「……春を想って冬に散るのは、花としてはさぞ無念だろうな」
 そう呟いた坂口に、太宰は初めてこの男の弱さを見た気がした。


「ごほっ、ごほっ……!」
 最近、織田の朝はいつも激しい咳から始まった。暫く枕に顔を押しつけて胸の痛みを吐き出せば、その窪みに赤い池が出来た。それはすぐさま川の様に低きへ流れ、真っ白なシーツに広がって海となる。身体は鉛の様に重く、目の焦点も怪しい……が、一頻(ひとしき)り血を吐くと少し楽になった。織田は朦朧としながら、枕元にある小さな黒いケースに右手を伸ばした。中には昨夜の内に用意しておいた薬入りの注射器が入っている。それを人差し指と中指で挟んで持ちつつ、親指で左手首の静脈を確認すると、躊躇いもなくそこに突き刺した。
「……っ……!」
 一瞬で背中に羽が生えた。
 全身の感覚が鋭くなり、カーテンの隙間から射し込む僅かな光すら真昼の太陽の様に感じられた。苦しかった呼吸も楽になって徐々に喘鳴が治まってくる。まだ気怠さは残るものの、織田はベッドから白いつま先を下した。氷の様に冷たい床が微熱の身には心地良く、思わず、甘い吐息が一つ零れた。恍惚と立ち上がった織田は寝間着にしている浴衣の腰紐を解いた。するりと肩から衣を滑らせれば、病的に痩せぎすの裸体が薄明かりの中にくっきりと浮かんだ。そのまま、織田は部屋に備え付けの浴室へと向かった。顔や髪についた血の匂いを落とさなければ、誰かに気づかれてしまうかもしれない……頭にあるのは、ただそれだけだった。
 シャワーを浴びて身支度を終える頃になって漸く織田の意識と体調は安定してきた。すると、遅ればせながらに自室の状態が目に入ってくる。織田の部屋は洋室で玄関ドアの正面にある大きな窓を中心に右にシングル・ベッドとクローゼット、左に書き物机と本棚、備え付けの浴室があった。洋室にしたのは単に布団よりベッドの方が楽そうだったからだが、畳敷きの和室にしなくて良かったとつくづく思った。フローリングの床に点々と赤い跡がついている。恐らく髪にでもついた血が滴ったのだろう。織田は落ちていた浴衣と腰紐で適当にそれを拭った。その後、汚れたシーツと枕カバーを乱暴に引き剥がすと、クローゼットから綺麗な物を取り出してベッドを整えた。
「……こんなもんやな」
 時計を見ると、既に八時近くになっていた。余計な作業が入ってしまったせいで、いつもより十分ほど遅い。そろそろ朝食の時間だが、食欲が全く湧かなかった。これでは食堂で無為に時間を過ごすだけになってしまう。そのくらいなら、と織田は今日の予定を軽く頭に思い浮かべ、ランドリー室へ行って汚れ物を洗濯することにした。この部屋には坂口や太宰も頻繁に出入りするので、見られたら厄介なことになる。織田は血の跡が見えないよう慎重にシーツなどを纏めて部屋を出た。廊下を左に進もうとしたところで――……
「おっはよ~!」
 左隣の部屋のドアが開いて太宰の元気な声が響き渡った。その更に奥のドアから坂口が欠伸をしながら、のそのそ這い出て来る。
「……朝から煩えぞ、太宰」
「良い夢見たんだ。さあ、今日も元気にお仕事、頑張りましょう!」
 太宰は陽気に手を上げて二人を見た。あ~、と織田は決まり悪そうに唸った。
「太宰クン、ワシ、今日はパスや。これを急いで洗濯せなあかんのや」
「え~、そんなの後で良いじゃん。オダサクは俺に逢えて嬉しくないの?」
「嬉しいに決まっとるやろ。けど、ワシは今日、お司書はんの助手やから今しか時間ないんや。堪忍な」
 織田は慌ただしく太宰の横を通り過ぎ、坂口の前を右へ曲がって奥のランドリー室へ行ってしまった。その背中を太宰は辛そうに見送った。織田の進む先には昏い深淵が広がっている気がした。引き留めなければと強く思うのに、なぜか言葉が出ない。代わりに息が詰まるほどの後悔が胸を苛んだ。訳もなく行くなと言うのは簡単だった。しかし、それは子供の我儘と同じで、前世で年上だった手前、そんな真似は矜持(プライド)が許さなかった。本当に、どうしてこんなことを思うのだろう。一体、昔の自分は織田に何をしたのか……それを未だ思い出せないのが太宰は酷くもどかしかった。
(多分、ろくなことじゃないだろうけど、わからないんじゃあ話にならないよな)
 はあ、と深いため息が零れた。
「……仕方ない。行こうぜ、安吾」
 太宰は無理に気持ちを切り替えた。気分の浮き沈みが激しい自覚はあるので、わからないことをいつまでもくよくよと考えて折角の綺麗な朝を損ないたくなかった。
「安吾……?」
 返事がないので、もう一度、太宰は坂口を呼んだ。坂口は厳しい顔つきで織田の去った方をまだ見ていた。どうした、と太宰は尋ねた。少し間を置いて、坂口が緩く首を振る。
「いや、何でもねえ……行くか。この後、直ぐ潜書だしな」
「おう」
 二人は食堂へ向かって歩き始めた。太宰は元気に夢の話をしながら、心の奥でそっと呟いた。
(そういえば……先刻、オダサクから微かに血の匂いがした様な……気のせいかな)

 現在、帝国図書館には四十人ほどの文豪が在籍していた。その中で織田は徳田の次に転生したため、率先して他の文豪達の世話をしていた。三人の中では太宰が最も遅くて精神も不安定なので、転生時期の近い坂口が面倒を見がてら行動を共にしている。今生で漸くまた三人が揃ったのに、末の烏が一緒にいないのは寂しかった。だから、坂口と太宰は早く練度を上げようと積極的に潜書に出ていた。今日は午前と午後の二回……しっかり食べないと身がもたない。
「うわっ、人が一杯だな……座るとこあるかな」
 食堂に入った太宰は少し伸びをして二人で座れる場所はないかと室内をぐるっと見回した。すると、窓際のテーブルにいた夏目が声を掛けてきた。
「太宰君、席を探しているなら、ここがもう空きますよ」
 その言葉に傍にいた森も頷いた。
「ああ、俺達は来るのが早かったからな。ここに座ると良い」
「有難うございます」
 太宰はペコリと頭を下げ、隣の坂口を振り返った。坂口は心ここに在らずと言った様子で何かを考え込んでいる。
「安吾、あそこ行こうぜ。もう空くってさ。俺、先に食事取って来る」
 席が確保出来たので、太宰は配膳カウンターへ向かおうとした。その背中に坂口が言った。
「俺はコーヒーだけで良い」
 頼んだぜ、と片手を上げて坂口は太宰の返事も聞かずに夏目達の元へ行ってしまった。
 坂口がテーブルまで来たので、夏目と森は自分のトレイを持って立ち上がった。有難うございます、と坂口は軽く頭を下げた。夏目は穏やかに微笑んだ。森が怪訝そうに尋ねた。
「織田君はどうした? 今朝は一緒ではないのか?」
「食べる時間がないから要らないそうです」
「そうか……彼は食が細いから、食事はあまり抜くべきではないのだがな。出来る限り、彼も連れて来てくれ」
「わかりました」
「……」
 一瞬、坂口と森の視線がカチリとぶつかった。互いに何かを探る様に相手の瞳を窺い……しかし、それだけだった。森は黙って立ち去り、坂口は席に着いた。暫くして太宰がそこに合流した。今朝は和食より洋食の気分だったのか、トレイの上にはトーストとベーコン、スクランブル・エッグ、サラダ、コンソメ・スープ、コーヒーが二つ載っていた。太宰は静かに座ると、コーヒーを一つ坂口に渡した。
「ほら、コーヒー……二日酔いか、安吾?」
「……ああ」
 坂口は微かに頷いたが、それは明らかに口先だけの返事だった。坂口は頼んだコーヒーには目もくれず、頬杖をついたまま、ぼんやり外へ視線を流した。会話を続ける雰囲気ではないので、太宰は黙ってトーストにバターを塗った。一口、二口と齧ってサラダにフレンチ・ドレッシングを掛ける。転生して病もない上に昔より健康的な生活をしているせいか、食事がいつも美味しく感じられた。しかし、一人で食べていると、単に栄養を摂取する作業の様で味気なかった。徐々に気分が沈んでくる。どうして俺は食べてるんだろう、と太宰はぼんやり思った。それは生きるために必要だから、と誰かが答える。すると、別の誰かが嘲笑した。そんなに生きたいか? 坂口も、織田も、お前に見向きもしないのに? そうまでして生きる価値が、お前のどこにある……!
 ピタッと太宰の手が止まった。弱々しく呟く。
「……俺はやっぱり駄目な人間だ」
「うん? いきなり鬱か、太宰。朝だってのに、相変わらず、あんたは忙しいな」
 その声に、坂口が優しさと揶揄の入り混じった瞳で太宰を見やった。漸くこちらを向いた坂口に、一瞬、太宰の中に安堵が広がった。しかし、これではまだ足りなかった。やはり二人揃っていないと……太宰は小さく俯いた。
「鬱とか、そんなんじゃない。ただ、オダサクに避けられてるから……」
「どうしてそう思うんだ?」
「日中は殆ど顔を合わせないのに、今朝はとうとう食事も一緒にしてくれなかった……」
「練度に差があるから予定が合わないのは仕方ねえし、食事なら昨日も一昨日も一緒だったじゃねえか。たった一回、いなかっただけで避けられてるって言うのはちょっと無理があるだろう」
「……きっと気づいたんだ。俺がオダサクのことちゃんと思い出せてないのに……俺、オダサクに嫌われたら生きてけない……」
 はあ、と太宰は深いため息をついた。坂口は少し考えて慎重に尋ねた。
「全く記憶がないって訳じゃねえんだろう? あんた、オダサクと普通に話してるしな」
「上っ面だけの薄い会話ならな。けど、そこから踏み込もうとすると、何か感情が強く先に立って……オダサクは凄く大事で、ずっと一緒にいたいのに、酷い罪悪感や後悔が込み上げてきて言葉が出なくなる……」
「まあ、前世の記憶には時差みたいなもんがあるからな。その内、嫌でも思い出すだろう」
 あまり気にするな、と坂口は慰めた。しかし、太宰は首を横に振った。
「それっていつだよ。そもそも、俺達は三羽烏なのに、その一人について殆ど思い出せないって変だろう。俺ってそんなに薄情な奴だったのか? いや、確かにろくな奴じゃなかったよ。けどさ……でも、何か……落ち込む」
 太宰は苦しそうにコンソメ・スープをじっと見つめた。無性に水が恋しかった。このスープに顔を突っ込んだら死ねるだろうか。薄い琥珀色のスープは、いつかの川の水に見えなくもなかった。ああ、でも、ぼっちは嫌だな……
 不穏なことを密かに考えている太宰を坂口はじっと凝視した。恐らくあと一つ切っ掛けが足りなりないのだろうと思った。織田に関する記憶は歓びと同じくらい……苦しみも深いから。太宰は無意識にそれを恐れていた。しかし、これでは本末転倒だった。落ち込んだあまり、失踪でもされたら面倒なことになる。坂口は気は乗らないものの、助け船を出すことにした。
「そんなに気になるなら、オダサクの死後、あんたが新聞に寄せた追悼文を読んだらどうだ?」
「……!?」
 太宰は驚いて顔を上げた。
 そんなものがあるとは知らなかった。織田について何とか自力で思い出そうとするあまり、過去の文献を読むという考えが全く浮かばなかった。太宰はテーブルの上に大きく身を乗り出した。少し卑怯な気はするが、前世の自分も織田を大切にしていた証拠があるなら背に腹は代えられない。
「それはどこにあるんだ、安吾?」
「あんたの全集でも見れば収められてるんじゃねえか。有名だからな」
「なら、図書館か……それを読んだら、俺がオダサクに何をしたかわかるかな」
「……したんじゃなくてしなかったのかもな」
「どういう意味だ、安吾?」
「……」
 しかし、それ以上は話す気がないらしく坂口はまた口を噤んでしまった。煮え切らない態度に太宰が更に畳み掛けようとした、そのとき――……
「おい、お前達」
 中原が二人を見つけて近寄って来た。テーブルを軽く見回す。
「もう一羽はどうした?」
「オダサクなら洗濯があるから今日は朝食要らないってさ」
 太宰が答えると、中原は少し安堵した表情を浮かべた。そして、声を潜めて言った。
「お前達、そろそろここにも慣れた頃だろう。なら、あいつをどうにかしろ」
「オダサクのことか?」
 聞き返す太宰に中原は、他に誰がいるんだよ、とぼやいた。
「全く……あいつ、朝から晩まで働き過ぎだ。練度が一番高いから助かるっていや助かるけど……だが、あいつにだって休みは必要だろう。何か最近、あいつを見てると苛々するんだ。まるで蝉が鳴いてるみたいでよ……」
 中原の声が沈んだ。
(あの詩のことか……?)
 太宰は中原の『蝉』という詩を思い出した。
 中原の詩は好きで色々読んだが、あれほどの感性は小説家である太宰には決して持ちえないものだった。情景と感情を直結させたあの詩の中で、一体、中原には蝉の声がどう聞こえたのだろう。ただ鳴いていただけなのか……あるいは、怠惰な自分を糾弾していたのか。それについて詩の中で中原は何も語ろうとしなかった。勿論、今も。折角、本人が話を振ってきたのだから訊いてみて良いだろうか。そう思った太宰は口を開こうとした。しかし、途端にきつく睨まれ、反射的に身を竦めてしまった。中原は苛立たしげに舌打ちした。
「とにかく酒が不味くて仕方ねえ。どうせ俺が何を言っても聞きやしねえんだから、お前達で早くどうにかしろ。わかったな」
 不機嫌にそう言い捨てると、中原はどこかへ行ってしまった。小さな嵐が去って太宰はほっと息を吐いた。坂口がポツリと呟いた。
「……蝉、か」
 少し間を置いて、坂口は冷えたコーヒーに手を伸ばした。コクリと一口……
「不味いな……」
 それ切り、もうそのコーヒーを飲むことはなかった。

 午後も二人は織田とすれ違ってしまい、漸く末の烏と再会したのは夕方近くになった頃だった。潜書室に入った太宰は織田を見つけて嬉しそうに駆け寄った。しかし、織田が誰かを背負っていることに気づくと、さっと顔色を変えた。焦げ茶色の帽子が見える。あれは……
「中也! 喪失したのか!?」
「いや、転んで頭打ったみたいや……気失うとるから、森先生とこ連れてくわ」
 織田が簡単に説明した。太宰に続いて来た坂口が口を挟む。
「貸せ。俺が背負う」
 坂口は背中を向いて自分に中原を乗せるよう促した。織田は緩く首を振った。
「平気や……安吾と太宰クンはこれから潜書やろ。会派の人を待たせたらあかんよ。それにこれはワシの仕事や」
 助手は潜書から戻った文豪達を出迎えて怪我や侵蝕の度合を司書に報告しなければならなかった。そこで、織田は疲れている会派メンバーに代わって中原を背負って行くことにした……が、坂口は引き下がらなかった。
「補修室を往復する時間くらいはある。早く貸せ」
「あかんって。ほな……っ……ワシ、行くわ。二人とも、また後でな」
 よいしょっ、と織田は中原を背負い直すと、ひらひらと軽く右手を振って潜書室から出て行ってしまった。坂口が織田の背を睨んで低く唸った。
「あの馬鹿……」
「……?」
 太宰は怪訝そうに坂口を見上げた。
 織田は細身だが、小柄な中原を背負えないほど頼りなくは見えなかった。時折、前世で最も年下だった織田を兄弟にたとえて末っ子と呼んでいるから、過保護になってしまったのだろうか。しかし、今朝、坂口は織田の洗濯を手伝おうとは言わなかった。太宰は密かに首を捻った。
(安吾の過保護の基準がわからない)
 ここで問い詰めても素直に話さないのは食堂の一件でわかっていた。やはり織田に関する記憶を取り戻した方が色々早いだろう。今夜にでも図書館へ行って自分の全集を探してみようと太宰は心に誓った。

「森、先生……いらはり、ます……?」
 補修室のドアを開けた織田は少し息を切らせて声を掛けた。そこは医務室も兼ねているので、医師である森はほぼ常駐しているが、潜書などで不在のときもあった。
「どうした?」
 右奥の薬品棚の陰から薬の在庫を確認していた森が顔を出した。織田は大きく胸を撫で下ろして背中の中原を見せた。
「お願い、しますわ……何や、転んで……頭、打ったみたいで……」
 織田は中原を補修台へ横たわらせた。漸く重荷から解放され、無意識に胸を押さえる。はあ、しんど……と出掛かった言葉は辛うじて飲み込んだ。
 それを視界の隅に置きながら、森は急いで中原へ近寄った。後頭部を手で触る。
「……瘤がある。軽い脳震盪だろう。この程度なら、直ぐ意識が戻る」
「はあ……先生に、お任せしますわ。お司書はんには、そう報告しときます……ほな、宜しゅう」
 織田は頭を下げて出て行こうとした……が、それを森が止めた。
「隣の寝台が空いている。来たついでに君も補修していきなさい。最近、全くしてないはずだ」
「せやけど、またにしますわ。ワシ、精神安定やからあまり侵蝕されないんで」
 ケッ、ケッ、ケッ、と織田は笑った。呼吸の落ち着いた織田はもう一分の隙もなかった。いつもの陽気な態度と口調で心配は無用と暗に伝えてくる。しかし、その程度で引く森ではなかった。すっと視線が厳しくなったかと思うと、いきなり織田の左手首をきつく捉えた。
「俺の目は欺けないぞ、織田君」
「……」
「どんなに服や布で誤魔化そうとも、以前より明らかに痩せている。君の前世からの悪癖の影響もあるだろうが、これは恐らくそれだけが原因ではあるまい。身体の不調を薬で誤魔化しても悪化させるだけだ。しっかり治療するためにも、まずは補修を――……」
「離せ」
 その声を遮って織田が短く呟いた。小さく俯いて下から森をねめつける。蒼白く病んだ表情にあって血の様に赤い瞳が放つ異様な殺気に、思わず、森の背をぞくっと冷たいものが走った。
「離せ言うとるやろ……ワシの邪魔をする奴は許さへんで」
「……」
 森は無言で手を離した。織田は少し後退ると、くるっと踵を返して補修室から出て行った。為す術もなくそれを見送った森は深いため息をついた。
 織田の手は、まるで鳥の足の様に痩せ細っていた。転生した文豪は不調になると前世の死因に引きずられるので、また胸を患っているのだろう。病死することはないとわかっているが、医師として森は目の前の患者を放っておくことは出来なかった。
「……一応、抗生剤の用意をしておくか」
 そう呟いて森は再び薬品棚へと向かった。

 ……カチャ。
 後ろ手に自室のドアに鍵を掛けた織田は靴を脱ぎ棄てると、真っ直ぐ机に向かった。デスク・ライトを付けて頭の中に渦巻いているものを原稿用紙に書き殴る。一枚、二枚、三枚……それらは纏められることなく、机の上を滑って床へ散らばった。その流れは、まるで泉から湧き出る水の様に尽きることがなかった。織田は食事も忘れて一心不乱に何時間もペンを走らせた。静かな室内に万年筆のペン先がガリガリと紙を掻く音だけが響く。いつしか日も暮れ、室内に夜の帳が下りてきた。それでも織田はペンを走って走らせて……そして、再び喀血した。
「ぐっ……!」
 口元を押さえた手から血が溢れて原稿用紙に滴った。更に堪え切れない痛みと共に何かが胸元から込み上げてくる。それを床に吐き捨てると、落ちている原稿に気泡混じりの大きな赤い染みが広がった。今日は中原を背負って体力を消耗したせいだろう。脆弱な身体がまた悲鳴を上げていた。織田は貧血で朦朧としながら、机の右にある引き出しから透明な袋に小分けされた粉薬を一つ取り出した。重い身体を引きずる様に立ち上がり、霞む瞳でベッドにあるはずの注射器を探す……が、どこにも見つからなかった。
「なん、で……」
 呆然と織田は呟いた。今朝、乱暴にシーツを剥がしたときにどこかへ飛んで行ってしまったに違いないと直ぐ気づいたが、あのときはそこまで考える余裕がなかった。織田の中で急激に不安が増大した。このまま、意識を失ったら……そう思うと、心底、ぞっとする。僅かな体力を振り絞り、胸の痛みを堪えて手の甲で乱暴に口元を拭った。
(注射器、借りな……)
 織田は、ふらふらとドアへ向かった。

 その頃、坂口と太宰は寮棟の廊下を足早に歩いていた。
 今夜、最後の潜書が終わったのに織田は迎えに来なかった。心配する坂口と太宰に、同じ会派だった高村と宮沢は代わりに司書へ四人分の報告をしておくと言ってくれた。二人の心遣いに感謝して坂口と太宰は織田の部屋へと急いだ。織田とネーム・プレートの掛かったドアを坂口はノックもせずに開けた。
「オダサク、戻って――……」
 しかし、途中で言葉が霧散した。続いて暗い室内に足を踏み入れた太宰も直ぐ異変に気づいた。この鈍く鼻につく錆びた鉄の様な匂いは……
「太宰、早くドアを閉めろ!」
 坂口が鋭く言った。ああ、と太宰は頷いた。急いでドアを閉め、壁にある明かりのスイッチを入れる。
「……っ……!」
 あまりの惨状に一瞬で二人は蒼白になった。
 室内はまさに血の海だった。フローリングの床に散らばる大量の原稿用紙にはおびただしい血痕が広がり、その上を誰かが歩き回ったらしく、あちこちに血の足跡が付いていた。机やベッドにも血が付着している。何かを物色した形跡に太宰は慌てて本から武器を取り出そうと構えた。
「侵入者だ、安吾!」
「いや、これは侵入者じゃねえ」
「どうしてそう思うんだ?」
「……」
 坂口はそれには答えなかった。ただ、ついてくるなと片手で示すと、土足で書き物机へ真っ直ぐ近づいた。一番上にある原稿用紙を取り上げ、きつく口唇を噛む。手の中で、ぐしゃっと紙の潰れる音がした。
「何するんだ、安吾! それはオダサクが書いた原稿だろう!」
 思わず、太宰は叫んだ。織田が必死に書き上げた原稿をそんなふうに扱うのは許せなかった。しかし、坂口は地を這う様な低い声で逆に問うた。
「こんなものが原稿だって言うのか……?」
「……!?」
 太宰は床に落ちている、あまり汚れてない原稿用紙を拾い上げた。それを見て大きく目を瞠る。
「こ、れはっ……!」
 そこに書かれていたのは人の使う文字ではなかった。目にするだけで吐き気と嫌悪を催す歪に崩れた醜い文様でびっしりと埋め尽くされている。これを書いたのが織田なら、とても正気とは思えなかった。
「馬鹿がっ!!」
 突然、感情を爆発させた坂口が机にある原稿用紙の束を右手で乱暴に払い落した。その言葉に、ハッと太宰は息を呑んだ。
「まさか……もしかして、安吾、オダサクの異変に気づいてたのか?」
 我知らず、声が硬くなった。
 坂口は何も言わなかったが、それが雄弁に答えを物語っていた。太宰はギリッと奥歯を噛み締めると、坂口に駆け寄り、怒りに任せて拳で思い切り左頬を殴りつけた。バキッと鈍い音が響く。
「……ってえな」
 甘んじてそれを受けた坂口が小さく呻いた。その胸倉を太宰は更に両手できつく掴み上げた。
「ふっざけんじゃねえ! 知ってたんなら、どうしてこんなになるまで放っておいたんだ!」
 しかし、それは同時に自分をも責める言葉だった。
(今朝、血の匂いがしたとき、ちゃんとオダサクに確認すれば良かった! そうしたら、ここまで酷くはならなかったかもしれない。全部、俺のせいだ! 俺のっ……!)
 くしゃっと太宰の顔が歪んだ。元々感情の起伏が激しいだけに、ない交ぜになった怒りと後悔で目眩がした。そんな太宰を坂口は痛そうに見つめて言った。
「……それがオダサクの望みなら仕方ねえだろう」
「どう、いう……?」
「人間がこんなに血を吐けば、とっくに死んでる。これは前世に引きずられただけの仮初めの病だ」
「仮初めのって……」
「まだわからねえのか、太宰……オダサクは、今生も身体が弱いんだよ」
「……っ……!」
 その瞬間、太宰の中に一気に織田の記憶が蘇ってきた。昔、織田が長く胸を患っていたこと。初めて三人で逢ったあの日も引っ切り無しに咳き込む姿に死が見えて辛くて仕方なかったこと。そんな身体に薬で鞭打って書き飛ばし、終に大量の喀血を起こして死んでしまったこと。一月の寒い冬の日に葬儀にまで参列したのに、どうして今まで思い出せなかったのか……
「俺が……弔辞を、読んだ……」
 太宰は呆然と呟いた。ああ、と坂口は頷いた。
「漸く思い出したか」
「まさか、安吾……オダサクは、また使ってるのか?」
 何を、とまでは言えなかった。しかし、坂口にはそれで充分だった。
「オダサクは精神安定の文豪だ。だが、その精神の強さに今生も身体がついてこれなかった。なら、どうするかは言わずもがなだろう、太宰……俺が転生したとき、オダサクは既に薬を使ってた」
「……っ……!」
 太宰は鋭く坂口を睨みつけた。
「どうして止めなかったんだ、安吾! それじゃ生き急いで死んだ昔の二の舞だ! 安吾は、また同じ後悔をするつもりなのか!? 後になってオダサクを止めなかった自分をどんなに悔やんでも、失ってからじゃもう遅いだろう!」
 隠し切れない怒りが太宰の声に滲んだ。すると、一瞬、坂口の瞳に動揺が浮かんだ。しかし、直ぐ瞼がそれを覆い隠してしまった。坂口は少し感情を整えてから苦しげに呟いた。
「……あんたがいなかったからだ」
「えっ!?」
「俺も、オダサクも……もう一度、あんたに逢いたかった。あの日、銀座で逢った三人の夢の続きが見たかったんだ。だが、図書館はまだ人手不足な上に、俺は転生したての役立たず……そんな状況で、俺に何が言える? 何が出来る? 後悔するとわかってても、俺は、ただ見てることしか出来なかった……!」
「安吾……」
 悲痛に顔を歪める坂口に、太宰は数秒前の自分を殴り飛ばしたくなった。なぜ、そこに思い至らなかったのか。切っ掛けはどうあれ、薬を得て走り出した織田はもう止まらない。鮮やかに時代を駆け抜けて行った前世と同じく今生もまた花火の様に咲いて散るつもりだろう。それがわかっていながら、どうすることも出来なかった坂口はずっと苦しんでいたのに……
(安吾にも蝉の声が聞こえてたんだ。なのに、俺だけが何も知らずにのうのうと……俺なんか待ってたから……俺なんか……)
 重い自責の念に太宰は胸が押し潰されそうだった。息を吸う度に、まるで鉛の塊が内に降り積もる様で堪え切れずに俯けば、足元には織田の書いた沢山の原稿が散らばっていた。それを踏みつけていることに気づき、太宰は慌てて後退った。しかし、そこに記された歪な文様を見て足を止めた。これが昔も今も死ぬ気でものを書き飛ばした織田の文学の行き着く先なのだろうか。読むことすら出来ず、ただ不快な吐き気と嫌悪を催すこんなものが……
(……違う。こんなもののために、オダサクの生命を削らせたら絶対に駄目だ!)
 それは太宰の文士としての本能だった。
 坂口も太宰も早逝した織田との交流は淡かったが、文学的には深く認め、許し合っていた。だからこそ、今生の関係に繋がっている。過去と現在が一つに繋がり、太宰は初めてそれに気づいた。なら、もう織田が一人死へ向かうのを黙って見ている真似はしたくなかった。この手に掴んで囲って引き留めて……それでも駄目なら、一緒に死んでやる!
 太宰は意を決して坂口を見上げた。
「安吾、二人でオダサクを止めよう! 俺はもう、ものわかりの良い振りをして後悔したくないんだ!」
「太宰……」
 坂口は小さく瞳を伏せた。太宰の、初夏の陽射しにも似た真っ直ぐな意思が眩しかった。それは今の坂口には強過ぎて……痛かった。
 三人で逢ったあの日、坂口は初めて他人に敬意を覚えた。文学的な盟友である太宰と異なり、織田からは自分と同じ落伍者の匂いがした。にもかかわらず、まるで冬牡丹の様に鮮やかにして苛烈な生き方は見事としか言い様がなかった。しかし、それから二ヶ月も経たない内に織田は一人先に死んでしまった。そのとき、涙の中で坂口は後悔した。こんなに儚く散るなら、せめて春に咲かせてやりたかった、と……
「一つ散りて 後に花なし 冬牡丹」
 ふと正岡の句が口を衝いて出た。坂口は俳句より短歌を好んだが、それは織田のことを詠んでいる様だとぼんやり思った。
「知ってるか、太宰? 本来、春の花である牡丹に人が手出して無理やり冬に咲かせたのが冬牡丹だ……春を想って冬に散るのは、花としてはさぞ無念だろうな」
 坂口の口唇が自嘲に歪んだ。それでも、哀れな冬牡丹に惹かれる俺は失ってまた後悔するんだろう。わかってたのに、止められなかった。いや、止めなかった。もし、触れた瞬間に散ってしまったら……ただ、それが怖くて……
 己が弱さを言外に滲ませる坂口に太宰は優しく言った。
「ちゃんと咲いたんだろう。なら、満足に決まってるじゃん」
「……!」
「春になっても、花は必ずしも咲くとは限らないだろう。花にとっては、いつ咲くかは問題じゃない。ちゃんと咲けるかどうかが大事なんだ。でも、ぼっちは寂しいからさ……俺が花なら、最期は誰かと一緒に散りたい。安吾は……?」
「俺は……」
 坂口は太宰をじっと見つめた。
 かつて太宰は未来を恐れて死を選び、織田は未来を恐れず死へ突き進んだ。一人残された坂口は未来を恐れも愛しもせず死ぬまで生きたが、三人で逢ったあの夜の様な歓喜と高揚は二度と味わえなかった。落ち窪んだ記憶の底には二人の去った後の孤独が黒々とこびり付いている。だから、今、太宰と織田が生きているのが堪らなく嬉しかった。もう二度と失いたくない。そう思ったら、我知らず、言葉が溢れた。
「また俺を置いてくんじゃねえ」
「なら、同じこと考えてるじゃん、俺達」
 ふわりと太宰は微笑んだ。そうだな……と坂口は穏やかに返した。自分の中にもある死を容認した途端、ずっと思考に掛かっていた倦怠感が消えていった。何て様だ、と坂口は胸の奥で呟いた。生きることが全部だと言った俺が、ただ終わるのを待ってただけとは。それは生きることじゃねえ……!
 ……パンッ!
 突然、坂口は両手で自分の頬を強く叩いた。太宰が驚いて目を瞠った。
「安吾!?」
「あ~、漸く目から鱗が落ちた」
「良かったじゃん。俺のお陰だな」
 ふふん、と太宰は胸を張った。坂口はずれた眼鏡を右手で軽く直して言った。
「ああ、全くだ。一人で考えるとろくなことにならねえ。太宰、急いでオダサクを探すぞ。あいつの目も醒ましてやらねえとな。この状態じゃそう遠くには行けねえはずだ」
「闇雲に探すつもりか?」
 太宰は不安そうに尋ねた。
 図書館は文豪達の暮らす寮棟だけでもかなりの広さがある上に庭まであった。しかも、太宰はまだ敷地の外へ出たことがないので、周辺の地理に不慣れだった。もし、織田がどこかへ薬を買いに行っていたら、探しようがない。
「安吾、二人だけじゃ手が足りない。他の人にもオダサクを探して貰おう」
「駄目だ。話が大事になる。オダサクの居場所なら、ここに必ず手掛かりがあるはずだ」
 坂口は書き物机の右にある引き出しをさっと開けた。そこには暗灰色の箱が一つ置いてあり、中に白い粉末の入った小袋が幾つも入っていた。その一つを手に取って坂口は太宰に見せた。
「薬はまだある。外の線は消えた」
「それが薬? 飲むのか?」
「オダサクがそんなことする訳ねえだろう。今はアンプル剤より粉末が主流なんだと。これを水に溶かして注射するらしい」
「何か面倒だな」
「その分、持ち運びは楽だろう。落としても割れねえし」
「確かに」
 昔は太宰も薬を使っていたので、そこは素直に感心した。引き出しの中を覗き込む。
「あれ? 注射器がないじゃん」
「枕元にあるはずだ」
 その言葉に太宰はベッドに膝をついて調べ始めた。枕や布団をどかして注射器を探す……が、見つからない。一応、マットレスの下にも軽く手を突っ込んでみた。
「ないぞ、安吾、昔みたいに持ち歩いてるんじゃないか?」
「いや、それはねえだろう。森先生に感づかれてる節がある。人の感情に聡いオダサクがそんな状況で注射器を持ち歩くとは思えねえ。多分、どこかに隠したんだろう」
 坂口も注射器を探そうとクローゼットへ寄った。そのとき、コツンと足先に何か固い物が当たった。
「……?」
 見ると、原稿用紙に埋もれて注射器の黒いケースが落ちていた。どうしてこんな処に……そう思った瞬間、坂口の中で総ての状況が繋がった。織田が部屋の中を歩き回っていたのは……
「太宰、補修室だ!」
「えっ!?」
「オダサクは薬を打つために注射器を探してたんだ!」
「……!」
 ほぼ同時に二人は織田の部屋を飛び出した。急いで補修室へ向かう。寮棟の長い廊下を出来るだけ音を立てないよう走り抜け、幾つか角を曲がれば、その突き当りに補修室が見えてきた。
「安吾!」
 太宰がそれを指差した。夜は鍵が掛けられている補修室のドアが大きく切り裂かれ、壊されている。
「取り押さえるぞ!」
 坂口が叫んだ。おう、と答えて太宰は補修室に踏み込んだ。



初出 2018.2.26
『Annexe Café』より転載。

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