フランス主催の世界会議が終わった喧騒の中、日本は自席で書類を丁寧に纏めていた。まだ初日というのに、とても疲れた気がする。パリは遠いですからねえ、と日本は密かにため息をついた。そのとき、背後から低い声で呼び掛ける者がいた。
「日本、ちょっと良いか?」
「はい、ドイツさん、何でしょうか?」
 日本は立ち上がってドイツに向き合った。ドイツは明日の議題になるだろう環境問題に関する分厚い資料を日本に手渡した。
「最新のデータが良いと思っていたら、こんな間際になってしまった。すまない」
「いいえ、こちらこそ助かりました。有難うございます。明日までには必ず目を通しておきます」
 素直に日本は礼を言った。ドイツは軽く頷き、それから、少し遠慮がちに尋ねた。
「ところで、明日の会議が終わったら、イタリアと三人で食事に行かないか? 日本と会うのは久しぶりだから話したいことが一杯あるとイタリアの奴が煩くてな。まあ、俺もそうだが」
「良いですね。是非、ご一緒させて下さい」
 かつて同じ枢軸国として共に世界を駆けた友人とは新しい世紀を迎えてもまだ固い絆で結ばれていた。そうか、とドイツが嬉しそうに笑った。
「おい、イタリア、日本も良いと……って、あいつ、どこに行ったんだ?」
 ドイツはキョロキョロと周囲を見回した。なかなか一つ処にじっとしていないイタリアにドイツはいつも振り回されていた。そんな相変わらずの二人を日本は微笑ましく思いながら、ドイツから貰った資料を右腕に抱えてテーブルの書類に左手を伸ばした。
「……っ……!」
 小さく呻いて、ドサッと資料が落ちた。
「あ~、日本!」
 その音を聞きつけて、どこからかイタリアが現れた。日本の傍に飛んで来る。
「荷物、落としちゃったの~?」
「あ……はい、申し訳ありません」
 日本は左腕を押さえて小さく頭を下げた。イタリアが跪いて資料を拾い始めた。
「これ、ドイツの資料だね。すっごく重いよね。日本は俺達より華奢だから少し量を減らしてあげれば良いのに。ほら、ドイツも手伝ってよ」
 ああ、とドイツも膝をついた。
「確かに日本には重過ぎたかもしれないな。だが、だからと言って日本だけ資料を減らす訳にはいかないだろう」
「ヴェ~」
 イタリアが不服そうな声を上げた。日本は小さく俯いて無言で立ち尽くしていたが、二人は床に散らばった資料を集めるのに夢中で気にも留めなかった。やがて総てを回収し終えてドイツとイタリアは立ち上がった。イタリアが軽く膝の埃を払いながら、優しく言う。
「これは俺が部屋まで持ってってあげるよ、日本……って、日本?」
「うん? どうした、日本?」
「あ……お二方とも有難うございます。でも、それには及びません。このくらい私一人でも持てますから」
 心配そうな二人に日本は静かに微笑んだ。
 イタリアから資料を受け取って自分の荷物と一緒に両手に抱えると、途端に顔が隠れて見えなくなってしまった。イタリアが非難の眼差しをドイツに投げた。
「ドイツ~」
「あ~、次からは日本の部下に渡すとしよう。気が回らなくてすまなかったな」
「いえ、お気になさらず……では、私はお先に失礼しますね」
 資料の横から日本は少しだけ顔を覗かせて目礼した。ああ、とドイツは頷いた。イタリアは大きく手を振りながら、小さく飛び跳ねた。
「日本、気をつけて帰ってね~」
「はい、では、また明日」
 そうして三人は和やかに別れた。

 ……十五分後、漸くホテルの自室へ辿り着いた日本はドアを開けて中に入るや否や、ドサドサッと資料を床に落とした。左腕の焼ける様な痛みに蒼ざめながら、ふらふらと寝室に向かう。
 これは罰なのだと思った。
 二百年以上も閉じ籠もっていた自分を外へと引き出した年若い国といつしか想いを一つにし、身体を重ね、肌を許してしまった。自国以外を愛するなど決して許されないことなのに……
『……日本……』
 屈託のない明るい声が聞こえた気がした。朧な瞳を前方に凝らすと、豊かな実りと澄んだ空の色彩(いろ)を併せ持つ晴れやかな笑顔の男が見えた。無意識に右手が彼を求めて伸びた……が、それを日本は意思の力でキュッと拳に変えた。
(ああ、それでも私は――……)
 そこで、日本の意識はぷっつり途切れてしまった。

「んっ……」
 どのくらい時間が経ったのか。頬に触れる心地良い感触に日本は目を醒ました。
「あっ、気がついたかい、日本?」
「……アメ、リカさん……?」
 ベッドに横たえられた日本は自分を覗き込む空色の瞳を不思議そうに見つめた。なぜ、アメリカがここにいるのかわからなかった。すると、アメリカが一気に訳を説明した。
「君が帰った後、ドイツとイタリアが俺の処に来たんだよ。日本の荷物が一杯だから同じホテルの俺に送ってけってさ。君達は仲が良いよね。まあ、それで、急いで後を追ったんだけど、出遅れたせいで捕まえられなかったんだ。仕方なく君の部屋へ行ったら、幾らノックしても返事がなくてさ。あの道で俺が君を追い抜いて気づかないなんてあり得ないから、ちょっと心配になって支配人に鍵を開けて貰ったんだよ。そうしたら、案の定、中で君が倒れてるじゃないか! 本当に驚いたよ」
 外交特権など全く眼中にないアメリカに日本は内心、苦笑した。しかし、今は敢えてそれには触れず、ただ静かに頭を下げた。
「……申し訳ありません」
「一体、何があったんだい、日本?」
「いえ、大したことではありません。だから、アメリカさんはもうお引き取り――……」
「大したことあるよ!」
 突然、アメリカが声を荒げた。昂ぶる感情のままに日本の肩を掴む。
「どんなことがあっても、君なら大事な資料を床にバラバラにはしないし、ちゃんとベッドで寝るって俺は知ってる。でも、そんなことすら出来なかったんだ。心配するのは当然じゃないか!」
 無意識に手に力が入り、日本が小さく呻いた。それに気づいたアメリカはハッと息を呑んだ。
「日本……もしかして、具合が悪いのかい? でも、ここ最近、日本はどことも戦ってないよね」
 国の化身である身が体調を崩す最大の要因は戦争だった。しかし、日本は半世紀以上、どことも武力衝突さえしていなかった。日本は密かに逡巡した。
(風邪で誤魔化す……訳にはいかない様ですね)
 アメリカは心の機微に少し疎いところがあるのに、そういう点は決して見逃さなかった。これではきちんと原因を話すまで部屋から出て行っては貰えないだろう。貴方には、あまり言いたくないのですが……
「……私は爺ですから」
 日本が儚げに微笑んだ。
「たまに古傷が痛むんです」
「古傷って……」
 アメリカは言い掛けて続く言葉をグッと堪えた。そんなことは訊くまでもなく直ぐにわかった。
 国である以上、日本も過去に多くの戦争を経験して何度も傷ついてきた。しかし、今に至るまで残る傷痕をつけた相手は一人しかいない。世界が連合と枢軸に分かれて戦った、あの大戦のとき……
 アメリカは無言で両の掌をきつく握り締めた。苦い思いが胸の中に広がってゆく。
(あのとき……俺は君を深く傷つけた。もう君には戦う力など残ってないとわかってたのに。それでも、最後まで一人立ち続ける君を挫くためには……ああするしかなかった……)
「……」
 目を閉じれば、今でもまざまざと思い出すことが出来た……総てを緋色に染めあげることさえ厭わない、あの艶(あで)やかなまでに狂瀾した日本の姿を。それを目にしたとき、はっきりとアメリカは悟った。中途半端に終わらせては駄目だ。完膚無きまでに打ちのめさなければ、きっとこの人は止まらない、と。その考えは今も変わっていない。
「俺は間違ったことはしてない」
 アメリカが真っ直ぐ日本を見つめて言った。日本は小さく瞳を伏せた。
「……わかっています」
(そう、貴方は間違っていない。罪があるのは私……あのときも、今も、貴方を憎むことだけはどうしても出来ない愚かな私にある……)
 我知らず、すっと涙が頬を伝った。アメリカの指が優しくそれを拭った。
「まだ痛む?」
「いえ、もうそれほどでは」
 日本はベッドの上に身を起こした。左手をそっと握り締めてみる。
「まだあまり力は入りませんが、痛みは殆どないです」
「……良かった」
 ほっとアメリカは息を吐いた。
「なら……抱いて良い、日本? 今、どうしても君を抱きたいんだ」
「……」
「俺が君に与えたのは痛みだけじゃないって確かめたい」
「アメリカさん……」
 日本は戸惑った表情で目を逸らした。すると、アメリカがその顎をそっと捉えた。
「違うだろう、菊、ベッドの中では……」
「アル、フレッドさん……」
 恥じらいながらも微かな情欲を浮かべる日本にアメリカは密かに微笑んだ。やがて二人の口唇が静かに重なり、アメリカはゆっくり日本をベッドに押し倒した。

「は、ああっ……ああっ……!」
 アルフレッドに貫かれた菊は艶やかな声を張り上げた。内壁が愛しい男を嬉しそうに抱き締め、菊を組み敷いたアルフレッドも微かに息を詰まらせる。
「……っ……菊っ……」
 未だに初々しさを失わない白く清純な身体にアルフレッドは眩暈がした。高く低く啼く菊に何度、男を煽られたか知れない。アルフレッドはまだ痛みが残るだろう菊の左腕に負担を掛けないよう気をつけながら、その細い腰に自らを強く打ちつけた。
「あっ……ん、ああっ……!」
 菊がシーツをきつく握り締めた。菊、と名前を呼ばれて朧に目を開ける。
「……アルッ……」
 口唇を求めて腕を伸ばすと、アルフレッドが菊をかき抱いた。そのまま、熱く口づけられて菊の胸が歓びに震える。初めて逢ったあのときから、ずっと貴方を愛していた。その想いを口に出すことは許されなくとも、今、この瞬間だけは……私は総て貴方のものです……
 そして、菊の瞳から溢れた涙は快楽の海へと流れていった。

 翌日の会議はドイツからの資料のお陰で、日本にとっては満足のゆく結果に終わった。その後は約束通り、ドイツやイタリアとフランスお薦めのフレンチ・レストランで夕食を取りながら、自らの近況や思い出話に多くの花を咲かせた。酒も入ったせいか、上機嫌な三人が会計を済ませて漸く外に出たときは夜もかなり更けていた。
「見当たりませんね、タクシー」
 軽く辺りを見回しながら、左腕を押さえた日本が困り顔で呟いた。ドイツに寄り掛かって微睡んでいたイタリアが、ヴェ~、と不満そうな声を上げた。
「歩いて帰るのは嫌だよ。ドイツ、早く車拾って~」
 イタリアがぐずる子供の様にドイツの腕を激しく揺さぶった。三人の中で最も飲んだはずのドイツは、しかし、微動だにしなかった。
「暫く待てばその内、何台か来るだろう。少し辛抱しろ、イタリア」
「だって、もう眠いよ~」
「それはお前が飲み過ぎたせいだろう。これからは日本を見習って少し自重しろ」
「え~、そんなの無理だよ。だって、楽しかったんだもん」
「ですね。私も年甲斐もなく少しはしゃいでしまいました」
 日本が振り返ってクスッと笑った。そのとき、目の前に一台の黒塗りの車が静かに止まり、後部座席の窓がすっと開いた。
「やあ、君達、こんな処で会うとは奇遇だね」
「アメリカ」
 ドイツが低く呟いた。わ~い、とイタリアが飛び上がった。
「丁度良かった。ねえ、ねえ、アメリカ、俺達を送ってってよ~」
「う~ん、日本は良いけど、ドイツとイタリアのホテルは反対方向じゃないか。タクシーを拾えば良いだろう?」
「そのタクシーが来ないんだよ~」
 アメリカの言葉にイタリアが不満そうに口を尖らせた。はあ、とアメリカが大きなため息をついた。
「仕方ないなあ。じゃあ、俺がタクシーを呼んであげるよ。日本だけ送ろうとしても、君はうんと言わないだろうしね」
「有難うございます、アメリカさん」
 日本は小さく頭を下げた。アメリカは運転手に連絡を頼むと、車のドアを開けて外に降り立った。ぶるっと小さく震える。
「欧州の夜はやっぱり冷えるね」
 そんなことないよ~、とイタリアが言った。
「俺なんか、ちょっと暑いくらいだよ」
「それは君が飲んでるからだろう。日本、君は先に車に乗ってた方が良いな。夜風は身体に障るよ」
「いえ、私なら――……」
「日本」
 それをアメリカが遮った。
 本調子ではないと知りながらも昨夜は熱く求めてしまったので、日本が実は酷く疲れているのをアメリカは知っていた。だから、態々フランスから三人の行き先を聞き出して食事が終わる頃を見計らって車で乗りつけた。君が心配なんだよ……
「……わかりました」
 アメリカの瞳から的確に意図を読み取った日本は諦めて従うことにした。正直、先ほどから左腕がまた少し痛み始めていた。酔いが鎮痛剤の代わりになっている様だが、そのことをドイツとイタリアには知られたくなかった。
 素直に後部座席に座ると、アメリカが軽く日本の顔に手を添えた。口に出さずともそこから伝わる想いに仄かに頬を染める日本を見てイタリアが無言でドイツの腕をキュッと掴んだ。そのとき、一台のタクシーが反対車線の奥の方に現れた。
「どうやら来たみたいだね」
 アメリカがそれを顎で指した。ああ、とドイツが呟いた。アメリカが素早く日本の隣に乗り込んだ。
「じゃあ、俺達はこれで帰るよ。明日の会議、二人とも遅刻するんじゃないぞ」
「そんなことはあり得ない」
「まあ、君はそうだろうね。じゃあね、二人とも、おやすみ」
「あっ、ドイツさん、イタリア君、今日は本当に有難うございました。おやすみなさい」
 日本が慌てて口を挟んだ。閉まるドア越しにドイツが小さく片手を上げ、イタリアは嬉しそうに大きく手を振った。やがてアメリカの車が滑る様に動き出した。二人はその影を静かに見送った。
「……日本、少し具合が悪いみたいだね」
 暫くしてイタリアが独り言の様に呟いた。
「ああ、昨日、俺が渡した資料を落としたからな。恐らくまた古傷が痛むんだろう。俺達には知られたくない様だから、気づかない振りをしていたがな」
 うん、とイタリアは頷いた。
「あのとき、俺達二人が倒れたからもう枢軸に勝ち目はなかったのに、日本は最後まで戦ったんだよね。それをアメリカが打ちのめした。恋人なのに、あんなにボロボロになるまで……」
「……ああ」
 ドイツが低く呻いた。イタリアが拳をきつく握り締めた。
「俺にはわからないよ。どうして、そこまでしなければいけなかったのか」
「イタリア……」
「俺達は国だから復興すれば痛みは消える。日本だって身体は元通りになったし、今はあの頃よりずっと強くなってる。それなのにまだ痛むんだよ。酷いよ。酷過ぎだよ! 俺にはわからない、どうして恋人をそこまで傷つけられるのか! どうしてそんなアメリカを日本がまだ想ってるのか……!」
 ポロポロと涙を零すイタリアの隣でドイツが切なそうに夜空を見上げた。
 イタリアの言うことは尤もだった。ドイツはアメリカに恨みはないが、時折、嫌悪にも似た感情がふっと込み上げてくることがあった。どうやらイタリアもそうらしい。やはり俺達はまだ枢軸なのかもしれない……
「それは当事者でないとわからないだろうな。だが、俺は……そんな日本が好きだ」
「俺だって大好きだよ。だから……!」
「なら、イタリア、俺達は日本の想いを尊重して静かに見守っていよう。それが、あのとき、最後まで日本と戦えなかった俺達に出来る唯一のことだ」
 ドイツが自らの言葉を噛み締める様に言った。イタリアはそれには答えなかった。
「……でも、もし、またアメリカが日本にあんなことしたら」
 イタリアの掌が乱暴に頬を拭った。
「俺、誰が何と言っても日本を守るために戦うよ」
「ああ、俺もだ」
 固い決意を秘めたその声にイタリアは嬉しそうに笑った。ドイツがイタリアの髪をくしゃっと撫でた。
「さあ、帰るぞ、イタリア」
 そうしてドイツは先に立って歩き出した。
「あっ、待ってよ、ドイツ~」
 イタリアはドイツの背中を慌てて追い掛けた。
 やがて二人は一台の車と共に闇の奥へと消えていった。後に漂うのは、ただ夜の静寂のみ……



初出 2013.6.30
『Annexe Café』より転載。

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