(私も随分、変わったものですねえ)
 夕暮れときの縁側に二人並んで腰を下ろしながら、アメリカと口づけていた日本はぼんやりと思った。つい最近まで『ハグ』さえしたことなかったのに、今では口唇どころか身体まで深く重ねている。しかも、自分より遥かに若い国と。年齢などあってないも同然だが、長く生きてきた割に日本はそうしたことに疎かった。
(開国して国力は昔より遥かに上がりましたが、こういうことはまだまだ経験不足ということが良くわかります。一体、いつになったら追いつけ――……)
「あっ……!」
 突然、アメリカに強く項を掴まれた。声が出た僅かな隙間から、すかさず滑り込んできた舌に口腔を乱暴に貪られる。
「ふ、んっ……っ……痛っ……!」
 口唇をきつく噛まれて日本は反射的にアメリカの胸を強く押しやった。二人の間を繋ぐ銀の糸が音もなく切れた。
「な、何を……するん、ですか?」
 少し息を乱しながら、日本はアメリカを睨みつけた。すると、逆にアメリカから批難の眼差しを向けられた。
「君こそ何を考えてたんだい? 俺とキスしてたのに完全に上の空だったじゃないか」
「そんなこと――……」
「嘘をついても駄目だよ、日本」
「……」
 無意識に日本は視線を逸らした。それを肯定と捉えたアメリカの周囲から急速に温度が失われてゆく。
「差し詰めオランダ辺りと比べてたのかな。どっちが上手だった?」
「なっ……!」
 思わず、日本は絶句した。
 なぜ、ここでオランダが出て来るのかわからなかった。確かにオランダとは鎖国中も親しくさせて貰ったが、日本は周辺を海に囲まれた島国。当時の航海技術では頻繁に往復出来るものではなく、十年に一度でも会えたら良い方だった。そんな相手に、どうして恋愛感情を抱けるだろう。当然、口唇を重ねたことすらなかった。
「オランダさんと私は、そういう間柄では……」
「なら、イギリスかい? 彼は奥手そうに見えて手が早いからな。イギリスは日本のことはかなり気に入ってたし、君の様な箱入りはああいう紳士面に弱いだろう。あるいは、ドイツかイタリアという線もあり得る。共に戦った連帯感から君達三人は今でも個人的に仲が――……」
「私はアメリカさん以外とキスしたことはありません!」
 それ以上、聞いていられなくなった日本は無我夢中でアメリカの言葉を遮った……が、次の瞬間、恥ずかしさでポンッと沸騰した。
「……っ……!」
 耳まで真っ赤になった日本は慌ててその場から逃げようとした。しかし――……
「日本!」
 その腕を座ったままのアメリカがしっかりと掴んだ。反射的に日本が顔を背ける。今の自分の表情をアメリカに見られたくなかった。
「それは本当かい?」
 アメリカが先刻より優しい声で尋ねた。
「……こんなことで貴方に嘘をついても意味がないでしょう……どうせ直ぐバレるし……」
 日本は、もごもごと口籠もった……が、アメリカはしっかりそれを聞き取った。元気良く立ち上がると、嬉しそうに日本を両腕でキュッと抱き締める。
「嬉しいよ! こんな魅力的な口唇を、日本は俺のためにずっと取っておいてくれたんだね!」
「べ、別に貴方のために取っておいた訳では……ただ単に今まで機会がなかっただけで……」
 そう言って日本は少し情けなくなってきた。
(ああ、これでは私は全くの甲斐性なしではないですか。確かにアメリカさんには、いつも……その……抱かれて、いますけど……)
 同じ男としてそれはどうなのか、とちらっと日本は思った。しかし、アメリカに求められて自分を与える歓びの方が、そんな小さな矜持(プライド)を遥かに上回っていた。日本は身体の力を抜き、静かにアメリカにもたれ掛った。すると、頭上から小さな声が聞こえた。
「君はキスが上手いから、実はかなり不安だったんだぞ」
「……えっ!?」
 一瞬、日本は耳を疑った。顔を上げると、アメリカが真っ直ぐ自分を見つめている。
「俺は日本のことがずっと好きだった。でも、恋人になったのは大戦後だから、それまでに付き合った人の一人や二人はいてもおかしくないと思ってた。でなければ、あんなキスは出来ないからね」
「ちょ、ちょっと待って下さい、アメリカさん! あんなキスってどんなキスですか。先ほども言いました様に、私はアメリカさん以外とキスなんてしたことないんですよ?」
 慌てて日本は否定した。うん、とアメリカが頷いた。
「先刻の君の反応を見て俺もそう思った。だから、凄く嬉しいんだぞ。ただ、それなら、また最初の質問に戻るけど……一体、何を考えてたんだい?」
「そ、それは……」
 日本の目が宙を泳いだ。しかし、アメリカの強い眼差しが視線を逸らすことを許してくれない。それは、とアメリカが低く繰り返した。日本は諦めて息を吐いた。
「いつになったら私は貴方に追いつけるのかな、と」
「国力のことかい?」
「いえ、あの……こういう、こと……とか……」
「こういうことって……?」
 曖昧過ぎて全くわからないよ、とアメリカが首を傾げた。日本は不満そうに小さく頬を膨らませた。
(全く……ここまで言えば、幾らアメリカさんでも察して良いはずなのに……ま、まさか私の口からはっきり言わせたいんですか? そうなんですか!?)
 日本は探る様な瞳でアメリカをじっと凝視した。やがてキュッと掌を握り締めた。
(わかりました。私も日本男児です。やるときは、やります……!)
「アメリカさんのキスが上手過ぎるから、私は自分の至らなさをひしひしと実感してしまったんです! 貴方はいつも私を翻弄して……なのに、私は合わせるので精一杯なんですよ。そんなの、悔しいではないですか! せめてキスで感じた十分の一でも、私は貴方に返したいんです!」
 感情が昂ってしまったのか、徐々に日本の瞳に涙が滲んできた。堪え切れずに零れた雫をアメリカが指でそっと拭う。
「そうか。日本は不安なんだね」
「当然、です……私は貴方しか知らないんですよ。比べられる誰かなんていないんです……」
 黒曜の瞳に恋人を映しながら、はっきり日本は言った。アメリカが優しく微笑んだ。
「なら、もうそんなことは考えなくて良いよ。先刻も言っただろう、日本はキスが上手だって」
「そんなこと、ある訳……」
「本当だよ。君のキスは技巧的じゃないけど、いつも蔓草の様に俺を捉えて離さないんだ。頭の芯が痺れるほど凄く気持ち良くて、もっと君のことが欲しくなり、俺は何も考えられなくなる。君以外のことは本当に何も、ね。正直、今まで何人か付き合った人はいたけど、誰もそんなキスはしなかった。だから、俺も不安だったんだ。一体、日本は誰からこんなキスを教えて貰ったんだろうって。でも、やっと謎が解けたよ」
「アメリカさん……」
 日本は小さく頷いた。
 それは想い合う恋人同士なら自然に起こる現象だった。ただ触れ合うだけでも、そこに求める心があれば快感を引き起こす。そんな単純なことに二人は漸く気がついた。
 アメリカがそっと日本の顎を捉えた。親指で口唇を軽く撫でる。その空色の瞳に確かな欲望を感じて日本は僅かに頬を染めた。
「あの……アメリカさん」
「何だい、日本?」
「私に教えて貰えませんか……キスの仕方、を」
「……」
 羞恥に苛まれながらも全く揺れない黒い眼差しにアメリカは小さく口の端を上げた。
 日本は曖昧で流され易い様に見えるが、実は密かに矜持(プライド)が高かった。技巧的でないと言われたのが恐らく悔しかったに違いない。
 勿論、とアメリカは呟いた。
「日本がちゃんと覚えるまで、何度でも俺がじっくり教えてあげるよ。嫌だって言っても、反対意見は認めないんだぞ」
「はい……」
 そうして二人の口唇がまた静かに重なった。茜色の空に星が一つ瞬いていた。



初出 2013.7.24
『Annexe Café』より転載。

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