身支度を整えた明日叶に慧が声を掛けた。
「出来たか?」
「うん」
  明日叶は小さく頷いた。慧が真っ直ぐ明日叶を見つめた。
「鈴菱和希は抜け目のない男だ。室内にどんな仕掛けをしてるかわからない。何かあったら、明日叶、直ぐに俺を呼べ」
「……わかった」
  任務の様な緊張感を漲らせる慧に明日叶も改めて気を引き締めた。
  和希は豪華なマンションを幾つも所有しているが、殆ど使ってないことが慧の調査で既にわかっていた。ここ数年、自宅としているのは他とは印象も規模も全く違う、こぢんまりとしたマンション。しかし、そこに本人名義の部屋はない……ということは、恋人と一緒に住んでいる可能性があった。
  亮一との電話を切った後、二人はまずそのマンションを調べに行くことにした。慧は和希の出入りしている部屋までは確認してなかったが、所有者リストを見る限り、住人はあまり多くなかった。これなら簡単に突き止められそうだな、と明日叶は思って……ふとある名前に目が留まった。
  伊藤啓太。
  知り合いではないが、啓太という名前には聞き覚えがあった。ホテルの待ち合わせ場所の部屋に入ったとき、和希が電話をしていた相手が啓太だった。これはただの偶然だろうか。もしかしたら……恋人の存在を隠すために知人の名義を借りたのかもしれない。鈴菱という姓は目立ち過ぎるから。
  その考えを明日叶はすぐさま慧に話した。すると、慧も全く同意見だった。現状では他に手掛かりもないので、二人はまずこの部屋の住人から調べてみることにした。
「……」
  明日叶は慧の胸にそっと掌を押し当てた。
  マニュスピカ候補生のときから、二人は支給された拳銃を持っていた。明日叶はグロッグ17。慧はそれより口径の大きいIMIデザートイーグル。警察には秘密裏に登録してあるので不法所持にはならないが、二人とも拳銃には良い思い出がなかった。だから、海外任務のとき以外は携行しない様にしている。なのに、今は――……
「慧、銃を持って行くのか……?」
  不安そうに明日叶が尋ねた。少し間を置いて、慧が低く呟いた。
「……ああ」
「なら、俺も……」
  そんな危険があるとは思えないが、慧が何かを感じているなら足手纏いにはなりたくなかった。帰国したとき、心に誓ったから。自分の身は自分で護る、と。しかし、その意思を和らげる様に慧が明日叶の頬に手を添えた。
「無理をするな、明日叶、お前に銃は似合わない」
「でも……!」
「マニュスピカのことを知ってるのは警察でも上層部の限られた者達だけだ。もし、一般警官に見つかったら面倒なことになる。そんな危険を冒すのは俺だけで良い」
「……慧……」
  明日叶がじっと見つめると、慧は小さく微笑んだ。
「俺は任務は確実に遂行する。それは、明日叶、お前が一番良く知ってるはずだ」
「……うん」
  キュッと明日叶は慧に抱きついた。
  以前、フィトナの遺跡で眞鳥から聞いた伝承がふと頭に浮かんだ……国の未来を視たという真実の瞳(トゥルー・アイズ)のことが。どうして、と明日叶は悔しくなった。どうして俺の瞳には未来が視えないんだろう。そうすれば、今、慧に迫り来る危険を教えられるのに。どうして……
「大丈夫。何も起きはしない」
  慧が明日叶の背を優しく撫でた。明日叶は無言で頷いた。そして、密かに決意した。
(でも、もし、何か起こったら……そのときは俺が慧を護る。必ず……!)
「行こう、慧」
「ああ」
  そうして二人は部屋を後にした。

「……」
  淡い桜の花が舞い散る中、眞鳥は車道に丸くうずくまっている啓太を呆然と見つめていた。
  接近するバイクを視界の端で捉えてはいた……が、猫一匹のために啓太が飛び出すとは夢にも思わなかった。いや、そういう可能性も頭の片隅にはあった。しかし、鈴菱の次期当主の恋人として護られることに慣れているから、危険な真似は決してしないと油断していた。だから、啓太を制止する手が僅かに遅れてしまった。
  はあ、と眞鳥は深い息を吐いた。風に乱れた髪を気怠そうにかき上げながら、殆ど散ってしまった花を見上げる。
(花散らしの雨ならぬ、花散らしの風ですか。全く……運の良い子ですねえ)
  啓太が飛び出した瞬間、激しい突風に煽られた花が辺り一面を桜色で覆い尽くした。それに視界を奪われ、咄嗟にバイクのブレーキを掛けたのだろう。そうでなければ、確実に啓太を撥ねていたはずだった。
  眞鳥が視線を戻すと、もそもそと啓太が起き上がろうとしていた。その下にいた野良猫は自由になった途端、恩を仇で返す様に一目散に歩道の植え込みへと逃げて行った。
「あっ、もう車道に飛び出すなよ~」
  啓太が座り込んだまま、暢気に声を掛けた。すると、バイクに乗っている男が叫んだ。
「飛び出したのはお前だろう! 何、考えてんだよ!」
「えっ!? あっ、ごめんなさい」
  漸く自分の状況に気づいた啓太は男を見上げて直ぐに謝った。しかし、相手はまだ怒りが収まらないのか、バイクから降りて大股で啓太に詰め寄って来た。すかさず眞鳥が二人の間に割り込む。
「あ~、すいませんねえ。この子には俺からよ~く言っておきますから許してやって下さい。さあ、行きますよ。もたもたしてたら、ほら、他の車の迷惑ですからねえ」
  眞鳥は素早く啓太を抱き上げた。
「な、中川さんっ……!」
  そのとき、バイクの後ろにいる車が大きくクラクションを鳴らした。
  プッ、プ~ッッッ……!!!
  ちっ、と男は短く舌打ちした。急いでバイクに戻ると、歩道にいる眞鳥と啓太をきつく睨みつけた。もう一度、啓太はペコリと頭を下げた。それを見た男は納得はしないものの、渋々その場から走り去った。
  男の姿が見えなくなると、ほっと啓太は胸を撫で下ろした。
「有難うございます、中川さん」
「い~え、どういたしまして」
  素直に礼を言う啓太に眞鳥は少し好感を覚えた。啓太の行動は決して褒められるものではないが、いつかの明日叶に何となく似ている気がする。
「あの、中川さん……俺、もう大丈夫ですから……」
  暗に下ろして欲しいと啓太が言った。
「何、言ってるんですか。腰が抜けて動けないでしょう、あんた? 取り敢えず、この先にある公園に移動しますよ」
「……っ……はい」
  図星を指され、啓太は恥ずかしそうに頬を染めた。眞鳥が楽しそうに口の端を上げた。
「啓太、他の男に抱かれるのは嫌かもしれませんが、少~し我慢して下さいねえ」
「だ、抱かれるって……!」
  ポンッと啓太が沸騰した。か、からかわないで下さい……!
「ふ~ん、啓太は恥ずかしがり屋なんですねえ」
  クスクスと笑いながら、しかし、眞鳥は冷静に啓太を観察していた。
  見た目からして華奢だとは思っていたが、実際、啓太は驚くほど軽かった。背格好の似た明日叶でさえ――あちらは鍛えているとはいえ――もう少し身体に密度があった。顔立ちも未だどこか幼く見えるのは童顔のせいだろうか。しかも、素直と言えば聞こえは良いが、敵か味方かわからない相手に大人しく抱かれるのはあまりに無警戒だった。まるで未成熟な子供の様ですねえ、と眞鳥は思った。にもかかわらず、時折、啓太は瞳の奥に酷く老成した色彩(いろ)を浮かべた。それが、なぜか眞鳥を苛立たせた。
「ああ、でも、あんたはもう少し後先考えて行動しないと駄目ですよ。あんたが無事だったのは、単に運が良かっただけなんですからねえ」
  はい、と啓太は頷いた。眞鳥は歩きながら、話を続ける。
「SPにばかり頼ってると、いざと言うとき、自分の身を護れませんよ。忘れてるかもしれませんが、今、あんたにSPは付いてないんです。俺の親衛隊が全員、片づけてしまいましたからねえ」
「あの人達はSPではないです」
「なら、あんたを監視してるんですか。鈴菱の家も結構、大変ですねえ」
  淡々と眞鳥は言った。恐らく親族間で互いに足を引っ張り合っているのだろうと思った。そうした話は特に珍しくはない。でも、それなら少し妙ですねえ……
(なぜ、啓太に護衛を付けないんでしょうか。鈴菱の次期当主ともあろう男なら、当然、恋人が監視されてることには気づいてるはずなんですが)
「う~ん、あんたの恋人は抜けてるのか、馬鹿なのか……判断が難しいですねえ。あんたを大事に隠してるのに、あんたを護るSPは一人も付けてない。もしかして、ケチなんですか?」
  その言葉に啓太が僅かに眉をひそめた。
「和希は俺を隠してません。ただ、今はまだ俺が学生だから伏せてるだけです。その気になって調べれば、俺の存在に辿りつくのはそう難しくないはずです」
「つまり、あんたを日陰の身にする気は更々ないっていう意思表示ですか。それは立派ですけど、なら、なおさらSPくらい付けた方が良いと俺は思うんですけどねえ」
「……俺にSPは要りません」
  啓太が低い声で呟いた。ああ、と眞鳥が首を横に振った。
「誤解しないで下さいねえ、啓太、俺は別にあんたの矜持(プライド)を傷つける気はこれっぽちもないんです。でも、あんたじゃあ訓練を受けたプロは勿論、少し体格の良い奴にだって力負けしますよ。その気になったら、そう……俺にだって簡単にあんたを攫えます」
「……やっぱり」
  二つの蒼穹に、眞鳥の嫌いなあの色彩(いろ)が浮かんだ。
「目的はそれですか?」
「……っ……」
  ギリッと眞鳥は奥歯を噛み締めた。今直ぐ腕の中から放り出してやりたい衝動をグッと堪え、少し意地の悪い言葉で返す。
「状況次第ですかねえ」
「なら、そろそろ本音で話しませんか、中川さん……いえ、遠きフィトナの末裔」
  そして、啓太はふわっと微笑んだ。


2011.1.21
徐々に緊張が増してきました。
眞鳥さんは内に激しい感情を抱いてそうなので、
怒らしたら、とても怖そうです。

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Café Grace
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