微かに濡れた音を立ててロシアは日本から口唇を離した。不快そうに廊下を振り返る。
「覗き見なんて、さすがアメリカ君。趣味悪いよね」
「人のものに手を出す君ほどではないさ、ロシア」
 襖に軽くもたれ掛かりながら、アメリカはロシアを威圧的に見下ろした。その向こうに日本の顔が見えたが、今は敢えて視界から外した。目にしたら、自分を抑えられる自信がない……
「もう一度だけ言う。今直ぐ日本から離れろ」
「どうして僕が君に従わないといけないのかな」
「俺は銃を抜いたら、誰に対しても引き金を引くのを躊躇わない……特に、君が相手なら」
「……凄く不愉快な脅し方だよね」
 二人の視線が宙で激しく衝突した。
 正直、ロシアは誰が見ていようと構わなかった。日本にはずっと興味があり、いつか手に入れたいと密かに狙っていた。しかし、本気でアメリカを怒らせたら後で上司に何を言われるかわかったものではない。今はアメリカと決して揉めないよう厳命されていた。
 はあ、とロシアは内心でため息をついた。名残惜しそうに日本を離して立ち上がる。
「……!」
 すぐさま日本は起き上がると、まだ巧く力の入らない手で着物の前をかき合わせた。艶めかしい肌が隠れてしまうのを横目で惜しみながら、ロシアは濡れた右の掌をアメリカに見せつける様にハンカチで拭った。
「僕、やっぱり君のことは好きになれないよ、アメリカ君」
「奇遇だな。俺も君は大嫌いなんだ」
「この借りはいずれきっちり返して貰うからね」
「それは俺の台詞だよ、ロシア」
「ふふっ」
 ロシアは汚れたハンカチを無造作に投げ捨て、自分のコートとマフラーを拾い上げた。冷たく目を眇めるアメリカの横を悠々と通って玄関へと向かう。あっ、そうだ……と背中越しに低く呟いた。
「菊君って結構、敏感なんだね」
「……っ……!」
 抑え切れない殺意にアメリカは素早く振り返った……が、そこにはもうロシアの姿はなかった。玄関の引き戸が閉まる乾いた音にアメリカはきつく拳を握り締めた。
(これは俺のミスだ。俺がつまらない意地を張ったばかりに……Shit!)
 アメリカは心の中で強く自分を罵った。
 幾ら日本が既に男を知っているとはいえ、それとこれでは話が別だろう。そうでなくとも、抱擁する習慣のない日本は普段から他人に触れられるのを極端に嫌っている。無理やり肌を暴かれた今の日本が酷く傷ついているのは嫌でもわかった。アメリカはいつも着ているフライト・ジャケットを急いで脱いだ。きっと日本はその場で泣き崩れているに違いない……
「……!」
 しかし、意外なことに日本はしっかりそこに立っていた。乱雑に合わせた着物を押さえる様に新聞紙の包みを抱えて小さく俯いている。知らない人が見たら、買い物帰りに少々派手に転んでしまっただけと思う様な姿だった。
「日本、これを……」
 無意識に声量を落として、アメリカはジャケットを日本の肩に掛けようとした。すると、それを避ける様に日本が僅かに後ずさった。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。湯を浴びて身を清めてきますので、暫くあちらの部屋でお待ち――……」
「日本!」
 強引にアメリカが話の腰を折った。一気に間合いを詰めて両腕できつく恋人を抱き締める。こんなときでも殆ど本能で感情を自制する日本が痛々しくて堪らなかった。手からジャケットが滑り落ちた。
「ごめん……」
「……どうして貴方が謝るんですか?」
 少し間を置いて、日本が尋ねた。その視線はアメリカの肩越しに虚空へと注がれている。
「俺が変な意地を張ったばかりに、ロシアにつけ入る隙を……本当に、ごめん」
「……私は別に傷ついてません」
「無理しなくて良いんだぞ、日本……そのくらい、俺にだってわかる」
「でも、本当なんですよ」
「日本……?」
 妙な違和感にアメリカは改めて日本を見た。そこにいる日本は先刻と姿形は同じなのに、雰囲気が全く違っていた。まるで艶(あで)やかに狂い咲く満開の桜の様に美しく、高慢で……禍々しい。日本が僅かに口の端を上げた。
「こういうのを災い転じて福となす、と言うんでしょうね。お陰で、長らく忘れていた感覚を思い出すことが出来ました」
「……!」
 それは、かつて鈍色の戦場を敵と味方の血に染め上げて狂瀾した日本のもう一つの姿だった。我知らず、アメリカの瞳がすうっと細まった。
(嫌な顔だ。いつ見ても、君のその顔は……凄く気に入らない)
「駄目だよ、日本、君が刀を持つことは許さない」
 アメリカの声が自然と硬くなった。しかし、日本はそれを無視した。
「あれは元々私に備わっている力です。たとえ、貴方でも、それを取り上げることは出来ません。幸い、ロシアとの間に平和条約は未だ――……」
「駄目だ」
 力で押さえつける様にアメリカが言葉を遮った。眼鏡越しに空色の瞳が厳しく日本を見据える。
「ロシアの肩を持つ気は更々ないけど、そんなことは俺が絶対に許さない」
「……っ……!」
 新聞紙の包みを離すと同時に日本の掌が鋭く一閃した。それを避けもせず、アメリカは自ら頬に受けた。
「いつも、いつも、貴方は勝手過ぎます!」
 日本が叫んだ。
 アメリカは兄の様に慕っていたイギリスを倒したときから、己が掲げた正義の下をずっと歩んできた。自己同一性(アイデンティティ)の喪失に繋がりかねない矛盾は総て内に呑み込み、なお前を向き続けるその傲慢なまでの強さは若さ故かもしれないが、日本には決して持ち得ないものだった。だから、惹かれた。でも、それを私にまで押しつけないで下さいっ……!
「今更、どうして私に干渉するんですか! もう私のことは放っておいて下さい!」
「放っておける訳ないじゃないか!」
「現に今まで放っていたではありませんか! この二週間、電話もメールも一切なくて……一体、私がどんな思いでっ……!」
 感情が昂り過ぎて日本の瞳が潤んできた。それを見たアメリカは慌てて理由を説明した。
「俺だって放っておきたかった訳じゃない。でも、君に連絡したら逢いたくなるし、逢ったら欲しくなるってわかってたから……君に、身体だけが目当てだって思われたくなかったんだ! それに、何だか少し自分が蔑(ないがし)ろにされた気がして……正直、腹も立ててた」
「私が貴方を蔑(ないがし)ろにするはずないではありませんか! ただ、私達は個である前に国なんです。私は、貴方にもっとその自覚を持って欲しかったんです」
「うん、今なら俺も君が何を言いたかったかわかるよ。でもさ、日本……」
 アメリカは軽く眼鏡を押し上げた。そして、強い意思を秘めた眼差しで日本を射抜いた。
「国や個に前も後もないだろう。両者は常に等しいものだと俺は思ってる」
「……!」
 日本の脳裏に、個の前に国を置いて戦った在りし日の記憶が蘇った。あのとき……傷つき、膝をつく自分に向かってアメリカが言った。
『……国と個、どちらかに比重をおけば必ず歪みが生じる。それを忘れたことが、日本、君の罪だ……』
「……っ……!」
 くしゃっと日本の顔が歪んだ。私は、まだこの人には敵わないんですね。あれから半世紀上が経ったというのに……
 透明な雫が頬を伝い、日本はきつく口唇を噛み締めた。
 それを見たアメリカは小さく息を吐いた。周囲を取り巻いていた空気が急速に和らいでゆく。時折、日本が自分に対して抱く複雑な感情は理解しているつもりだった。正義を掲げながらも、ここまで総て綺麗に通してきたとは思っていない。己が手を汚した自覚もある……が、どんなときも日本への想いに嘘偽りだけはなかった。どうしたら君にそれをわかって貰えるんだろう。
 アメリカは日本を自分の胸に強く抱き寄せた。でも、今は……
「傷ついたときは、ちゃんと泣かないと駄目なんだぞ」
「……っ……」
 その言葉に日本から微かな嗚咽が零れた。
 アメリカに対して知らぬ間に張り詰めていた神経が緩み、込み上げてくる涙が抑えられなかった。胸の奥へ押し込めたはずの不快な感情がどんどん溢れてくる。同性でありながら、指一本すら動かせなかったのが情けなくて……無理やり与えられた快感に抗えなかったのが悔しくて……でも、今、初めてわかった。私が一番嫌だったのは……
(貴方以外に、触れられたくなかったっ……!)
 そして、漸く日本は泣いた。アメリカは小さく震える日本の背を優しく撫でた。自分に言い聞かせる様に低く呟く。
「大丈夫……俺がずっと付いてるから。大事な人を絶対に一人で泣かせたりしないから……」
 遠い日……アメリカは降りしきる雨の中で声を殺して泣くイギリスをただ見つめることしか出来なかった。あのとき……もし、誰かが彼の傍にいたら、少しは痛みが和らいだだろうか。孤独に過ごす百の夜を一つでも減らせただろうか。彼を傷つけた自分にその資格がないことはわかっていた。でも、あの光景を俺はきっと永遠に忘れない。忘れないから……
 無意識に腕に力が入ってしまった。日本が苦しそうに呻いた。
「痛い、です……アメリカさん」
「あっ、ごめん」
 慌ててアメリカは身体を離そうとした……が、急に服を引っ張られて止まった。日本が背広の裾をキュッと掴んでいる。
「日本……?」
「あ……」
 怪訝そうなアメリカの声に日本は狼狽した色彩(いろ)を浮かべた。
 ひとしきり泣いたら殺気立った気持ちは落ち着いたものの、アメリカから離れるのが怖くなってしまった。他人の手に感じる不実な恋人は愛想を尽かされても仕方ないから。今度こそ自分は本当に捨てられるかもしれない。
(だから、この手を離したくない)
 でも、こんな女々しいことをしたら嫌われてしまうかもしれない。
(なら、この手を離さないと)
 相反する二つの思いに挟まれ、日本は動けなくなってしまった。すると――……
「相変わらず、君は身体の方が素直だね」
「えっ!?」
 アメリカが少し身を屈めて日本の顔を覗き込んだ。
「君が何を考えてるか凡そわかるけど、それは全部、杞憂なんだぞ」
「でも、私は……汚れてしまいました」
 黒曜の瞳からまた新しい涙が零れた。それをアメリカが指先で軽く拭う。
「俺にはそうは見えないけどね」
「……」
「なら、俺は君以上に汚れてることになるな。気づいてるとは思うけど、俺は君が初めてじゃない。正直、抱いた人の数なんて覚えてないよ。こんな俺はもう真っ黒に――……」
「アメリカさんは汚れていません!」
 珍しく日本が口を挟んだ。でも……と直ぐに俯く。
「私は抱かれる方だから……貴方とは違うんです……」
「同じだよ」
「いいえ!」
 日本は大きく首を振った。そして、アメリカから手を離すと……小さく自分を抱き締めた。
「貴方はわかっていません。身体に付いた汚れなら湯で落とせても、肌に残る感触までは消えないんです。そんな私を、貴方は抱けますか?」
 抱けないでしょうと言外に告げる日本をアメリカはじっと凝視した。
「……日本は、もっと俺を信じるべきなんだぞ」
 次の瞬間、ふわりと日本の身体が宙に浮いた。部屋の景色がくるっと回って反射的に目を瞑る。すると、背中に微かな衝撃を覚えた。恐る恐る瞼を開ければ、自分を見下ろすアメリカの背後に木目の天井が見える。日本を組み敷いてアメリカが低い声で言った。
「君が嫌がると思ったから夜まで待つつもりだった……でも、気が変わった。今、ここで抱いてあげるよ、日本」
「……!」
 日本は小さく息を呑んだ。アメリカが不服そうに頬を膨らませた。
「そうしなければ、君は俺を信じてくれないだろう? 俺は喧嘩別れをしたあの日からずっと君に逢いたくて、逢いたくて……抱きたかった。君の蕩ける様に甘い肌や俺の下でよがって啼く姿を思い出して何度も抜いたよ。でも、俺はそんな自分を汚れてるとは思ってない。だって、誰かを好きになったら身も心も欲しくなるのは当然じゃないか」
「アメ、リカさん……」
 思いもよらぬ自慰の告白に日本は顔を赤らめた。何て明け透けな……と思って気がつく。
(ああ、そうか。私は自分を護ろうとするあまり、貴方から逃げていたんですね。貴方に拒絶されるのが怖くて、尤もらしい理由を付けて自分から先に貴方を拒絶した。だから、貴方は敢えてそんな話を……)
「……」
 日本は無言でアメリカを見上げた。
 こんなふうに真っ直ぐ欲望を向けられることは未だ慣れないが、嫌いではなかった。アメリカの腕の中で子猫の様に甘やかされて、快楽に溶かされる心地良さは充分に知っている。もし、貴方に許されるなら、私はもう一度それを求めても良いんでしょうか……
「んっ……」
 日本は軽く腰を浮かすと、その隙間から背中に手を回した。微かな衣擦れの音を立てながら、自ら帯を解いて引き抜く。いつも物静かな恋人の大胆な行動にアメリカは僅かに目を瞠った。
「菊……」
「……アルフレッドさん」
 両手を伸ばして菊はアルフレッドの頬をふわりと包み込んだ。飛び切りに甘い声で囁く。
「私を、抱いて下さい」
「ああ」
「……」
 その答えに菊は嬉しそうに微笑んだ。そして、恋人を誘う様にゆっくり口唇を開いた。



初出 2013.9.28
『Annexe Café』より転載。

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