰い、伊藤君は喧嘩してたのも忘れて嬉しそうに頬を赤らめてる。うん、良い表情だね。やっぱり伊藤君は笑顔が一番良いよ。でも、あの子の方はまだ少し蒼い顔をしてた。もしかして、十酸化四リンの危険性を知ってたのかな。だとしたら、僕……悪いことしたかも。
「あの……二人とも有難う、トノサマを助けてくれて」
  僕はペコッと頭を下げた。
  もし、本当に危険な薬品がトノサマの上に落ちてきたら、僕、驚いて動けないかもしれない。そうして傷ついたトノサマを前に大泣きするかも。大切なものを傷つけたくないって思いは皆、同じだもんね。そんな簡単なことに今頃、気づくなんて……僕、二人の役に立とうとしたんだけど、教師失格だね……
  すると、伊藤君は小さく首を横に振った。
「いえ、俺達の方こそ返って海野先生を心配させてしまってすいません。トノサマと一緒に一芝居打ってくれたんですよね。お陰で、仲直りすることが出来ました。有難うございました」
  伊藤君は嬉しそうに笑った。でも、あの子の方は複雑な表情をしてる。僕を見る瞳がちょっと怖い、かな。やっぱり怒ってるみたい。暫く近寄らない方が良いかも。
  それから、僕は伊藤君達を二人きりにさせてあげようと思って生物室を後にした。
  あっ、駄目だよ、トノサマ、覗き見なんかしたら。えっ!? あの二人が何をするのか気にならないかって? もう、好奇心旺盛なんだから。プライバシーは尊重しないと駄目って言ってるでしょう? トノサマも助けて貰ったんだから、今はそっとしておいてあげようよ。うん、やっぱりトノサマはお利口さんだね。
  ……ねえ、トノサマ、今度、誰かを仲直りさせるときは薬品使うのはやめるよ。僕、トノサマが傷ついたら嫌だから。そんなにドジじゃないって? うん、わかってる。でも、心配なんだ。僕、トノサマが大好きだから。
  ただ、そうしたら、次から何を落とせば良いかな。う~ん……何か良い案ない、トノサマ?


2009.7.10
方向性は間違っていませんが、
どこかずれている海野先生です。
トノサマとの二人三脚で更に精進しましょう。

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Café Grace
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