翌日、左側面が硝子張りになっている最高情報責任者(CIO)室で、和希はある書類に目を通していた。その表情はいつになく険しい。そこに書かれた内容に不満がある訳ではないが、これだけでは決定打が足りなかった……父を、最高経営責任者(CEO)を解任するには。『鈴菱』をここまで大きくした男を落とすには、やはり正攻法だけではどうしても無理があった。同時に自主的な退陣を促す必要がある……
「失礼します」
  軽いノックの音と共に、石塚が入って来た。
「お呼びですか、和希様?」
  ああ、と和希は短く答えた。
  最高経営責任者(CEO)は有能な男だが、一つだけ大きな弱点を抱えていた。それは総ての始まりとなったあのウィルス漏洩事故を隠蔽したこと。危険なウィルスを個人宅で保管し、幼い子供が感染したにもかかわらず、全く公表しなかった。あまつさえ、保護者である両親や本人にまで伏せた。発症する確率は限りなく零に近かったとはいえ、万が一の場合を考え、最低限、両親にはその事実を知らせておくべきだった。啓太は和希と再会したことで漸くそれを知ることが出来た……が、啓太の両親はそうではない。恐らく今後も二人が知ることはないだろう。
  企業に法令遵守(コンプライアンス)の姿勢が求められる今日、これは大いに問題だった。ウィルスの特殊性と啓太の生活への影響を考えれば、公表を控える――隠蔽――はやむを得ない判断だったと理解はしている。しかし、それで道義的責任を総て免れる訳ではない……!
(父には来月の取締役会で最高経営責任者(CEO)を降りて貰う。そして、俺が『鈴菱』の全権を掌握する)
  和希は机の上に肘をつき、両の指先を軽く合わせた。
「石塚、祖父の……いや、鈴菱鈴吉の私設研究室で起きたウィルス漏洩事故の詳細とその隠蔽工作に関する資料を二週間以内に集めろ」
「わかりました」
  石塚は顔色一つ変えずに頷いた。
  最高経営責任者(CEO)は脅しが通じる相手ではなかった。和希もそれ相応な力をつけたとはいえ、仕掛けたら、こちらも痛みを受けると覚悟はしているだろう。なら、石塚が言うべきことは一つしかなかった。
「和希様、ここ数日、和希様を監視しているマニュスピカはどうしますか? 彼らを通して、こちらの動きを最高経営責任者(CEO)に悟られる可能性があります」
「放っておけ。寧ろ、急に監視を気にする素振りを見せることの方が危険だ。どうせ彼らには何も出来ない。だが……」
  和希が少し言葉を切った。石塚は黙って続きを待つ。
「真実の瞳(トゥルー・アイズ)の動向には気をつけろ。彼は一度、啓太の血を視ている。もし、彼が啓太にまで辿り着くようなら、そのときは、真理を狙う者として速やかに排除しろ」
「では、その様に対処します」
  石塚は小さく頭を下げると、静かに部屋を辞した。和希は無言で立ち上がると、硝子の向こうに広がる街を冷たく見下ろした。半月前、ここで啓太と交わした会話が頭を過ぎる。
『……真実の瞳(トゥルー・アイズ)? 以前、幾つか記録を読んだことはあるな。でも、どれも信憑性に欠けるものばかりだったから本当に実在するとは思わなかったよ……』
『……あれは継承する能力じゃないし、不安定で誤解もされ易いから仕方ないよ。俺も随分、久しぶりに見た。その人、七条さんに似た綺麗な紫の瞳をしてたよ。俺、話し掛けようとしたけど、そのとき、王様と中嶋さんが来て……二人と少し話をしてたら、いつの間にか、店からいなくなってたんだ。せめて名前くらい訊きたかったのに……』
  それを聞いた和希は早速、行動を開始した。
『鈴菱』の権力を以ってすれば、警察を通して店に設置してある監視カメラの映像を入手し、身元を特定するのはそれほど難しくはなかった。小林明日叶、二十一歳……マニュスピカの一員だった。
  マニュスピカ総理事長の魁堂氏とは何度か面識があった。過去に『鈴菱』もマニュスピカに依頼をしたことがある。彼の美への情熱や穏やかな人柄には和希も好感が持てた……が、どんな美辞麗句を並べてもマニュスピカが違法な犯罪組織であることに変わりはない。そんな者達に啓太の情報を渡すことは絶対に出来なかった。だから、逸る啓太を説得して明日叶との接触は和希が行った。視るのは啓太の一部――たとえば、血液――だけでも充分らしいから。しかし、明日叶は真実の瞳(トゥルー・アイズ)の本質をまだ掴んではいなかった。その日以来、啓太はずっと部屋に閉じ籠っている……
(俺の余計な行動が、結果的に啓太の優しい心を傷つけてしまった)
  和希にはわかっていた。真実の瞳(トゥルー・アイズ)を最も欲しているのは他の誰でもない……啓太自身ということが。期待していただけに、反動も大きかったのだろう。その気になれば、あの瞳を奪うことも出来るのに、そんなことを考えてしまう自分が嫌で泣いている。
(世界を一つ手に入れたところで、あの澄んだ涙の一粒さえも贖えない。だが、俺にはそんなことしか出来ない……)
  だから、行く手を阻む者、啓太に仇なす者はことごとく排除する。たとえ、真実の瞳(トゥルー・アイズ)といえど、容赦はしない。俺は啓太を……啓太だけを、愛しているから……
  そして、和希は静かに瞳を閉じた。

  慧と一緒に明日叶が少し遅い朝食を取っていると、テーブルに置いた携帯電話が震え出した。表示されている名前を見て、嬉しそうにボタンを押す。
「おはようございます、亮一さん」
『おはよう、明日叶、もう元気になったみたいだね。良かった。心配してたんだ』
  電話の向こうで、亮一がほっと安堵の吐息をついた。明日叶は小さく頭を下げた。
「すみません。大したことないのに亮一さんにまで迷惑を掛けてしまって」
『大したことない訳ないだろう、明日叶の大切な瞳のことなのに。俺の方こそ、明日叶の事情も知らずに勝手な理屈を押しつけてしまって悪かったと思ってる。明日叶が眠ってる間に、藤ヶ谷から大体のことは聞いたよ。でも、悩むのは良いことだから、明日叶、暫くゆっくり自分を見つめてごらん。答えは総て明日叶の中にあるはずだから』
「はい、亮一さん」
  明日叶は素直に頷いた。それは昨日とは全く違う表情だった。もし、目の前に亮一がいたら、間違いなく頭を撫でていただろう。しかし、今はいないので亮一は気づかずに話を続けた。
『それにしても、『鈴菱』とは、また厄介な相手だね。明日叶の身の安全を考えれば、その血の持ち主は早く見つけた方が良いと俺も思うけど、手掛かりが殆どないからかなり難航しそうだ。だから、俺も二人に何か協力出来ないかと色々考えてみたんだ』
「そんな……これ以上、亮一さんに迷惑は掛けれません。俺達だけで大丈夫です」
  慌てて明日叶は口を挟んだ。
  マニュスピカ候補生の頃は同じチームで苦楽を共にした仲間だったとはいえ、今は別々のチームにいる亮一に頼るのはどうしても憚られた。しかし、明日叶のそういう性格は亮一には良くわかっていた。
『そう言うと思った。だから、勝手に調べてきた。そこにパソコンあるかい?』
「えっ!? もう何かわかったんですか?」
  思わず、明日叶の声が上擦った。
  黙って二人の会話を聞いていた慧が僅かに目を瞠った。『鈴菱』に纏わる噂のことまで亮一には話さなかったが、昨日の今日で手掛かりが見つけられるとは全く思っていなかった。
『わかったと言えるほど凄いことではないけど、少し気になることがあるんだ。だから、今から送る画像を藤ヶ谷と一緒に見て欲しいんだ』
「わかりました……慧、亮一さんが今から送る画像を俺達に見て欲しいって」
  そう言いながら、明日叶が立ち上がろうとすると、それを慧が片手で制した。
「明日叶は座っていろ。動くのはまだ辛いはずだ。今、ここにモバイルを持って来る」
「慧っ……!」
  ポンッと明日叶が沸騰した。部屋を出て行く慧の背中を真っ赤な顔で睨む。ははっ、と通話口の向こうで亮一が明るく笑った。
『相変わらず、君達は二人は仲が良いね。まさに連理の枝だね』
「連理の枝……?」
  明日叶は首を傾げた。
『白居易の『長恨歌』の一節から由来する言葉でね……天にありては願わくば比翼の鳥とならん。地にありては願わくば連理の枝とならん。連理とは二本の木の枝が絡み合って木目が同じになること。つまり、それほどまでに深く愛し合ってるという意味だよ』
「亮一さん……」
  ほんのりと明日叶の心が桜色に染まった。
  慧との関係は魁堂学園にいた頃から知られていたので今更、隠すまでもないが、面と向かって言われると恥ずかしくて仕方なかった。でも、そう言って貰えると嬉しい。俺は慧が本当に好きだから……
  そのとき、慧がモバイル・パソコンを持って戻って来た。ハッと明日叶は我に返った。
「あっ、亮一さん、慧が戻って来ました」
『わかった』
  亮一が幾つかキーを叩く音が聞こえた。慧がテーブルの端で画面を立ち上げる。明日叶は慧にも会話が聞こえるよう携帯電話を耳から離した。亮一が説明を始める。
『俺は真実の瞳(トゥルー・アイズ)のことは少し脇に置いて、まずは『鈴菱』がどうやって明日叶の身元を突き止めたのか考えてみたんだ。そのためには最低でも顔写真が必要だろう? それを入手したら、次は『鈴菱』が持つ個人情報と照合する。でも、幾ら『鈴菱』でも企業が保有する量など高が知れてる。だから、もっと大きなデータベースに手っ取り早く照会したかもしれないと思ったんだ……たとえば、警察とか』
「成程……運転免許証か」
  慧が呟いた。
『そう……あれには明日叶の顔も名前も住所も総て書いてある。女性ならまだしも、男性は免許を持ってる人が多いからね。『鈴菱』なら警察にコネの一つや二つは必ずあるはずだから、これはかなり有力な線だった。それで、任務報告がてら少し調べてみたんだ。そうしたら、案の定、照会してたよ。そのときに使われた画像がこれだ』
  モバイル・パソコンの画面に一枚の写真が映し出された。それを見て、あっ、と明日叶が声を発した。
「慧、これ、あのときの……!」
  ああ、と慧が頷いた。そこには、二週間ほど前に二人で立ち寄ったオープン・テラスでカフェ・オ・レを飲む明日叶の姿が映っていた。しかし、これのどこに問題があるのか明日叶には全くわからなかった。
「亮一さん、この写真のどこが気になるんですか?」
『明日叶、なぜ、『鈴菱』はこの画像を使ったと思う? あの辺りには『鈴菱』の持ちビルも幾つかある。探せば、入口の監視カメラのどれかに明日叶は必ず映ってるだろう。それなのに、『鈴菱』は態々警察を通してこの店の監視カメラの映像を取り寄せた。なぜ、そんなことをしたのか? 恐らくそれは、この店で『鈴菱』が明日叶のことを知ったからだ』
「……!」
  慧と明日叶が大きく息を呑んだ。亮一が慎重に言葉を継ぐ。
『だから、二人とも良く思い出して欲しい。この店で何か変わったことがなかったかい?』


2010.3.26
和希が野望に燃えているので、
石塚さんが微妙に黒いです。
それに引き換え、亮一さんは優しいです。
いつまでも慧と明日叶を温かく見守っていて下さい。

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Café Grace
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