「ただいま、啓太」
 真夜中近くに帰宅した和希は居間のソファで眠る啓太に小さく話し掛けた。
 啓太は和希の朝が早い日は必ずここで待っていた。そうしなければ、一度も顔を合わすことなく一日が終わってしまう。しかし、元々啓太は寝つきが良いのだろう。大抵の場合、こんなふうに眠り込んでいた。そして、そんな啓太を起こさないよう部屋まで運ぶのが和希のその日、最後の仕事だった。
「……」
 ベッドに横たえた啓太の顔を、そっと和希は覗き込んだ。
 バス停で初めて逢ったあの夜の闇の中でさえ啓太は輝いていたのに、今はそれより遥かに明るいのに……なぜ、少し蒼ざめて見えるのだろう。まるで何日も食べてないかの様に……
 最初に見ていたので敢えて訊かなかったが、和希は知っていた……週末、啓太が食事をしていないことを。啓太は自分が財布を持たずに出掛けていることに全く気づいてなかった。
(相変わらず、嘘が下手だな)
 あれから更に啓太と親しくなったはずだが、隠し事をされるのはまだ充分な信頼関係が築けてないからに思えた。和希はいつかの啓太の言葉を思い出した。多分、人徳の差かな……
(仕方ないか……いつも人の裏ばかり読んでいるからな)
 ふっ、と和希は自嘲した。しかし、仮にそうだとしても、惹かれる心を抑えらなかった。この想いを諦めることは……出来ない。
「ごめん、啓太……好きだよ」
 羽の様にふわりと軽く口唇が重なった。そうして和希は静かに部屋を出て行った。
「……」
 ドアの閉まる音と同時に啓太はゆっくり瞼を開けた。空腹で眠りが浅かったのか、和希の囁きで目が醒めてしまった。
「今のって……」
 そっと指が口元に触れた。
(そういう意味、なのかな……やっぱり)
 ほんのり頬が染まった……が、まだ啓太は心に従うより頭で考えようとしていた。だから、自分の想いがわからず、胸の奥では確かに感じている嬉しさに戸惑ってしまった。
「違う。違う。王様があんなこと言うから変に和希を意識してるだけだ。別に面と向かって言われた訳じゃないし……もし、誤解だったら、どうするんだよ」
 啓太は無理やりそう思い込もうとした。すると、それを否定するかの様に疑問が次々に浮かんできた。なら、口唇に残るこの感触は何? おやすみの挨拶? 好きって言った直後に……?
「……っ……」
 ガバッと啓太は頭から布団を被った。
 こういうときは寝てしまうのが一番良いと思った。俺には難しいことは何もわからないから、と啓太は心の中で呟いた。明日になれば、きっとまたいつもの二人に戻ってる……和希も、俺も。
 しかし、そんな状態で安らぎが訪れるはずもなく……結局、悶々と眠れぬ夜を過ごすことになってしまった。

 翌朝、少し遅く起きた啓太が居間へ行くと、和希がダイニング・テーブルでまだ食後のコーヒーを飲んでいた。
「あれ? おはよう、和希、今日は休み?」
「おはよう、啓太。いや、そろそろ出るよ。ここ暫く忙しかったから、石塚が少しだけ時間を作ってくれたんだ。お陰で、今朝はゆっくり眠れたよ」
「そっか。良かったね、和希」
「ああ……ところで、啓太、このコーヒーは啓太が買ってきたのか?」
 和希はテーブルに置いてあるインスタント・コーヒーの瓶を指差した。うん、と啓太は頷いた。
「昨日、突然、知り合いがここへ来るって連絡してきたから急いで用意したんだ。俺には和希の様に豆から淹れるなんて出来ないからさ。あっ、和希、良かったらそれ飲んで。インスタントだけど、知り合いが美味しいって言ってたんだ。俺、コーヒー飲めな……あっ、嫌いだからさ」
 つい本当のことを言いそうになり、慌てて啓太は言葉を変えた。クスッと和希が笑った。
「……今、俺のこと子供だと思っただろう」
「違うよ。やはりそうかと思っただけだよ。ほら、ここにストロングと書いてあるだろう? 何か啓太には似合わない感じがしたんだ。啓太が飲むならマイルドとか、そういう甘そうなイメージだからな」
「やっぱり子供じゃないか」
 啓太は小さく頬を膨らませた。
 丹羽や中嶋も年長者の様に接してくるが、それに対して不満を覚えたことはなかった。寧ろ、二人の好意を感じて嬉しくなった。しかし、和希の場合は違った。そんなふうに扱われると、胸の奥がもどかしさで一杯になる。大人として対等に思われないのが悔しかった。
(確かに隠してることはあるけど、俺、本当にもう子供じゃないのに……)
 啓太は少しふて腐れながら、和希の横を通り過ぎようとした。そのとき――……
「……っ……!」
 一瞬、急激な餓えに襲われた。二週間以上、全く食事をしていないので、和希から漂う濃厚で上質な血の香気に危うく理性が飛びそうになった。それを気力で繋ぎ止めたものの、今度は酷い目眩がする。
「啓太?」
 和希が心配そうに立ち上がった。
「……な、何でもない……大丈夫、だから……」
「そんな顔色をして大丈夫なはずがないだろう。一体、どうし――……」
「だ、大丈夫だって言っただろう! 俺は和希とは違うんだ!」
 とにかく早く遠ざけたくて啓太は強い口調で叫んだ。逃げる様に和希から離れたソファに座って顔を背ける。啓太は必死に血への渇望を抑え込んだ。何とか衝動が落ち着くと、後ろ向きのまま、小さな声で謝った。
「……ごめん。ちょっと言い過ぎた」
「良いよ、気にしてないから。ただ、少し驚いたな……昨夜は起きていたのか」
「……?」
 啓太は密かに首を傾げた。昨夜? 一体、何のことを言ってるんだろう……
『……ごめん、啓太……好きだよ……』
 あっ、と啓太は声を上げた。
 和希が口唇に残した感触を思い出すと同時に、自分の言葉が全く別の意味を持っていると気づいた。何も知らない和希からすれば、同性から想いを寄せられることへの拒絶とも受け取れる。いや、そうとしか思えない、と。
「違っ……!」
 慌てて啓太は振り返った。すると、和希は寂しそうに微笑んだ。
「気にしてないと言っただろう。啓太の気持ちは理解出来るから。昨夜は寝込みを襲う様な真似をしてごめん。もう二度としな――……」
「違うんだ、和希! 俺、そんな意味で言ったんじゃない! だって、あのとき、俺は嬉しかっ……!」
 ハッと啓太は口を噤んだ。
(今、俺は何を言おうとしたんだ? 嬉しかっ、た? 和希にキスされて……嬉しかったのか? どうして? それじゃあ、まるで俺が和希を……)
 咄嗟に口走った想いが信じられなくて啓太は呆然としてしまった。和希が嬉しそうに啓太を見つめた。
「……啓太」
「……っ……!」
 ビクッと啓太は大きく震えた。そして、弱々しく首を横に振った。
「違う……そんなこと……ある訳ない。だって、俺……俺、は……」
「ゆっくり考えて良いよ、啓太……俺は、いつまでも待っているから」
「……どう、して……」
 啓太は痛そうに顔を歪めた。
 人と吸血鬼(ヴァンパイア)はあまりに違い過ぎた……食べるものも、生きる時間の長さも。そんな二人が、いつまでも一緒にいられないことは最初からわかっていた。にもかかわらず、いつしか啓太は思ってしまった。昨日と同じ日を積み重ねていけば、この生活がずっと続けられる、と。しかし、その甘い希望は厳しい現実を前に敢えなく崩れ去った。
「啓太……」
 今にも泣き出しそうな啓太を見て和希はきつく掌を握り締めた。
 和希としても、このぬるま湯の様な関係は居心地が良かった。啓太との恋は祝福されないとわかっていた。幼い頃から自分にはいずれ背負ってゆくもの、背負わなければならないものがあった。もし、同性を伴侶に選べば、その多くを失ってしまうだろう。それでも構わないと言えば嘘になった。これまで積み重ねてきた努力は決して安くはない……が、啓太の空の様に蒼く澄んだ瞳に心が魅せられてしまった。啓太と出逢って初めて和希はそれまで灰色だった世界に鮮やかな色彩(いろ)がついた気がした。もうあの頃には戻れない……否、戻りたくなかった。どちらを選んでも、いつか必ず後悔するなら……
(俺は、一人より二人の方が良い)
 即座にそう結論づけた。すると、今更ながらに何一つ啓太の事情を知らないことが悔やまれた。『鈴菱』の力を以てすれば対処出来ないものはないのに、少しでも長く一緒にいたいがために啓太の信用を失いかねない行動を躊躇ってしまった。しかし、こうなった以上、もう猶予はない。
 ……ピンポーン。
 玄関の呼び鈴が鳴った。石塚が迎えに来たので、和希は啓太を見つめて優しく言った。
「今日は出来るだけ早く帰るよ、啓太……訊きたいことがあるんだ、色々と」
「……」
 啓太は無言で俯いた。それが承諾なのかどうか和希には良くわからなかった。ただ、今夜は長くなる……そんな予感がした。



2011.8.5
想いは同じでもすれ違う二人です。
和希には遠くから啓太を見守るという選択肢はありません。
そこが、和希の弱さかな。
でも、そういう和希が好きかも。
2023.7.14
随分と放置していましたが、
完結に辺り、加筆・訂正しました。

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Café Grace
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