(油断、しました……)
 薄暗い路地で日本は左手で頭を押さえながら、ふらふらと立ち上がった。
 その日、アメリカ主催の主要国会議に参加するためにニューヨークのホテルに到着した日本は夕食後に一人で散歩に出掛けた。時計の針は既に十時を過ぎていたので部下に止められたが、人に後れを取るほど腕は鈍(なま)っていないので大丈夫です、とやんわり忠告を断った。だから、不意に横道から飛び出して来た男が銃を手にしているのを見ても、さすが銃社会ですね、と日本は暢気に思っただけだった。男が小さく舌打ちして銃口をこちらに向けようとしたので、脇腹を強く蹴り飛ばす。予想外の反撃に遭った男は銃を落として蹲った。苦しそうな彼の様子に日本は少し心配になったものの、まずは先に銃を拾おうと腰を屈めた。その瞬間――……
「くっ……!」
 側頭部に強い衝撃(ショック)を感じて日本はガクッと膝をついた。
 武器は一つだけと思い込んでいたので、男が隠し持っていた小型ハンマーに気づくのが遅れてしまった。辛うじて直撃は避けたものの、こめかみに当たって生暖かい血が肌を伝う。日本は痛みに霞む瞳で咄嗟に銃を構えた。すると、撃たれると思った男は脱兎の如くその場から逃げ出した。
「……」
 人影が完全に視界から消えると、日本は漸く肩の力を抜いた。仕立ての良い青灰色の背広のポケットに銃をしまい、代わりに取り出した絹のハンカチを傷口に強く押し当てる。
「痛っ……」
(頭部の傷は……やはり出血量が、ありますね……)
 掌まで濡れてくる感触に日本は顔を顰めた。幸い、まだホテルからは殆ど離れていなかったので、日本は来た道をゆっくり戻り始めた。
「……っ……」
 思いの外、歩く振動が頭に響いた。これでは恐らく何針か縫うことになるだろう。はあ、と日本は嘆息した。自国民の不法行為で他国の化身が怪我をしたとなったら、明日の会議でアメリカが各国から責められる様が容易に想像出来た。総ては軽率な行動を取った自分のせいなのに……
(ああ、素直に部屋で大人しくしているべきでした)
 自己嫌悪に陥りながら、ホテルに帰り着いた日本はフロントの前を無言で横切ってエレベーターへと向かった。ここの宿泊客と知られているので薄汚れた格好でも呼び止められはしなかったが、怪我を心配したポーターが態々部屋までついてきてくれた。医者を呼びましょうか、と尋ねる彼に日本は適当に手を振った。
 頭が酷く痛くて口を利くのが煩わしかった。
 チップをポーターに渡して部屋に入ると、日本は真っ直ぐ寝室へと向かった。ドサッとベッドの上に倒れ込む。
「ふう……」
 早く手当てをしなければ……とは思うものの、柔らかいシーツの感触に激しい疲労が襲ってきた。出血が意外と応えているらしい。もう瞼が重くて開けていられなかった。
(……少し……眠って、から……)
 そうすれば、多少は体力が回復するから……手当はそれからでも遅くない。心の中でそんな言い訳をしながら、日本は自ら深い闇に身を委ねてしまった……

 翌日、アメリカはスマートフォンのけたたましい呼び出し音で目が醒めた。何時だ、とぼんやり時計を見ると、既に九時を過ぎている。わっ、とベッドから飛び起きた。
「どうして起こしてくれなかったんだよ!」
 通話ボタンを押すと、部下にハンバーガーを買っておくよう言いつけてアメリカは浴室へと駆け込んだ。
 ニューヨークには私邸があるものの、今回は議場近くのホテルに泊まっていた。朝の渋滞に巻き込まれるのを避けるため……ではなく、日本がここに宿泊するので二人でゆっくり夜を過ごしたかったからだった。その下心のお陰で、寝坊しても会議には何とか間に合いそうだった。
 アメリカは軽くシャワーを浴びると、クローゼットの中から背広といつものフライト・ジャケットを取り出した。大急ぎで着替えながら、密かに首を捻る。今まではっきり頼んだことは一度もないが、日本は同じベッドにいないときは会議の二時間前に必ず電話で起こしてくれた。今日は眠りが深過ぎてそのモーニング・コールに気づかなかったのだろうか。最後に眼鏡を掛けると、アメリカはナイト・テーブルに置いたスマートフォンに再び手を伸ばした。着信履歴を確認する。
(……あれ? 来てないぞ)
 う~ん、とアメリカは唸った。もしかしたら、日本も寝坊したのか……?
「よし! ちょっと様子を見に行くんだぞ」
 アメリカは意気揚々と部屋を出た。
 日本は同じホテルの一つ下の階に宿泊していた。エレベーターで降りると、何やら騒々しい声が聞こえてくる。
「日本さん、日本さん、ここを開けて下さい!」
「起きて下さい、日本さん!」
 ある部屋の前で背広姿の二人の男が大声で叫んでいた。その内の一人がアメリカに気づき、隣にいた者を肘で小突いた。ピタッと彼らは静かになった。
「どうしたんだい、君達? 日本はまだ寝てるのかい?」
 アメリカは気さくに話し掛けた。日本の部下達は一様に小さく頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありません」
「珍しいこともあるもんだね。OK、ここは俺に任せるんだぞ」
 退いて。退いて、とアメリカは彼らを脇へ追い払った。そして、拳でドアをガンガン叩き始めた。
「お~い、日本! そろそろ起きないと、本当に遅刻するんだぞ! 日本~!」
 アメリカはドアに耳を押し当てた……が、何も聞こえない。人のいる気配すらなかった。
「もう起きて出掛けたんじゃないのかい?」
「いえ、先ほど携帯に掛けたところ音がしました。まだ中にいるはずです」
「日本はスマホも持ってるから携帯は置いていったのかもしれないだろう?」
 そう言いながら、日本に限ってそれはない、とアメリカは思った。何か嫌な胸騒ぎがする……
「両方に掛けてみました。ですが、どちらも応答がありません。今、支配人を呼びに……あっ、どうやら来た様です」
 初老の男が小走りにこちらへ近づいて来た。その後ろに日本の部下と小さな包みを持ったイギリスの姿が見えた。
「アメリカ、一体、何があった?」
 イギリスは傍まで来ると、すぐさま口を開いた。アメリカはそれには答えず、逆に問い返した。
「君こそ何でここにいるだい?」
「俺は日本に頼まれてた紅茶を渡しに寄ったんだ。今夜は歓迎レセプションもあって忙しいから夜だと時間が読めねえしな。そうしたら、フロントに見覚えのある日本の部下が駆け込んで来るのに気づいた。まさか日本に何かあったのか!?」
「わからない。それを今から確認するんだ」
 支配人がマスター・キーを使ってドアを開けたので、アメリカは日本の部下達よりも先に薄暗い室内に踏み入った。その後にイギリスが続く。二人は応接室を抜けて真っ直ぐ寝室へと向かった。
「……日本?」
 ベッドの上にこんもりしたシーツの山を見つけてアメリカは声を掛けた。ビクッとシーツが動いた。どうやら起きているらしい。取り敢えず、アメリカは安堵した。
「そんな処で何をしてるんだい? 急がないと、会議に間に合わないんだぞ」
「……」
「あっ、もしかして、寝坊したのが恥ずかしくて出て来れないのかい? 相変わらず、シャイだな、君は。大丈夫だよ、俺も君と一緒に行くから。ここにイギリスもいるし、三人で遅刻すれば怖いものなんて何もないだろう?」
 ははっ、とアメリカは笑った。しかし、日本から返事はなかった。小さく腕を組んだイギリスが瞳でアメリカに囁いた。おい、何か様子が変じゃねえか……?
 アメリカは軽く肩を竦めると、ベッドに近寄った。日本は頭からシーツをすっぽり被って閉じ籠もっている。
「日本……?」
「わ、私は……ここから出ません」
 蚊の鳴く様な声で漸く日本が答えた。
「何を言ってるんだい。君がいなければ会議が始められないだろう。恥ずかしがるのもいい加減にしないと、俺は怒るんだぞ」
「……会議なんて、私は知りません」
「日本!」
 その言葉に苛立ったアメリカは日本から強引にシーツを引き剥がした。おい、とイギリスが叫んだ。
「お前、そんな乱暴に……って、日本、怪我してるじゃねえか!」
 イギリスの指摘にアメリカは驚いて目を瞠った。良く見ると、小さく蹲った日本の背広は薄汚れ、額やこめかみには血に濡れて乾いた黒髪がベッタリと張り付いていた。
「日本、その怪我は……!」
「あ……」
 日本は怯えた瞳でアメリカを見上げた。何だろう、とアメリカは思った。それは……いつか、どこかで見た顔だった。そう、まるで初めて君に逢った頃みたいな……
「アメリカ、何をぼ~っとしてるんだ!」
 紅茶の包みをナイト・テーブルに置いたイギリスが日本を抱き起しながら、鋭くアメリカを振り返った。ハッとアメリカは我に返った。
「そうだ。手当しないと! 直ぐ医者を呼ぶよ」
 アメリカは二人から少し離れると、急いで自分の部下に電話を掛けた。頼む、とイギリスが言った。
「出血はもう止まってるが、顔色が悪い。大丈夫か、日本?」
「……イギリス、さん?」
「意識はしっかりしてるな。なら、取り敢えずは大丈夫か」
 はあ、とイギリスは大きく息を吐いた。そして、アメリカとイギリスに遠慮して遠巻きに自国の化身を窺っている日本の部下達を振り返った。
「ここは俺達に任せろ。お前達は日本の上司へ連絡を頼む」
 イギリスの冷静な声に彼らは少しほっとした表情を見せた。
 国の化身が外的要因で死ぬことはないが、人間である彼らが不安を感じているのは容易に察せられた。だから、日本と同じく国の化身である自分達が対応した方が彼らの心も落ち着くだろうとイギリスは考えた。
「わかりました。日本さんのこと、宜しくお願いします」
 日本の部下達は後ろ髪を引かれながらも、一礼して静かに部屋を出て行った。
 イギリスは日本をベッドに座らせると、黒革の手袋を嵌めた手をそっと傷口に伸ばした。少し髪を退けて状態を確かめる。
「これは……殴られた傷だな。一体、何があったんだ?」
「……」
「それに、こんな汚れた服のままで寝るとはお前らしくもねえ。取り敢えず、上着だけでも脱げ」
「上着、ですか?」
 キョロキョロと日本は自分を見回した。今頃になって汚れに気づくとはかなり動揺してたな、とイギリスは思った。まあ、最近の日本は争い事から遠のいてるし、無理もねえか……
「ほら、手伝ってやる」
 もたつく日本に代わってイギリスは背広を脱がそうとして密かに顔を顰めた。
 なぜか……それは異様に重たかった。良く見ると、右のポケットが大きく膨らんでいる。このまま、ハンガーに掛けたら確実に型崩れするだろう。仕方なく、イギリスはどこか適当な場所に上着を置くことにした。そのとき、通話を終えたアメリカが戻って来た。
「十分後に医者が来るんだぞ」
「……!」
 日本がビクッと飛び上がった。すかさずイギリスが注意する。
「そんな大声を出すな。日本が驚いただろう」
「全く……イギリスは細か過ぎるんだぞ」
 アメリカは低くぼやきながら、日本の隣に腰を下ろして肩に手を回そうとした。しかし、その瞬間――……
「……っ……!」
 日本が微かな悲鳴を上げた。
 上着を椅子の上に置こうとしていたイギリスがそれを聞き咎めて振り返った。上着が背もたれに当たり、ゴンッと鈍い音がする。
「……」
 イギリスは上着のポケットに視線を落とした。
 音からして、それは携帯電話や財布よりも重そうだった。人の上着のポケットを勝手に漁るのは躊躇われるが、大事なものなら紛失しないよう日本に渡しておいた方が良いかもしれない。そう判断したイギリスはポケットの中にそっと手を伸ばした。
「……何だよ、これ」
 自分が取り出した物を見てイギリスは我が目を疑った。それは日本には全く相応しくない物……拳銃だった。
「何で日本がこんな――……」
「イギリス!」
 突然、アメリカが大きな声で叫んだ。イギリスは低く舌打ちして、取り敢えず、拳銃を自分のポケットにしまった。
「アメリカ、何度も同じことを――……」
「日本の様子がおかしいんだ!」
 その言葉にイギリスは慌ててベッドへ駆け寄った。日本は立ち尽くすアメリカの前で小さく震えている。
「お前、何をやったんだ!?」
「俺は何もしてない。だけど、日本が……日本が変なんだ」
 アメリカは途方に暮れた様子でイギリスに訴えた。イギリスは床に膝をついて日本の蒼ざめた顔を覗き込んだ。
「日本、どうしたんだ? 大丈夫か?」
 すると、日本が微かに頷いた。
「だ、大丈夫です……」
「何があった?」
「……この方が、いきなり私を……その……抱き寄せようとしたので、驚いて……」
「この方って……アメリカのことか?」
 イギリスが怪訝そうに訊き返した。嫌な汗が背筋を伝ってゆく。隣でアメリカがキュッと拳を握り締めた。
「アメリカさん、と仰るんですか。イギリスさんのお知り合いですか?」
「知り合いって……何を言ってるんだ、日本?」
「ああ、挨拶がまだでした」
 日本はアメリカへ向き直ると、丁寧に頭を下げた。さらさらと黒い髪が揺れる。
「お初にお目に掛かります、アメリカさん……私は、日本と申します」
「……!」
 その瞬間、二人とも言葉を失ってしまった。



初出 2013.11.1
『Annexe Café』より転載。

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Café Grace
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