「全く……」
 中嶋はバス停のベンチを見て小さなため息をついた。そこには夜風に吹かれながら、暢気に眠り込んでいる啓太がいた。まだそれほど寒くないとはいえ、身体が少し冷えているのだろう。ほんのり頬が上気している。それでも起きないのはさすがと言うべきか、と呆れ半分に思った。しかし、このままでは吸血鬼(ヴァンパイア)といえども、風邪を引きそうだった。そこで、中嶋は小言は後にして一先ず啓太をホテルへ連れ帰ることにした。念のために持って来た啓太の栗色のショールを大きく広げる。それで自分より一回り細い身体を包み込もうとして……手が止まった。啓太からアルコールの匂いがする。
(また拾い食いをしたのか)
 日頃から中嶋は獲物はきちんと選べと言っていた。しかし、時折、啓太は手近な者で簡単に済ませてしまった。昔なら確かにそれでも良かった……が、様々な薬が氾濫している現在、二人が人の血のみを糧とする吸血鬼(ヴァンパイア)である以上、その質に注意しなければならないのは当然だった。実際、啓太は降圧剤の入った血を飲んで意識が朦朧としたことがあった。どうやら今回は酔人の血らしい。後でお仕置きだな……と中嶋は低く呟いた。そのとき、不意に啓太が嬉しそうに言った。
「書け、た……」
「……!」
 中嶋が僅かに息を呑んだ。それは単なる寝言に過ぎなかったが、頭の中に二人が初めて逢った三百年前の日々が蘇ってきた……

 最早、庭とは呼べない鬱蒼とした森の中を中嶋は一人歩いていた。領主の館は無駄に敷地が広い上に、長い間、どこも全く手入れはされていないのでまさに荒れ放題だった。中嶋は視界を遮る邪魔な枝を無造作に手で払い除けた。すると、ピリッとした痛みが腕に走った。二重袖が引っ掛かって、どこかを少し切ったらしい。ちっ、と中嶋は低く舌打ちした。血の匂いが要らぬ危険を引き寄せるかもしれない……ここは吸血鬼(ヴァンパイア)の支配する土地だから。
 この辺りは周囲を霧深い山々に囲まれているため、ずっと静かで平穏な村だった。しかし、六十年ほど前、領主とその一族が吸血鬼(ヴァンパイア)となって状況は一変した。領主に貢物をすれば吸血鬼(ヴァンパイア)になれると噂が立ち、不死を求める者達が遠方から続々と村を訪れる様になった。そうなれば、当然、病人も増える。そこで、医師だった中嶋の祖父は診療所を併設した宿屋を始めた。それは大繁盛し、中嶋の家はとても裕福になった。現在は母親と姉が宿屋を切り盛りし、父親は医師として治療に当たっている。そして、中嶋は父に付いて医術を学んでいた。しかし、ある日、領主から館へ呼び出しを受けた。そこで中嶋は顔立ちは悪くないが、華美なドレスに身を包んだ高慢そうな一人の女に引き合せられた。
 瞬間、嫌な予感がした。領主が尊大に構えて言った。
「……君は実に運が良い。我が娘に見初められたお陰で、不死を手にすることが出来るのだからな」
「はい、有難うございます」
 中嶋は小さく頭を下げた。本来なら、と女が手にした羽扇を弄びながら、口を挟んだ。
「純血種の信任厚い我が一族に迎える者はもっと慎重に選ぶべきだけど、お前を見込んだ私が無理やり父に結婚を了承させました。感謝なさい」
「はい、身に余る光栄と深く胸に刻んでおきます」
「良い心掛けだわ。婚礼の晩に、お前を私の血で第三世代の吸血鬼(ヴァンパイア)にします。楽しみにしていなさい」
 二人とも、最初から中嶋の意見は訊こうとすらしなかった。
 この村では人間に選択肢はなかった。吸血鬼(ヴァンパイア)に逆らえば殺されるだけ。だから、中嶋は素直に従う振りをした。しかし、自ら望みもしない不死の恩を着せられて永遠に彼らにかしずく気は全くなかった。
 領主は中嶋に館の一室を与え、万が一にも他の吸血鬼(ヴァンパイア)に襲われないよう婚礼の日まで敷地から一歩も外に出てはならないと命じた。中嶋は案内された部屋に入ると、豪奢な調度品には目もくれずに真っ直ぐ窓辺へと寄った。硝子越しに荒れ果てた庭を見下ろしながら、細巻きの煙草に火を点ける。死ぬ覚悟は既に出来ていた……が、自分だけ総てを終わらせるのは面白くなかった。力では到底、敵わない吸血鬼(ヴァンパイア)に一矢を報いる方法。中嶋の考えが正しければ、それがこの庭のどこかにあるはずだった。
 以前、中嶋は診療所に来た村の老人から興味深い話を聞いたことがあった。
 その老人の家系は代々領主の館で庭師をしていたが、一ヶ所だけ手入れをしなくても良い場所があった。それは館から歩いて十分ほどの距離にある離れで、そこには若い男が住んでいた。時折、領主は誰かを連れてそこへ行ったものの、戻って来るときはいつも一人だった。老人は、あの男も吸血鬼(ヴァンパイア)で領主様の愛人に違いない、と訳知り顔で言った。
 それを聞いた中嶋は一つ腑に落ちないことがあった。
 仮に二人で夜を楽しむ前の食事にするとしても、自分はもてなされて当然と驕っている領主が自ら人間を用意するとは考えられなかった。その若い男が怪我などで外へ出られないから仕方なく、というのもあり得ない。領主は親切という言葉から最も無縁な位置にいた。
 なら、思いつく理由は一つしかなかった。
 それは離れの男が勝手に誰かを吸血鬼(ヴァンパイア)にしたら都合が悪いのだろう。なぜなら、その男こそ……
「……」
 森を渡る風が梢をざわざわと揺らした。
 中嶋は足を止めると、ポケットから銀の懐中時計を取り出した。もう館を出てから十分以上は歩いている。この一週間、東の庭は殆ど調べたが、未だに手掛かりすら見つからなかった。こちら側ではないのかもしれない。中嶋が諦め掛けたそのとき――……
(あれは……!)
 藪の向こうに他より雑草の生えの悪い部分があった。それは一本の線の様に木々の合間を縫って続いている。見つけた、と中嶋は小さく口の端を上げた。
「……っ……」
 逸る心のままに小走りに森を急ぐと、急に視界が開けて中嶋は光の眩しさに目を細めた。
 この辺りはそれなりに手入れがされて小路がはっきりしていた。少し先に石造りの古い大きな離れがある。傍には井戸と薪小屋があるので、今もまだ誰かが住んでいる様だった。ドアの前には手作りの小さな花壇が並んでいた。遠目にも色鮮やかな野苺を中嶋がぼんやり見ていると、不意に葉陰から誰かが立ち上がった。それは茶色い癖毛の若い男……中嶋は僅かに息を呑んだ。
「お前は……」
「……?」
 男が顔を上げて中嶋を振り返った。
 その瞳は、まるで光射す眼差し……遥かな蒼穹を写し取ったかの様に澄み渡っていた。昔と全く変わっていない。
「……そうか」
 我知らず、中嶋の口唇が歪んだ。
「お前が純血種だったのか」



2012.12.30
和啓ver.と同じ設定の中啓です。
中世ヨーロッパをイメージしていますが、
名前は日本語です。
最後はいつもの様にハッピー・エンドなのはお約束。
2023.6.13
随分と放置していましたが、
完結に辺り、加筆・訂正しました。

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Café Grace
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