「ここで良いか、明日叶?」
  そう言うと、慧は明日叶の返事を待たずに車を路肩へと寄せた。
  和希の恋人がいるらしいマンションは二人の住んでいる処から意外と近く、車を使えば十分ほどの距離にあった。しかし、慧は敢えてそこから少し離れた閑静な場所で止まった。助手席に座っていた明日叶は小さく頷いてドアを開け、車から降りた。正面には黒い鉄柵と門、緑の木々やその間を縫う小道が見える。どうやらここは思ったより大きな公園らしい。
「その道を抜ければ、鈴菱和希のマンションはもう目と鼻の先だ。俺はこの先にあるコイン・パーキングに車を止めてくる。十五分後に玄関前で落ち合おう」
「わかった」
  明日叶は力強く答えた。慧は不安な色彩(いろ)を微かに瞳の奥に秘めていたが、それ以上は口を開かなかった。明日叶はドアを閉め、少し後ろへ下がった。そして、走り去る慧の車を静かに見送った。
  慧が車を止めに行っている間、明日叶は周辺の地理を軽く頭に入れるためにマンションまで歩いてみることにした。何も二人で駐車場へ行くことはないから。漸く前向きな気持ちになれたので、今の自分に出来ることを少しずつでも良い。していこうと思った。そんな明日叶の心を慧は察したのだろう。心配そうではあったが、反対はしなかった。明日叶は心の中で恋人にそっと感謝した。
(有難う、慧)
  それは失った自信を取り戻すために明日叶が踏み出した小さな一歩だった。しかし、まさかその路が刻(とき)の焦点へ続いているとは……まだ知る由もなかった。

「……それ、真面目に言ってるんですか?」
  噴水の水音より冷たい声で眞鳥は言った。運でこの場を切り抜けられると、あんた、本気で思ってるんですか? 馬鹿馬鹿しい。
  しかし、啓太は大きく頷いた。
「俺が通ってた学校には凄い才能を持った人達が大勢いました。でも、俺は勉強も運動も普通で、自信があるのはただ運が良いことだけです。ある日、それで俺が少し落ち込んでたら、和希が教えてくれたんです。俺が持ってるのは真理なんだよって」
「どういう意味ですか、それは?」
  怒りを抑えて眞鳥は尋ねた。啓太が説明する。
「中立説というのを知ってますか? これまで生物は環境に最も有利な変異を起こした個体が自然選択されてきたと考えられてました。でも、分子レベルにおいて突然変異の殆どは自然選択に対して中立。有利でも不利でもないんです。そうした中立的な変異を起こした個体では、どれが生き残るかを決定づける要素は運です。運良く子孫を増やせたものの遺伝子のみが種に蓄積される。つまり、現存する生物とは最も環境に適応し、かつ最も幸運だったものの末裔なんです。そんな幾世代にも渡る進化の過程の中で、人は変異に頼らなくても環境に適応する能力――知――を手に入れました。だけど、運だけはどうにもならない。運は総ての始まりに漠然と存在しながら、確実に未来へ影響を与える。その意味において、運は一つの真理と呼んでも良い。だから、運が良い俺は真理を持ってるんだそうです」
「……成程ねえ」
  眞鳥が苦々しい声で呟いた。
「それで『鈴菱』はあんたをそう呼んでる訳ですか。全く……紛らわしい! なら、そんなご大層な呼び名でなく、もっと簡単に幸運の女神(レディ・ラック)とでもすれば良かったじゃないですか。お陰で、俺はとんだ無駄足を踏みましたよ。まあ、この世には忌々しい能力が一つあるとわかったことは収穫でしたがねえ。でも、その運に頼ってあんたの警護を疎かにするのは、やっぱりどうかと思いますよ。何なら今から試してみますか? あんたの運が、この至近距離で俺が的を外す確率より本当に上回ってるかどうか……きっと面白い結果が出ますよ」
  クスクスと眞鳥は笑った。運で総てを語ろうとするのは絶対に許せなかった。
  今まで多くのものを諦めてきたが、ここまで来たのは間違いなく自分の意思だった。たとえ、その路が一本しかなくとも、見えざる何かの手に導かれた訳では決してない。ましてや、偶然など。だから、運を真理と呼ぶことは眞鳥には己が意思の否定にすら聞こえた。反吐が出る……!
「貴方はまだわかってない」
  啓太の瞳に微かな憐憫が浮かんだ。そして、口調が変わった。
「この瞬間も俺の細胞は目まぐるしい早さで入れ替わってる。先刻までの俺と、今の俺は全く違う存在と言って良い。それが今、お前の目に同じに映るのは単に物質としての身体が平衡状態を保ってるからに過ぎない。つまり、水が流れるからそこに川があるのと同じこと。そうした動的均衡を俺は意識レベルにおいても保ってる。言葉を換えるなら、お前の言う前世の記憶を俺は持ってる」
「……っ……!」
  ギリッと眞鳥は奥歯を噛み締めた。啓太がゆっくりと立ち上がった。
「長き時間を経て、終に俺は進化に必要な知と運を手に入れた。最早、人に俺を殺すことは絶対に出来ない」
「……まるで自分が人ではない様な言い方ですねえ」
  眞鳥は左手で物憂げに髪をかき上げた。きつく啓太を睨みつける。
「でも、やっぱりあんたも人には違いないですよ。知と運? はっ、そんなもので鉛の弾が止められたら誰も苦労はしません。あんたのその忌まわしい力は、今後、俺達のために使って貰います」
「俺は人の欲望の生贄にはならない」
「なら、この弾を止めてみせなさい。それが出来ないなら、あんたに俺達をとやかく言う資格はない」
  改めて眞鳥は啓太に銃を突きつけた。そして、引き金を引こうとしたそのとき――……
「まさか……眞鳥、さん?」
  懐かしくも愛しい声が聞こえた。


2011.10.14
漸く真理の意味が明らかになりました。
ただ、その意味は一つではなく、
明日叶の能力や眞鳥さんの求めるものなど多くを含んでいます。
お陰で、話が少し複雑になってしまいました。

r

Café Grace
inserted by FC2 system