「ご馳走様でした」
 そう呟いて啓太は路肩に崩れ込んでいる男の手首の傷を指ですっと撫でた。すると、まるで魔法でもかけたかの様にそれは跡形もなく消えた。袖口に少々血痕が付いてしまったが、生きていればあまり問題にはならない。長年、そうして人の世の片隅で密やかに生きてきた……吸血鬼(ヴァンパイア)として。
 基本的に食事は週一回と決めていた。ひと月に一度では相手は出血多量で死んでしまう。別にそれで良心が咎める訳ではなかった。何かを捕食しなければならないのは人も吸血鬼(ヴァンパイア)も同じ……自然の摂理だから。しかし、吸血鬼(ヴァンパイア)は人を狩る者であると同時に人に狩られる存在にもなり得た。そのために正体がばれて討滅された同族は数知れず、今ではどれほど生き残っているのか見当もつかなかった。だから、啓太は自分の身を護るため極力、人の生命は奪わないよう細心の注意を払っていた。
 今夜は食事の予定ではなかった……が、散歩の途中で酔い潰れて寝ている男を見つけた。こんな機会は滅多にない。啓太は辺りに人気がないのを素早く確認すると、有難くそれを頂くことにした。
 相手の手首をナイフで切り、溢れた血液を携帯用のカップに取った。自分の噛み痕は消すことが出来ないので、こうすれば殆ど証拠を残さずに済む。そうしてカップの中身をすうっと飲み干した。
「……っ……結構、飲んでるな、この人……」
 血中アルコールの濃度が高いのか、二杯で酔いを感じた。啓太は軽く礼を言って手早く傷の処理を済ますと、少し覚束ない足にグッと力を入れて立ち上がった。現在、啓太の住んでいるホテルはここから少し離れていた。さて、車を拾うか。徒歩で帰るか……
(決めた! 今日は歩いてこう!)
 啓太は赤く上気した頬を手で扇ぎながら、ふわふわと歩き出した。

 深夜、一日の仕事を終えた和希は石塚の運転する車に無言で揺られていた。
 普段は専属の運転手がいるが、今日は休みを取っていたので石塚が代わりを務めていた。疲れた身体を労わる様な優しい運転に和希はうとうとしていた……が、不意に聞こえた小さく息を呑む音にゆっくりと重い瞼を上げた。
「……どうした?」
「和希様、あそこに人が……」
 石塚が唐突に車を止めた。
「……?」
 怪訝に思いながらもその視線を辿ると、少し先にあるバス停のベンチで若い男が眠り込んでいた。まだ未成年の様で、気持ち良さそうにこっくりこっくり船を漕いでいる。週末の夜なので、恐らく遊び過ぎて最終バスに乗り損ねてしまったのだろう。はあ、と和希はため息をついた。
 石塚は有能な秘書だが、ときに気配りが過ぎるきらいがあった。和希には石塚の考えが聞くまでもなくわかった。社会事業の一環として学校を経営している『鈴菱』をいずれ背負ってゆく者として、せめて彼が警察に保護されるまでは傍に付いているべきだろう。確かにその通りだった……が、疲れているのに面倒な、と思ってしまうのは仕方のないことだった。
「……」
 億劫そうな和希を気遣って石塚が言った。
「和希様はここでお休みになっていて下さい。私が対処しますので」
「……いや、乗り掛かった船だ。俺も行こう」
 和希は眠気を振り払う様に軽く髪をかき上げて車から降りた。今夜は風邪を引くほどの冷えは感じないが、いつからあそこで寝ているかわからないので、二人は足早にバス停へと向かった。まずは石塚が寝ている彼の顔を覗き込む。
「これは……」
「どうした、石塚?」
「和希様、どうやらこの子はお酒を飲んだ様です」
「成程……それで、ここで酔い潰れたという訳か」
 和希は軽くこめかみを押さえた。思わず、頭痛がしてきた。警察に連絡して飲酒の理由を訊かれたら厄介なことになるのは目に見えていた。通り掛かっただけと素直に言って果たして信じて貰えるかどうか。そもそも、こんな深夜に態々車を止めて未成年者を保護すること自体、傍から見たら少々親切が過ぎるというものだろう。勿論、きちんと自分の身元を明かせば簡単に事は収まる……が、この程度のことで『鈴菱』の名は出したくなかった。これでは痛くもない腹を探られることになりかねない。どうするべきかと対応策を考えていると、不意に彼が目を開けて二人を見上げた。
「……!」
 その瞬間、和希の周囲から音が消えた。
 彼の瞳は、まるで光射す眼差し……遥かな蒼穹を写し取ったかの様に澄み渡っていた。少し幼さを感じさせる容貌にあって、それは強い輝きを放って心に浸透してくる。暫く和希は彼に魅入ってしまった。
「……君、は……」
 何を言いたいのか自分でも良くわからず、言葉が途中で霧散した。すると、彼が両手を伸ばして嬉しそうに和希にしがみついてきた。
「わあ、凄く美味しそう……でも、もうお腹……一、杯……」
 そして、再び眠ってしまった。
「……こんなところで寝惚けられるとは暢気な子だな」
 少し呆れた声で和希が呟いた。しかし、口唇には穏やかな微笑が浮かんでいた。そうですね、と石塚は頷いた。
「和希様、この子をどうしますか? これ以上、夜風に当たらせては身体に障ります。ですが、このまま、警察へ連れて行く訳にもいきません。確かこの少し先に系列のホテルがありました。今から、そこに部屋を一つ手配しましょうか?」
「ああ、そうして――……」
 言い掛けて、ふと和希は口を噤んだ。自分を抱き枕にして眠る彼を、なぜかそのとき……離したくない、と強く思った。言葉が勝手に溢れ出す。
「いや、俺のマンションへ連れて行く。大丈夫とは思うが、急に具合が悪くなるかもしれない。万が一に備えて今夜は誰かが傍にいた方が良い」
 我ながら、それは酷く言い訳染みて聞こえた。内心、和希は苦笑した。幾ら保護するためとはいえ、見知らぬ者を自宅へ連れ帰るのは的確な判断でも常識ある行動でもない。間違いなく石塚は反対するだろう……が、返事は予想外のものだった。
「私もそれが良いと思います。では、今夜は和希様にお任せします。この子は私が車まで運びます」
「いや、俺が運ぶ」
 石塚の申し出に慌てて和希は彼を抱き上げた。すると、少し身体が冷えていたらしく、暖を求めて彼が無意識に和希の方へ身を寄せてきた。
「……」
 我知らず、和希の胸に甘い想いが込み上げてきた。まだ名前さえ知らない相手なのに、彼を護るのは既に自分に与えられた役目の気がした。疲れも完全に忘れて和希は思った。今夜は幸運だったのかもしれない、と。こうして彼と出逢ったのだから。
 そして、和希の恋が始まった。



2011.7.1
和希の設定は殆ど同じですが、啓太が吸血鬼です。
一応、ハッピー・エンドになります。
でも、鍵を握るのは石塚さんなのかも。
相変わらず、石塚さんに良い役を振っています。
2023.6.8
随分と放置していましたが、
完結に辺り、加筆・訂正しました。

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Café Grace
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