和希が仕事に行った後も啓太はずっとソファに座っていた。いつもなら寝転んでテレビを見たり、文字の練習を兼ねて書いた昔の日記を読み返していたが、今日はそんな気になれなかった。ただ、啓太は考えていた。自分のこと、和希のこと……これからのことを。やがて一つの結論に達すると、覚悟を決めて携帯電話を手に取った……
『お前から掛けてくるとは珍しいな』
 画面の向こうから聞こえる低く静かな声に気圧されないよう啓太は深く息を吸った。
「中嶋さん……俺、和希が好きです」
『……それで?』
 少し間を置いて、中嶋が尋ねた。啓太は初めて中嶋に命令した。
「今夜、和希に総てを話して同意が得られれば一族に迎えます。近い内に和希を人狼族に紹介する場を設けて下さい」
『断る』
「……っ……!」
 一瞬、啓太は言葉を失った。普段は中嶋が年長者の様に振舞うのを受容しているが、まさか始まりたる自分の意思が拒否されるとは思ってもいなかった。
 かつて吸血鬼(ヴァンパイア)と人狼は不死の覇権を巡って激しく争っていた。現在は休戦協定が結ばれたものの、強力な吸血鬼(ヴァンパイア)となる純血種からの血分けは予め人狼族の了承を得る習わしになっている。それなくして行えば、不信行為と見なされても文句は言えなかった。再び戦火を交える事態は絶対に避けなければならないのは啓太もわかっていた。今の吸血鬼(ヴァンパイア)族に人狼族と互角に渡り合う力はないから。つまり、このままでは和希を吸血鬼(ヴァンパイア)にすることが出来なかった。
 打つ手を失った啓太の耳に、中嶋の小さなため息が聞こえた。
『相変わらず、お前は何も考えていないな』
「なら、他にどんな方法があるって言うんですか!」
 反射的に啓太は叫んだ。感情が高ぶって泣きたくなってくる。
「人と吸血鬼(ヴァンパイア)はあまりに生きる時間が違い過ぎるんです。もしかしたら、明日、和希は死んでしまうかもしれない。だから、一刻も早く吸血鬼(ヴァンパイア)として迎えなければ駄目なんです。それに、一族としても新しい吸血鬼(ヴァンパイア)の誕生は喜ばしいはず。なのに、どうして……中嶋さんはこのまま、一族が滅んでも構わないって言うんですか!?」
『勘違いするな。俺は近日中なら断ると言っただけだ』
「どうしてっ……!」
 なぜ、中嶋が反対するのか啓太にはわからなかった。焦りがチリチリと胸を焦がす。すると……
『啓太、お前が最後に血分けをしたのはいつか覚えているか?』
「えっ!? 血分けですか?」
 啓太は首を傾げた。それが今の問題にどう関係するのだろう。しかし、中嶋が話を逸らして誤魔化そうとしているとは思えないので、必死に記憶を手繰り寄せた。
「いえ、はっきりとは……多分、百年はしてないかも……」
『約三百年だ。その間、お前は様々な者から何度も要請を受けた……が、総て断ってきた。それなのに、好きな奴が出来たから血分けをすると言って皆が納得すると思うか?』
「でも、それは――……」
 言い掛けて、ある光景が啓太の頭に浮かんだ。細い雨が降り注ぐ中、地面に座り込んで泣いている自分と傷ついて仰向けに倒れている男。その顔は朧で良く思い出せない。ただ――……
『……ごめんなさい。ごめんな、さい……っ……もう、俺……しない、から。だから――……』
 あのときに感じた突き刺す様な後悔は今もまだ胸の奥にはっきりと残っていた。
(ああ、そうだ。俺はあの人と約束したんだ。他人から言われるままに血分けはもうしないって。ちゃんと自分で考えるって。誰だったかな、あの人……)
 目を閉じて啓太はもっと深く思い出そうとした。しかし、それは中嶋の声に遮られてしまった。
『でも……何だ?』
「あ……いえ、別に……」
 慌てて啓太はその記憶を頭から追い出した。今はそんなことを考えている場合ではなかった。ここで中嶋を説得出来なければ、和希を吸血鬼(ヴァンパイア)にすることは出来ないから。
 中嶋が再び話し始めた。
『吸血鬼(ヴァンパイア)は階級意識が強い上に、人より優れていると思っている者が多い。そこに、昨日まで人間だった者がお前からの血分けでいきなり第二世代になれば反感を買うのは目に見えている。遅かれ早かれ、排除しようとする奴が出て来るだろう』
「そのときは俺が和希を護ります!」
 一瞬で目の前が赤く染まった。たとえ、同族といえども、和希を傷つける者は許せなかった。想像するだけで怒りで我を忘れそうになる。しかし――……
『そうして、三度、お前は狂気に陥るのか?』
「……っ……!」
 一気に冷水を浴びせられた。中嶋の声音が厳しさを増した。
『純血種の能力は狂気そのものだ。何の制御もなく発動すれば、お前はまた記憶の大半を失う。今度こそ、本当に一族を滅ぼすつもりか?』
「そんなつもりは……」
『それに、昨日、丹羽がただ遊びに来ただけと本気で思っているのか? ああ見えて、あいつは人狼評議会議長だ。しかも、通常の人狼より純血種の血を色濃く受けた稀な存在として一目置かれている。先見の明にも長け、吸血鬼(ヴァンパイア)族の動向は常に把握している、こちらとしても非常に厄介な相手だ」
「……!」
 それは初耳だった。今まで啓太は吸血鬼(ヴァンパイア)族としての交渉に殆ど携わってこなかったので、実は水面下で中嶋が丹羽とそんなを鍔迫り合いをしているとは思ってもいなかった。中嶋が話を続ける。
「今回の件で評議会に吸血鬼(ヴァンパイア)討滅の気運が高まった。あの『鈴菱』が吸血鬼(ヴァンパイア)族に加わろうとしているのだから当然の反応だろう。それを丹羽が何とか抑え込み、先日、漸く判断の一任を取りつけた。丹羽は鈴菱和希の人となりを徹底的に調べ上げた。ここで判断を誤れば、不死の覇権を巡る争いが再び起こるかもしれないからだ。そして、最後にお前を通して探ることにした。鈴菱のことを最も近くで見ているお前以上に信用出来るものはないからだ』
「王様が、そんなことを……」
 確かにこれでは中嶋に何も考えていないと言われても仕方がなかった。最早、事は二人だけの問題ではない。和希との出逢いが吸血鬼(ヴァンパイア)と人狼、両一族を巻き込む大きなうねりを起こしていた。しかし、啓太にはそれをどうやって乗り越えたら良いか全くわからなかった。音もなく口唇が震え、蒼い瞳から堪え切れない涙が溢れて落ちた。
『……啓太』
 中嶋が少しだけ柔らかく名前を呼んだ。
『鈴菱に関して、人狼族の了承は既に得られている。昨日の丹羽の言葉は覚えているだろう』
「……はい……」
『だが、刻(とき)を違(たが)えれば総てを失う。もう一度、良く考えろ。その想いが本物なら、これから何をすべきか……自ずとわかるはずだ』
 そして、通話が切れた。啓太は携帯電話を放り投げ、傍にあったクッションの上に身を投げ出した。
「……和希……っ……」
 静かな室内に啓太の泣き声が響くまでそう時間は掛からなかった。

 重厚なカーテンで遮光した薄暗い執務室に中嶋は暫く無言で座っていた。やがて内ポケットからおもむろに煙草入れ(シガレット・ケース)を取り出す。煙草の味はもう忘れてしまったが、昔からの習慣で未だ手放せずにいた。いつかこういう日が来るとは予想していた……が、実際に経験すると、思いの外、動揺している自分がいた。
「……」
 中嶋は紫煙を胸の奥までゆっくりと深く吸い込んだ。
 それを繰り返していると、気持ちが徐々に落ち着いてきた。今頃、啓太は泣いているのだろう。初めて逢ったときから啓太は中嶋の前ではいつも謝るか、泣いてばかりいた。そう、遠い昔……冬には珍しい細かな雨が村全体を薄らと覆っていたあの日も……

「……ごめんなさい。ごめんな、さい……っ……」
 傍らに座り込んだ啓太は泣きながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。その姿に中嶋は胸に受けた傷よりも心が痛んだ。仰向けに倒れているので、顔に落ちてくるのはこの冷たい雨だけで充分なのに。もう泣くな。お前が謝る必要はない。そう言ってやりたかったが、舌が強張って巧く声が出なかった。それに……とぼんやり中嶋は思った。なぜ、こんなにも喉が渇くのだろう。なぜ、まだ俺は生きている……?
 啓太の手に胸を貫かれて死んだはずだった。その痛みも苦しみも……恐怖も、はっきりと覚えている。あれは間違いなく致命傷だった。ただ、もし、死を免れる方法が一つあるとすれば……
「……っ……」
 中嶋は自分が吸血鬼(ヴァンパイア)になってしまったと気づいた。だから、ずっと啓太は謝っているのだろう。確かに中嶋は吸血鬼(ヴァンパイア)になるつもりはなかった。しかし、それはくだらない連中と永遠を生きたくないからで、吸血鬼(ヴァパイア)そのものを否定していた訳ではない。
(全く……その程度のことで一々泣くな、啓太)
 まだ言葉を発することが出来ないので、代わりに中嶋は気怠い腕を持ち上げた。啓太の服を掴んだとき、微かに手が震えていたのは寒さのせいか。それとも――……

「相変わらず、お前は手が掛かる……昔も、今も」
 そう零すと、中嶋は煙草を消して立ち上がった。
 今日は忌々しいほど良く晴れ渡っていた。第二世代といえども、これでは長時間は耐えられない。それでも、行かなければならなかった。中嶋は内線の一番を押した。直ぐに丹羽が答える。
『何だ?』
「暫く外出する。後は任せた」
『……今夜まで待てって言っても無駄だろうな』
 事情を察して丹羽は短く嘆息した。これ以上は吸血鬼(ヴァンパイア)族内の問題に干渉することになってしまう……が、最後にもう一言だけ付け足しても良いだろうと思った。友人だから。
『まあ、お前のことだから灰になる様なヘマはしねえと思うが……気をつけろよ、中嶋』
「ああ」
 その瞬間、中嶋の身体は黒い霧となって宙へと霧散した。



2011.8.19
漸く啓太の過去と背景が出て来ました。
そして、気分は花嫁、もとい花婿の父の中嶋さん。
やはり中嶋さんは優しいです。
2023.7.14
随分と放置していましたが、
完結に辺り、加筆・訂正しました。

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Café Grace
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