啓太が和希のマンションへ来て二週間近くが過ぎた。
 今日は薄曇りで陽射しも柔らかいので、啓太は居間のソファに寝転がって来月に開催されるオークションの出品目録を見ていた。啓太は付加価値の付きそうな美術品などを購入し、数百年後にそれを売却して生活していた。今回のオークションには資産管理を任せている人狼から、これはそろそろ美術館に収めたらどうだ、と言われた数点の絵画や彫刻を出品していた。
 人狼も不死の身体を持っていたが、両種族の状況は正反対だった。闇に囚われて緩やかに滅びへと向かう吸血鬼(ヴァンパイア)と異なり、日中も活動出来る人狼は事業家から犯罪者に至るまで人の世に巧く紛れて繁栄を誇っていた。そのため、吸血鬼(ヴァンパイア)の中には人狼を快く思わない者もいた。しかし、まさかその矛先が自分に向かうとは思ってもいなかった……あのときまでは。
 不意に玄関の呼び鈴が鳴った。ピンポーン……
「あっ、来た!」
 パッと啓太は起き上がると、廊下を走ってドアへ向かった。嬉しそうに鍵を開ける。
「いらっしゃ――……」
「よう、啓太! 急な連絡で悪かったな。元気だったか?」
 態度も声も手も大きい男が、いきなり啓太の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「は、はい……お、王様も……っ……相変わらずの様、ですね」
 すると、もう一つ別の低音が聞こえた。
「丹羽、少し声量を抑えろ。煩い」
「えっ!? 中嶋さん!?」
 驚いて啓太は顔を上げた。
 丹羽は人狼だが、中嶋は吸血鬼(ヴァンパイア)だった。余程のことがない限り、陽のある内は外出しない。啓太は丹羽の後ろで腕を組んでいる中嶋を不安そうに見つめた。
「あの……何かあったんですか……?」
 恐る恐る尋ねると、ああ、と中嶋は呟いた。そして、小さく口の端を上げた。
「お前、人間と同棲を始めたそうだな」
 えっ、と啓太は目を見開いた。丹羽が啓太の肩を軽く小突いた。
「隠すなよ。漸く啓太にも春が来たってことだよな。俺達はちょっと時間が空いたから、そいつの顔を拝みに来たんだ。ほら、中嶋は意外と心配性だろう。だから、啓太から直接、話を聞かねえと気が済まねえんだよ。一応、俺は反対したんだぜ。これ以上、陽射しが強くなったら中嶋でも軽い火傷くらいはするからな。どうしても行くなら、せめて今晩まで待てってな」
「このマンションには地下駐車場がある。車で移動すれば問題ない。それから、丹羽、お前は一つ勘違いをしている。俺は心配性ではない。ただ、こいつが選んだ相手に興味があるだけだ」
「相変わらず、素直じゃねえな、中嶋」
 ガシガシと丹羽は頭を掻いた。慌てて啓太は二人の会話に口を挟んだ。
「違います。和希とはそういうんじゃありません」
「ほう、男か」
「中嶋さん! と、とにかく中へ入って下さい。ここじゃ、ゆっくり話も出来ないですから」
 啓太は二人を室内へと促した。ドカドカと丹羽が、その後に中嶋が静かに続く。啓太は先に居間へ入ると、念のためカーテンを閉めて明かりを点けた。
「もう大丈夫です、中嶋さん」
「ふっ、人間にしては良い部屋だな」
 辺りの調度品を見回しながら、中嶋が呟いた。丹羽は勝手にソファに腰を下ろし、背もたれに大きく腕を乗せた。
「啓太、その和希って奴はどんな仕事してんだ? 写真はねえのか?」
「仕事は知りません。聞いても、俺には良くわからないので。写真はないです。和希は他にも幾つかマンションを持ってるし、子供の頃は別の家に住んでたそうなので。あっ、中嶋さんも適当に座って下さいね。王様、コーヒーでも飲みますか? インスタントですけど、これなら簡単だから急いで買ってきたんです」
 啓太はテーブルにあるコーヒーの瓶を指差した。傍には電気ケトルとコーヒー・カップが用意されている。
「なら、ブラックで頼むわ」
「はい」
 直ぐに啓太はコーヒーを淹れて丹羽に手渡した。
「どうぞ」
「サンキュー、啓太……おっ、旨そうな匂いだな」
 そう言うと、丹羽は一気にコーヒーを飲み干した。対面の肘掛け椅子に座った中嶋が短く息を吐いた。
「そんな飲み方ではコーヒーが憐れだ。お前は水でも飲んでいろ」
「仕方ねえだろう、旨いんだから。なあ?」
 丹羽は啓太に同意を求めた。啓太は嬉しそうに微笑んだ。
「有難うございます。なら、もう一杯どうですか?」
「これ以上、こいつを甘やかす必要はない」
 即座に中嶋がそれを断った。丹羽が文句を言おうとするのを冷たい瞳で黙らせる。
「それより、話して貰おうか……どういう経緯で和希という男と一緒に住むことになったのか」
「……」
 啓太は無言で丹羽の隣に腰を下ろした。暫くチラチラと上目遣いに中嶋を窺い、やがて……ゆっくり口を開いた。
「中嶋さんには言い難いんですけど、この前の夜……」
 覚悟を決めて啓太はこれまでのことを二人に話して聞かせた。
 ……十五分後。案の定、啓太は中嶋に怒られていた。
「全く……呆れてものが言えないな。お前はまた拾い食いをしたのか」
「拾い食いじゃありません。道端で寝てたから……その……ちょっと血を貰っただけで……」
「それのどこが拾い食いではないと?」
 中嶋が厳しく啓太を見据えた。
「……ごめんなさい」
「啓太、獲物はきちんと選べと教えたはずだ。昔と違い、今は良質な血の持ち主は少ない。今回はアルコールだったから良かったものの、もし、その男が危険な薬物中毒者だったら、どうする? 幾らお前でもそんな薬にまで耐性がある訳ではないだろう」
「……はい」
「中嶋、啓太はお前と違って獲物を見つけるのは大変なんだよ。魔力操作が巧くねえからな」
 丹羽が啓太を庇って口を挟んだ。すかさず中嶋は丹羽を睨みつけた。
「こいつは、こう見えても俺達より百年は長く生きている。外見に惑わされな、丹羽」
「わかってるって。これからは啓太も気をつけるよな?」
 顔を覗き込むと、啓太は必死にコクコクと首を動かした。よし、と丹羽が笑った。
「全く……お前はこいつに甘過ぎる」
 中嶋は何度目かのため息をつくと、左の内ポケットから上品な細工が施された銀色の煙草入れ(シガレット・ケース)を取り出した。それを見た丹羽は中嶋の意識が煙草に向いている間に別の話を振ることにした。
「それにしてもよ、啓太、人間と一緒だと何か食わねえと怪しまれるよな。いつもどうしてるんだ?」
「あっ、平日は和希の帰宅時間が遅いから大丈夫です。仕事が休みの週末は、俺は適当な時間に外に出掛けて食べて来たことにしてます」
「ふ~ん……なら、本当の食事はどうしてるんだ? まだ店が開いてる時間だと人目があるだろう。そいつが寝てから食いに行くのか?」
「えっ!? あ……いえ、その……」
 啓太の目が宙を泳いだ。丹羽が僅かに眉を寄せた。
「おい、まさか一滴も飲んでねえのか?」
「……」
 その言葉に、すっと中嶋は啓太へ瞳を流した。少し間を置いて、啓太は小さく頷いた。
「最近、変なんです、俺。人から血を貰おうとすると、いつも和希の顔が頭に浮かんで飲む気がしなくなって……でも、お腹は空いてるんですよ。最後の食事から、もう二週間だし……なのに、本人を前にすると、傷つけるのが怖くて手が出ないんです。もしかして、吸血鬼(ヴァンパイア)でも人に情が移るものなんですか? だったら、俺、これからどうしたら良いですか? ここを出れば済む話かもしれないけど、和希は親切だし、優しいし……俺、もう暫くここにいたいんです」
「いや、それは情が移ったって言うよりはだな……」
 丹羽が言い難そうに口籠もった。
「言うよりは……?」
 啓太が少し前に身を乗り出した。丹羽は困った様に頭を掻いた。チラッと中嶋を見ると、我関せずといった様子で煙草を吸っている。
「王様……?」
「あ~、啓太……それは恋だ」
「恋?」
 大きな二つの蒼穹がパチリと瞬いた。そうか~、と丹羽は唸った。
「先刻は冗談のつもりだったが、本当に春が来てたのか。なら、良かったじゃねえか。その和希って奴も初対面で家に連れ帰るくらいだから気がありそうだしな。部屋の感じからしても結構、目の高い奴みたいだ……うん、俺は気に入ったぜ」
「まだ会ったこともないだろう」
 中嶋が言外に懸念を口にした。しかし、丹羽はそれを軽く笑い飛ばした。
「啓太が見初めた奴なら問題ねえよ。啓太、近い内にきちんと紹介してくれよな。人狼族はいつでも和希を歓迎するからよ」
「あ、あの……俺は別に……和希とは、まだそういうんじゃ……」
 恥ずかしそうに啓太は俯いた。中嶋が煙草を消して立ち上がった。
「帰るぞ、丹羽」
「ああ……悪いな、啓太、六時から会議が入ってるんだ。また今度、ゆっくり遊びに来るからな」
「はい、楽しみにしてます」
「じゃあな、啓太」
 丹羽と中嶋は入って来たときと同じ様に騒々しく静かに帰って行った。再び部屋に一人になると、啓太はポツリと呟いた。
「俺が、和希を好き……? そんなこと、ある訳……」
 しかし、それを否定する気にはなれず……そのまま、啓太は黙り込んでしまった。

 地下駐車場へ降りるエレベーターを待ちながら、おもむろに中嶋が尋ねた。
「丹羽、先刻の話は本当か?」
「人狼族は和希を歓迎するというあれか? 勿論、本当だ。ここへ来る前、鈴菱和希については徹底的に調べ上げた。お前も、あの報告書は読んだだろう。だが、俺もお前と同じで重要なことは自分で確かめねえと信用出来ねえんだ。だから、最終的な結論は今日の啓太を見て出すことにした。鈴菱のことを話してたとき、良い表情だったじゃねえか、啓太の奴。まさに恋と苦悩は紙一重だな。なら、この件に関して、人狼族に何ら異存はねえ。純血種だろうとなかろうと、人の恋路を邪魔する様な野暮な真似はしねえよ。寧ろ、問題になるのはそっちの方だろう。今はどうなってる?」
「まだ動きはない。事が公になってないからな。だが、啓太が鈴菱和希を一族に迎え入れると決めたら……」
 ポンッと柔らかい音がしてエレベーターが到着した。中に乗り込むと、丹羽は一番下にある地下三階のボタンを押した。
「荒れそうだな」
「……」
 それには答えず、中嶋は静かに壁に寄り掛かった。エレベーターがゆっくり降り始める。
「啓太からの血分けは約三百年振り……お前以来か……」
 丹羽が独り言の様に呟いた。
「ああ」
「これが吸血鬼(ヴァンパイア)復興の契機になると思うか?」
「……難しいだろうな。今日における一族の衰退には幾つか理由がある。だが、純血種たるあいつが血分けに積極的でなかったからと考える者にとっては間違いなく朗報だ」
 吸血鬼(ヴァンパイア)は種としてあまりに脆弱だった。同族間で子供が生まれないので、一族を増やすには人間に自らの血を分け与えるという原始的な方法を取るしかなかった。しかし、それでは純血種から直に血分けされた第二世代、そこから更に第三、第四と代を重ねるごとにその血は薄まり、末端に至っては完全に夜しか動けないほど能力が弱まっていた。
 丹羽がエレベーターの階数表示を見上げて言った。
「内も純血種は偉大(おおい)なる母一人だが、血分けで一族になった奴は殆どいねえな。両親が人狼なら、俺の様に最初から人狼として生まれるからだ。俺達は総て彼女の血と濃厚に繋がってる。今日の状況はその差が蓄積された結果か」
「ああ、人狼族の繁栄を妬む連中にとって、あいつの血は喉から手が出るほど欲しい代物だ。奴らはそれで一族を再興出来ると信じている。だから、十六年前……あの事件が起こった」
「……」
 二人の間に沈黙が落ちた。
 吸血鬼(ヴァンパイア)が衰退したもう一つの理由……それは過去に起きた二度の事件で、強力な第二、第三世代の殆どが壊滅したからだった。
 丹羽が微かに表情を曇らせた。
「まさか純血種の能力があれほど凄まじいとはな。連中は普段の啓太しか知らなかったから想像がつかなかったんだろう……俺もだけどよ」
「……」
 エレベーターが止まった。ゆっくり扉が開く。丹羽が歩き出そうとすると、中嶋が低く呟いた。
「もし、また連中があいつに危害を加えようとしたら、今度こそ俺が始末する。もうあいつにあんな真似はさせない」
「良いのか、それで? 同族殺しの汚名が終に本物になるぜ?」
「構わん。あのとき、あいつがやらなければ俺が奴らを殺していた。同じことだ」
「……」
 丹羽は無言で中嶋を凝視した。中嶋は噂ほど冷酷ではないと知っているが、啓太に仇なす者に対して決して容赦しなかった。その非情さは自分に血を分け与えてくれた純血種への恩や忠誠心という言葉では説明出来ない気がした。
「なあ、前から訊こうと思ってたんだけどよ……お前、どうして吸血鬼(ヴァンパイア)になったんだ?」
「……さあな。そんな昔のことは忘れた」
 中嶋はエレベーターに丹羽を残して一人先に出て行った。背後で丹羽が騒いでいるが、それは綺麗に無視した。
「さっさと来い、丹羽、会議に遅れる」
「げっ、もうこんな時間かよ」
 腕時計を見た丹羽は猛スピードで自分の車に突進すると、慌ただしく運転席に乗り込んだ。ドアを閉めようとして声を張り上げる。
「もたもたすんな、中嶋!」
「全く……勝手な奴だ」
 短く零すと、諦めて中嶋は車へ向かって走り出した。



2011.7.22
漸く和希への恋心に気づき始めた啓太です。
でも、啓太は鈍いからもう一押し必要そうです。
そこに絡むのは、やはり……
2023.6.8
随分と放置していましたが、
完結に辺り、加筆・訂正しました。

r  n

Café Grace
inserted by FC2 system