「……」
 昼下がりの理事長室で和希は仕事の手を止めて無言で男を凝視した。
 眼鏡の奥に怜悧な蒼い眼差しを秘めたその男は仕立ての良い背広にきっちり身を包んでいた。一目で有能だと見て取れる……が、とても人間とは思えなかった。なぜなら、彼は不意にどこからか流れてきた黒い霧が凝縮して形を成したから。
 本来なら、不審者として直ぐに隣室の石塚か警備員を呼ぶべき状況だった。しかし、態々人外の力を見せつける様にして現れたのは何か意図があってのことに思えた。それを無視して、いきなり敵意を向けるのは少なくとも得策ではない。だから、相手が用件を切り出すまで和希は静かに待つことにした。
「成程……人間にしては話が早そうだ。だが、その前に……」
 男がさっと右手を振った。すると、和希の背後で窓に掛かっているカーテンが軽い音を立てて閉まった。同時に暗くなった部屋に勝手に明かりが点く。
「これで落ち着いて話が出来る」
「話とは……?」
 薄々内容を察しながら、和希は尋ねた。
「決まっている。あいつのことだ」
 男は内ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。和希は微かに顔を顰めると、机の上で軽く指先を合わせた。
「啓太の話をする前に、まずは自分の素性から明かすべきだろう。それに、ここは禁煙だ」
「……ふっ」
 その言葉を男は軽く鼻で笑った。煙草を消す気配はない。
「中嶋英明。あいつの顧問弁護士をしている。見ての通り、愛煙家だ。煙草の味はもうわからないがな」
「過度の喫煙による味覚障害か」
「いや、吸血鬼(ヴァンパイア)だからだ。吸血鬼(ヴァンパイア)には殆ど味覚がない。だが、鼻は利くから大抵の奴は香りのあるものを好む。俺の場合は単に昔からの習慣だ」
 中嶋は深く煙草を吸い込んだ。和希は中嶋を凝視した。
「吸血鬼(ヴァンパイア)……まさか啓太も……」
「ああ、あいつも吸血鬼(ヴァンパイア)だ。しかも、総ての吸血鬼(ヴァンパイア)の始まりたる存在、純血種だ。平たく言えば、人間だったことがない」
「……そうか」
「あまり驚かないな」
「ああ、『鈴菱』の持つ未確認情報の中には人外の存在に関するものが幾つかある。ただ、啓太がそうとは思わなかった」
 この情報だけで和希は啓太の多くを窺い知ることが出来た。
 生まれながらの吸血鬼(ヴァンパイア)だから、啓太はあんな奇妙な食事の仕方しか出来なかったに違いない。それでも必死に人間らしく振舞おうとした優しさは美徳だが、お世辞にも要領が良いとは言えなかった。だから、周囲から不審がられないよう一つ処に留まらず、ホテルを転々としていたのだろう。
(それでか。いつも啓太が居間で俺を待っていたのは……)
 初めて和希は啓太の中に自分と同じ寂しさを感じた。
 『鈴菱』の後継者として、和希は子供の頃から大人であることを強いられてきた。そのことを苦痛に感じたことはない。しかし、心から笑ったことも一度もなかった。今にして思えば、孤独な二つの魂が惹かれあったのは当然の帰結だったのだろう。たとえ、それが相対する存在……人と吸血鬼(ヴァンパイア)だったとしても。
「君は啓太が幼い頃から知っているのか?」
 中嶋の方が大人びているので、当然、啓太より年上だと思った。しかし、返事は意外なものだった。
「いや、あいつは俺が子供のときから今と同じ姿をしていた」
「なら、啓太の正確な出自はわからないのか?」
「俺達のいた村にあいつに関する記録があったはずだが、三百年ほど前に総て燃えてしまった。最早、それを知っているのはあいつだけだろう」
 もし、思い出せるのならな……という言葉は呑み込んだ。和希は、じっと中嶋を睨んだ。
「君は啓太の過去にかなり詳しそうだな」
「嫉妬するのは勝手だが、それをぶつけられては迷惑だ。俺達はお前の考えている様な関係ではない」
「本当か、それは?」
「……ああ」
 中嶋の瞳が和希から紫煙の先へと流れた。
「俺は、謂わばあいつの先生だ。昔、教育は裕福な家の者にのみ与えられた特権だった。下手に知恵などない方が利用し易いからだ。あいつは領主から館の離れを与えられ、何不自由なく暮らしていたが、俺が教えるまで計算はおろか読み書きすら満足に出来なかった。日がな一日、外で絵を描いたり、その辺りにいる犬や猫と遊んでいた。そして、時折、領主から食事として与えられる人間を殺していた」
「……!」
 和希が僅かに目を瞠った。中嶋は淡々と話し続けた。
「吸血鬼(ヴァンパイア)は純血種の血に近いほど強い能力を持つ。領主は善悪を判断する知恵を持たないあいつに衣食住を与え、生活を保障した。あいつは無邪気にそれを感謝していたが、奴の目的は純血種を己が管理下に置くことで自分とその一族以外が第二世代――直接、純血種から血分けされた者――になるのを阻止することだった」
「力を独占して他を支配する、か。人も吸血鬼(ヴァンパイア)も考えることは同じだな」
「ああ……だが、やがて奴はあいつを疎んじる様になった。純血種が永遠に自分の上にいることが許せなかったのだろう。くだらん矜持(プライド)だけは高い奴だったからな。いずれあいつを始末しようとするのは目に見えていた。だから、俺はあいつに早くこの村から出て行けと言った」
 そこで中嶋の声が途切れた。昔の記憶が蘇り、複雑な感情が胸に込み上げてくる。
『……なら、中嶋さんについて行っても良いですか? 俺……まだまだもっと色々なことを教えて貰いたいんです……』
 あのときは……確かに、その言葉で救われた。
 当時、中嶋は領主の娘婿として第三世代の吸血鬼(ヴァンパイア)となるよう迫られていた。無能な連中と退屈な日々を延々と生きるよりは潔く死を選ぶつもりだったが、自分だけ総てを終わらせるのは面白くなかった。そこで、中嶋は言い訳をして婚礼の日を先延ばしにしながら、領主が囲っている純血種を密かに探していた。それを逃がせば確実に殺される。しかし、どちらを選んでも結果が同じなら中嶋に迷いはなかった。
 そうして見つけたのが啓太だった。
 漸く一矢を報いることが出来ると思った……が、啓太は驚くほど中身が子供だった。これでは騙して村から逃がしても、空腹になれば、何ら良心の呵責なく人を殺すだろう……ここで、そうしていた様に。啓太には人の世を一人で生きてゆくための知恵が絶対的に足りなかった。このままでは別の誰かにまた利用されるだけで同じことの繰り返しになってしまう。そう考えた中嶋は、だから、啓太に文字を教えた。そうすれば本が読めるので、いずれは自分で物事を考えられる様になるはずだった。しかし、その先もまだ必要とされるとは思ってもいなかった。親切というより、打算で始めた教師の役。人と吸血鬼(ヴァンパイア)という圧倒的な力の差を前に為す術もなく生命を諦めるしかなかった中嶋に、啓太は一つの希望を与えてくれた。こいつが望むなら、吸血鬼(ヴァンパイア)になるのも悪くないかもしれない。そう思い始めていたが――……
「……ふっ」
 中嶋の口唇に微かな自嘲が浮かんだ。この苦い感情を何と呼べば良いのか、あれから三百年以上が経った今でもわからなかった。愛ではない。愛ではない……が、深く考えることを頭が拒否する。
(今更だな……あいつにとって俺は教師。それだけわかっていれば良い)
 和希の探る瞳に、中嶋は物思いを振り払った。不自然な間を誤魔化す様に新しい煙草に火を点けていると、和希が言った。
「何か啓太に思うところがありそうだな」
「いや……ただ、少し昔を思い出しただけだ」
「……啓太は君の忠告に従ったのか?」
「ああ……だが、思いの外、領主の行動が早かった。その晩、奴は一族を率いて離れを急襲した。不死の吸血鬼(ヴァンパイア)とはいえ、殺す方法がない訳ではないからな。陽の光があいつに効かないことは奴も知っていた。だから、眠っているあいつの心臓に杭を打ち込んだ」
「なっ……!」
 さっと和希は蒼ざめた。まさか啓太がそんな酷い目に遭っていたとは思ってもいなかった。中嶋は細く煙を吐いた。
「普通の吸血鬼(ヴァンパイア)を討滅するなら、それで全く問題ない。だが、奴は純血種の能力を甘くみていた。痛みと怒りで狂気に陥ったあいつは手当たり次第に連中を襲い始めた。霧や獣へ自在にその姿を変えながら、何人もの吸血鬼(ヴァンパイア)を追い詰め、引き裂き、溢れた血を全身に浴びて飲んだ。暫くして離れから火の手が上がった。恐らくあいつから逃げようとした誰かが放ったものだろう。その炎に煽られて、あいつの周囲には死んだ吸血鬼(ヴァンパイア)の灰が雪の様に舞っていた……」
「……君は、そのときの生き残りか」
「いや、俺はあの館で唯一の人間だった。深夜に奴らの集まる気配を感じて離れに急いだが、所詮は人の足だ。連中の方が早く着いた」
「それで、凄惨な事の顛末を見届けた目撃者になったのか」
「それも違う。あの日、俺もあいつに殺された」
「……っ……!」
 絶句する和希に中嶋は更に畳み掛けた。
「狂気に陥ったあいつにものの区別などつかない。人か吸血鬼(ヴァンパイア)かを問わず、周囲にいる総てを獲物にする。そして、漸く我に返ったとき、あいつは名前以外の記憶は混濁して殆ど思い出せなくなっている。これまで自分が何をしてきたのか。何をしてしまったのか……総て、な」
「……」
「今夜、あいつはお前に吸血鬼(ヴァンパイア)と明かして、あの部屋を出て行くだろう。何も知らなければ、お前はあいつを引き留めようとするかもしれない。だが、この話を聞いてなお、その気はあるか? あいつは十六年前にも狂気に陥り、再び記憶を失った。三度目がないとは言い切れない。しかも、あいつはお前と逢った夜以来、まだ一度も食事をしていない。そろそろ激しい喉の渇きに苛まれているはずだ。お前を襲いたくなる衝動に駆られたこともあったに違いない。それを必死に堪えているのだろう……が、餓えて理性を飛ばすのは最早、時間の問題だ。そのとき、お前はどうする? 大人しく餌になる覚悟すらない生半可な想いなら、今夜を限りにあいつのことは忘れろ。あいつもお前を責めはしない。所詮、人と吸血鬼(ヴァンパイア)は相容れぬ存在だからだ」
 中嶋は冷たく和希を見据えた。すると、静かな怒りを持って和希は中嶋を睨みつけた。
「君は、私が啓太への想いを自覚したときに悩まなかったと思うのか?」
「……」
「幼い頃より、私は次代の『鈴菱』を担うべく育てられてきた。だが、今、啓太を伴侶にすれば、その役を別の者に譲り渡すことになる。『鈴菱』はまだ同性婚を受け入れられないからだ。地位など別に惜しくはない。ただ、今日まで私が『鈴菱』の未来のために積み重ねてきた努力の総てが無になってしまう。それを後悔しないとでも? 啓太と比べるのが間違っているのはわかっている。だが、そんな綺麗ごとで簡単に割り切れるものではないだろう、人は。少なくとも君には覚えがあるはずだ。過去に啓太に殺されたのだから」
「……」
「そうして漸く選んだこの想いを、部外者の君に生半可とは言われたくない。そのことで私を責める権利があるのは啓太だけだ」
「呆れるほど身勝手な奴だな。お前は自分の後悔をあいつにも背負わすつもりなのか?」
「……何とでも。それでも、私は啓太を手放さない」
 譲れない想いが宙で鋭く交差した。中嶋は小さく息を吐くと、煙草を握り潰した。
「どうやら覚悟だけは持っている様だな……なら、少しだけ手を貸してやる」



2011.9.30
いつも無口な中嶋さんが色々話してます。
ここまで饒舌なのは初めてかも。
ただ、中嶋さんの啓太への想いは複雑です。
2023.7.14
随分と放置していましたが、
完結に辺り、加筆・訂正しました。

r  n

Café Grace
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