……コツン。
 思いの外、足音が大きく響いて太宰は小さく息を呑んだ。夜の補修室をどこか不気味に感じるのは、ここが転生した文豪にとっては病院にも似たものだからだろうか。太宰は緊張で跳ね上がった心音を耳の奥で煩く聞きながら、そっと辺りを窺った。
「……」
 廊下から零れ入る薄明かりのみが照らす補修室は完全な静寂に包まれていた。左に三つ並んでいる補修用の寝台は無人で、白いシーツが闇の中でぼんやり光っている。傍の椅子には緩い猫のぬいぐるみがきちんと置いてあった。備品棚に荒らされた形跡はない……が、一応、太宰は引き出しの中を確かめてみようと足を踏み出した。そのとき――……
「……!?」
 視界の隅で何かが動いた。すかさず坂口が右奥の薬品棚を顎で指した。太宰はじっとそこに目を凝らした。廊下の明かりは届かないものの、リノリウムの床に反射した僅かな光が棚の前に朧な輪郭を浮かび上がらせている。
「オダサク……?」
 太宰が小さく呼ぶと、黒い人影がゆっくり振り返った。
「……おかえり」
 それは、やはり織田だった……が、いつもより語調に張りがなく声が掠れている。太宰は密かに顔を顰めた。
 暗がりの中から織田が言った。
「遅かったんやね、二人とも」
「ああ、まだ練度が低いから手間取ったんだ。オダサクはそんな処で何をしてるんだ?」
 平静を装って太宰はさり気なく近寄ろうとした。しかし、その腕を坂口が強く掴んだ。
「迂闊に近づくな、太宰」
 腹の底から込み上げる震えを抑え、坂口は低く囁いた。闇の奥で、クスッと織田が笑う。
「酷い顔しとるで、安吾。また見えへんはずのものが見えたんか?」
「……この暗さで俺の顔がわかるのか。なら、注射器は見つかったらしいな。薬やると、感覚が鋭くなるからな」
「ケッ、ケッ、ケッ……今の薬は、昔より質がええか、ら……っ……」
 語尾が苦しげに震えた。織田は胸を押さえて少し咳き込んだ。それが収まるのを待って太宰は優しく右手を差し出した。
「オダサク、もう無理するな。かなり待たせたけど、俺はここにいる。やっと三羽烏が揃ったんだ。だから、まずはその身体を治そう。なっ?」
「……何で?」
 少し間を置いて、織田が不思議そうに呟いた。
「ここにいる文士の中で、ワシは一番の欠陥品や……もう要らんやろ」
「オダサクが要らない訳ないだろう。お前も無頼派を代表する一人なんだ。身体が弱いことを言ってるなら、俺達が――……」
「違うっ!! そんなことやない!」
 突然、織田が強い口調で太宰を遮った。闇の奥でキラリと何かが光り、同時に潜書で聞き慣れたナイフが空を切る音がする。織田が武器を顕現させたと気づいて太宰は咄嗟に鎌を構えた。坂口の手も動いたが、苦無を取り出すのは辛うじて堪えた。くそっ、と心の奥でぼやく。
(この得体の知れねえ昏さと歪さ……間違いねえ。オダサクの奴、あんな身体で薬を使ったから恐慌状態(バット・トリップ)してやがる。何とか説得して落ち着かせねえと……!)
 坂口は織田を刺激しないよう静かな声で尋ねた。
「何が違うんだ、オダサク? あんたには織田作之助としての記憶と意思がある。それで充分だろう。他に何を求める?」
「……死や」
 織田は短く答えた。その一言で坂口は総て悟った。思わず、ため息が零れる。
「ああ、そういうことか……成程」
「何、納得してんだよ、安吾! 俺にもわかる様に説明しろ!」
 慌てて太宰が口を挟んだ。坂口はチラッと太宰に目をやると、また織田へ視線を戻した。
「万物は陰を負うて陽を抱く。俺達の生はな、太宰……本意にしろ不本意にしろ、前世の死によって完璧に完結されてたんだ。だが、錬金術はそこに干渉して洋墨で作った器に無理やり俺達を転生させた。そのせいで、俺達は老いも病もねえ歪で不完全な存在になってしまった」
「それが欠陥だって言うのか? そんなの、皆、同じだろう。オダサクだけじゃ――……」
「同じやない!」
 太宰の声を、また強く織田は遮った。一歩、二歩と近づいて来る足音が聞こえ、やがて二人の前に幽鬼の様に生気のない不気味な白い顔が現れた。織田は昏い唐紅でじっとこちらを見据えた……が、視線が交わらない。大きく瞳孔の開いたその瞳は誰も、何も見てはいなかった。
 織田は怒涛の如く言葉を吐き出した。
「ワシはいつもそこに死があるから、ずっと全力で走ってきた。限られた時間を生きる焦燥感はワシの魂に深く刻み込まれとるんや。せやのに、今更、限りない時間を生きるんか? どうやって? ワシは歩き方なんて知らん。歩こうとも思わん。そんな生き方、したことないんや!」
 前世、若くして不治の病に侵されたから、今を生きることに必死で先を考える余裕などなかった。転生しても、それは変わらない。いや、変えられない……
「死は織田作之助を構成する最大の核や。それがないワシは織田作之助やない。ただの出来損ない……欠陥品や。なら、こんな生、何の意味もない!」
「……何の意味もねえ、だと」
 地を這う様な低い声で坂口が呟いた。サングラスの奥で、すうっと目が細くなる。
「あんた、俺や太宰に逢うために一人でずっと頑張ってたんじゃねえのか?」
「頑張ったで。一刻も早う安吾と太宰クンに逢うて……この身体、使い潰すために」
 ふわっと織田は微笑んだ。その表情があまりに綺麗で、透明で、太宰は泣きたくなった。
(どうしてお前は……折角、また逢えたのに、どうして……)
 そう言いたいのに、喉が詰まって声が出なかった。隣で坂口がギリッと奥歯を噛み締めた。
「……そんなくだらねえ理由で、無理のきかねえ身体にまた薬で鞭打ったのか? そうしたら、自分がどうなるか……あんた、嫌ってほど知ってるよな?」
「良うわかっとるで。血の海で溺れる苦しさは今も昔も同じや。せやけど、こうするしかないやろ。織田作之助に自殺の選択肢はない。この生を終わらすには、身体を使い潰すしかないんや」
 織田は平然と事も無げに答えた。坂口は小さく俯き、深く息を吐いた。
「……あんた、大事なことを一つ忘れてるぜ」
 無機質な声が辺りに響く。
「何や?」
「俺達はな……死んだんだ。死んだ人間は生き返らねえんだよ、絶対に」
「それを可能にしたんが錬金術やろ。せやから、ワシらはここにおる」
「違うな」
 即座に坂口はそれを否定した。その声には隠し切れない怒りが滲み出ていた。
「あんたは肝心なとこが全くわかってねえ……いいか。八年だ。あんたが死んでから更に八年、俺は生きた。あんたが逝った翌年には太宰も死んで、残った烏は俺一人。それからの日々は、さすがの俺でも堪えたぜ。どうしようもねえ孤独に苛まれ、幻覚は酷くなるわ、気が狂いそうになるわ……本当に散々だった。だから、死んだ人間を生き返らせる方法があるならな……とっくの昔に、俺がやってる!」
「……!」
 鬼気迫る坂口に織田が僅かにたじろいだ。坂口は少し距離を詰めて厳しく織田を見据えた。
「死んだ人間は、何があっても絶対に生き返らねえ。たとえ、錬金術といえどもだ。俺はそれを骨身に沁みて良く知ってる。だから、はっきりと言える。あんたの求める織田作之助は死んだ。もう死んだんだ! いつまでも、だらだら昔を引きずるんじゃねえ! 今、ここにいる自分を、ありのままに受け入れろ! そうしたら、あんたはあんたの望む新たな織田作之助になれるんだ!」
「ワシの、望む……」
 ぼんやりと織田は言葉を繰り返した。しかし、次の瞬間、二つの瞳に昏い影が差した。口唇が醜く歪む。
「わかってないのは安吾の方や。ワシの望みは、ただ一つ……書くことや。そして、織田作之助にとって、書くことはな……死ぬのと同義なんや!」
「この、馬鹿がっ……!」
「もう邪魔すなや。漸く逢うたあんたらを傷つけとうない。せやけど、ワシの邪魔をするなら……容赦はせえへん」
 仄暗い気を纏わせ、織田は二人にナイフを突きつけた。すると、突然、太宰が叫んだ。
「ふざけるなっ!! お前、また俺達を置いてくつもりか!」
「……」
「前世、お前は確かに生命を削って書いてた。でも、好きでそうした訳じゃない。病に侵され、そうするしかなかったからだろう。なのに、どうしてまた同じことを繰り返すんだ! 死んだら、もう書けないじゃないか!」
 太宰の瞳から必死に堪えていた涙が溢れ落ちた。それを拭いもせず、更に続ける。
「俺、相変わらず、ろくな奴じゃないけど、今生はちゃんと生きようって思ってる。だって、死んで初めて思ったんだ、生きたいって。オダサクも、そうじゃないのか? 俺達の中で一番若かったのに、一番先に死んで……本当は、もっと生きたかったんだろう!」
「そ、れは……」
 真っ直ぐな太宰の言葉に頑なだった織田の心が僅かに動いた。その機を逃さず、坂口は一気に畳み掛けた。
「オダサク、前世、あんたの生き方は本当に見事だった。まるで雪に咲く冬牡丹の様に鮮やかにして苛烈で……俺は一瞬であんたに魅せられた。だが、今生はそんなふうに生きなくて良い。ここにはあんたを縛った病も死もねえんだ。その意味がわかるか? あんたは死んで初めて、自由になったんだ」
「自由……」
「今のあんたは、それに戸惑ってるだけだ。だから、歩き方がわからねえなら、俺達が教えてやる。歩こうと思わねえなら、俺達が一緒に歩いてやる。また三人で面白おかしくやろうぜ。あの日、銀座で逢った三人の夢の続きを見るんだ……!」
「……本当に」
 織田はゆっくりナイフを下ろした。
「そんなん、出来るやろか……」
「出来るさ。俺を信じろ、オダサク」
「……安吾は、嘘つきやからな……っ……せや、けど……」
 今夜、初めて織田の視線が二人と合った。するりとナイフが手から抜け落ちる。
「今、だけ……信、じ……て――……」
 ゆらりと身体が傾いだ。オダサク、と太宰が叫んだ。咄嗟に坂口は倒れる織田に思い切り腕を伸ばした。
「……っ……!」
 床にぶつかるすんでのところで坂口は織田の身体を受け止めた。太宰は鎌を放り出すと、織田に駆け寄った。
「オダサク! しっかりしろ、オダサク!」
「……」
 しかし、織田は既に意識を失っていた。そのとき、不意にパッと補修室の明かりが点いた。
「誰だ? そこで何をしている?」
「……!?」
 驚いた二人が振り返ると、壊れたドアの傍に厳しい顔の森が立っていた。森は坂口の抱えている織田を見てすぐさま表情を変えた。
「織田君!? 一体、何が……いや、それより早く寝台に!」
 森は窓際の補修台を指差した。坂口は言われた通り、そこに織田を横たわらせた。同時に……
「太宰、洋墨をありったけ持って来い!」
「おう!」
 太宰は洋墨の置いてある一番大きな棚へ向かおうとした。すると、森が右奥の薬品棚を指差した。
「太宰君、洋墨ではなく、あそこにある抗生剤を持って来てくれ。白い箱に入っているから直ぐにわかる」
「えっ!? あっ、はい!」
 一瞬、戸惑ったものの、太宰は小走りに薬品棚へ向かった。その間に森は織田のシャツのボタンを幾つか外すと、聴診器を胸に押し当てた。呼吸音を聞き、そっと首筋に触れる。
「補修しねえのか、森先生? オダサクの奴、かなりきてるぜ」
 口調を正すことも忘れ、坂口が低く囁いた。森は静かに首を振った。
「今は駄目だ。多少の傷ならまだしも、補修は基本的に侵蝕された精神を直すものだ。織田君は肺の空洞化が進み、首のリンパ節も腫れて肺外結核を起こしている。仮初めの病とはいえ、ここまで病状が進行していると、身体が洋墨を受けつけない」
「……補修に体力が持たねえってことか」
「そうだ。だから、暫く病気の治療に専念する」
「本当に治るんですか?」
 白い箱を持って戻って来た太宰が不安そうに尋ねた。少し間を置いて、森はゆっくり二人の方へ向き直った。
「かつて国民病だった結核は現代では薬で治すことが出来る。だが、それには君達の協力が必要だ。今の織田君は薬と病に精神を蝕まれ、病的な喪失状態にある。これでは治るものも治らない。だから、ある程度、身体が回復して補修出来る様になるまで同じ無頼派の君達が織田君を繋ぎ止めていて欲しい。そうしたら、俺が責任を持って彼を治療すると約束しよう」
「……言われなくても」
 坂口は織田へ瞳を流した。ああ、と太宰も頷く。
「失って後悔するのは一度で沢山だ」
 前世と同じ轍は踏まない……絶対に。二人は改めて気を引き締めた。太宰は薬の箱を森に差し出した。
「有難う……頼まれついでに、もう一つ良いだろうか? どこかで衝立を借りて来てくれ。今夜はあれを修理出来ないからな」
 森はドアを目で指した。あっ、と太宰は声を上げた。入口にあった二枚の大扉は織田がナイフで切り裂いてしまったため、今は左右の蝶番を残すのみとなっていた。
「でも、衝立なんてどこにあるだろう……?」
 太宰は首を傾げた。すると、坂口が言った。
「それなら、泉先生が談話室に喫煙所が出来るまで分煙しようって運び込んだ物がある。あれを借りれば良い」
「おっ、良い考えじゃん」
 すぐさま太宰はそれに賛成した。二人はペコリと森に頭を下げると、慌ただしく補修室を飛び出した。
 再び廊下を疾走する坂口と太宰をネコが物陰からじっと見ていた。やれやれ、と密かに思う。彼らは何ものにも頼らない無頼を称しながら、前世は麻薬に、今生は互いに依存している。
(……やはり人間は良くわからニャイ)
 ネコは前足で何度か顔を擦ると、静かにそこから立ち去った。

 一ヶ月後、織田は薄暗い自室のベッドに横たわってぼんやり天井を眺めていた。森の治療で仮初めの病はかなり良くなったものの、体力の回復は未だ思わしくなく、まるで泥の中から目醒めた様に身体が重かった。
(けったくそ悪い……)
 はあ、と熱のある息を吐いて織田は小さく寝返りを打った。そのとき、控えめなノックがして太宰が入って来た。
「オダサク、起きてるか……?」
「……太宰クン、おはようさん」
 織田はゆっくり身を起こそうとした。それを見た太宰が慌てて駆け寄る。
「あっ、無理するなよ。また咳が出るだろう……ほら、手を貸してやるから」
 太宰は織田の上体を支えながら、片手で背中に枕を宛がった。緩く編んだだけの長い髪をいつもの様に右に垂らしてそっと寄り掛からせると、織田は申し訳なさそうに呟いた。
「おおきに」
「……まだ熱がある」
 織田の額に触れた太宰は僅かに顔を顰めた。
「……出来損ないやからな」
「俺はそうは思わないけどな……カーテン、開けるぞ」
 優しく頬を撫でて太宰の手が離れた。窓辺に寄り、カーテンを大きく開く。朝の光が差し込んだ室内は一気に明るくなった。織田は眩しそうに目を細めた。そのとき、再び部屋のドアが開いた。
「オダサク、朝飯だぞ~」
 坂口が三分粥の入った土鍋と小さな椀の載ったトレイを持って入って来た。織田は緩く首を振った。太宰がやんわり注意する。
「お前、漸く点滴からから食事になったのに殆ど食べないじゃないか。それじゃあ、いつまで経っても補修出来ないぞ」
「……」
 しかし、織田は食事をするのが嫌だった。煮込まれて原型すらない僅かな米と微かな塩味だけの重湯がどろりと喉を通る度に吐き気がした。それは喀血にも似て、思い出すだけで胸の奥から鉄さびの様な悪臭が込み上げてくる。織田は黙って目を閉じた。
「ふむ……」
 坂口はトレイを机に置くと、ベッドへ近寄り、おもむろに織田の顔を覗き込んだ。そして――……
 ピシッ……!
 いきなり鼻の頭を指で弾いた。
「痛っ……!」
「そうか。そうか。痛いだろう。なら、食え」
「だから、要らん言うて――……」
 坂口がまた指を上げたので、織田は慌てて鼻を押さえた。しぶしぶ頷くと、坂口はニコッと笑った。そして、上機嫌で机に戻って土鍋の粥を椀によそい始めた。太宰が怪訝そうに言った。
「普通、指で弾くのは鼻じゃなくて額だろう、安吾?」
「額だと犬や猫にはわからねえんだよ。褒めるときは頭を撫でるからな。鼻は急所だからそれなりに痛い上に驚きと恐怖感もある。躾けは飴と鞭をはっきりさせねえとな」
「ワシは犬やないで、安吾」
 織田が不満そうに口を挟んだ。
「ああ、あんたはどっちかって言うと猫だな。しかも、今は病気で何も食おうとしねえ困った猫だ」
 坂口は椅子をベッドの傍まで移動させて腰を下ろすと、すっと椀を差し出した。また鼻を弾かれたら堪らないので、織田は諦めてそれを受け取った。太宰が、いそいそとベッドの端に座った。
「安吾、俺は? 俺はどっちだと思う?」
「あんたは犬だ」
「え~、どうしてだよ。俺、犬は嫌いなのに」
 納得がいかないと太宰は坂口を睨んだ。その視線を坂口は綺麗に流す。
「猫は孤高の生き物だぞ。あんた、一人は嫌だろう」
「うっ……確かに」
「ちなみに、俺は犬だ。統率力があって面倒見は良いし、まあ、当然だな」
 犬好きの坂口は得意げに口の端を上げた。すかさず太宰が反論した。
「安吾のそれは俺達限定だろう」
「ああ、犬は仲間意識が強いからな。安心しろ。あんたらの面倒は見てやるぜ」
 その声があまりに優しかったので、思わず、太宰は頷いてしまった。結局、ずっと三人でいられるなら、太宰は犬でも猫でもどちらでも良かった。
 織田が小さな声で呟いた。
「飴……」
「うん?」
「鼻ピンが鞭なら、飴は何や……?」
「ああ、それはな……」
 坂口は織田の前に身を乗り出すと、突然、大きく破顔した。織田はポカンと坂口を見つめた。
「飴はこの笑顔だ。三羽烏が一人、坂口安吾があんたにだけ笑い掛けてるんだ。これ以上の飴はねえだろう」
「……」
 反応のない織田に、あ~、と坂口は低く唸った。
「一人じゃ不満か。なら、太宰、あんたも一緒に笑え」
「仕方ないな。この天才小説家、太宰 治の笑顔は高くつくぜ」
 太宰は大仰な仕草で髪を整えた。そして、ずいっと織田に顔を寄せると、坂口と一緒にニコッと笑った。織田が小さく噴き出した。
「ぷはっ、何やねん、それ……ははっ……」
 それは久しぶりに見た織田の笑顔だった。
「オダサク……」
 込み上げる感動を太宰は必死に抑えた。その横で、坂口が静かに言った。
「なっ、飴だろう」
「……っ……せやな……」
 軽く胸を押さえて織田は頷いた。
「ほら、早く食え。殆ど重湯だから冷めるとまずいぞ」
「……」
 織田は無言で椀に視線を落とした。まだ温かい三分粥から米の仄かに甘い匂いがした。れんげで少しだけすくって口に運ぶと、重湯のとろみが優しく胸を宥めた。その感覚がとても心地良く、織田は小さく息を吐いた。
「……良い顔だ」
 坂口が満足げに呟いた。
「飯が旨いと思える様になったら、回復はもうすぐだな」
「なら、春には間に合いそうだな。花見しようぜ、三人で」
 太宰の声が嬉しそうに弾んだ。織田は窓の外を遠く見つめた。
「花見か……何年振りやろ」
「ああ、死んでから随分、経ってるしな」
 さり気なく太宰は趣旨をずらした。織田がそういう意味で言った訳ではないとわかっていたが、もう花を見る時間を惜しんで書く必要はなかった。少し間を置いて、織田は穏やかに微笑んだ。
「……せやな」

 そして、三人で迎える初めての春が来る。



初出 2019.2.1
『Annexe Café』より転載。

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Café Grace
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