翌日、補修の終わった太宰が目を醒ますと、寝台の傍に坂口が椅子を寄せて座っていた。
「……安吾……」
「ああ、起きたか……気分はどうだ、太宰?」
「大分、良くなった……もう大丈夫」
 太宰はそっと身を起こした。そうか……と坂口は呟いた。
「なら、取り敢えず、食堂へ行くか。お互い、昨夜は飯どころでなかったからな。朝飯には少し早いが、もう開いてるだろう」
 その言い方には織田が含まれていなかったが、太宰はそこには触れず、ただ静かに頷いた。
 坂口と太宰が食堂へ行くと、他の文豪はまだ誰も来ていなかった。二人は適当に目についたメニューを頼んで奥まった壁際の席に着いた。それまで空腹は殆ど感じていなかったのに、皿に盛られた料理を見た途端、自然と食欲が刺激された。坂口と太宰は会話もせず、黙々と食べることに専念した。一通り平らげた頃には食堂が賑わってきたので、二人は食器を片づけて坂口の部屋へ移動した。道すがら、織田の部屋の前を通り、思わず、太宰は足を止めた。しかし、坂口が無駄だと言う様に首を振った。内から鍵を掛けて呼んでも出て来ないらしい。太宰は大きく肩を落とした。
 坂口の部屋は北西の角にある和室だった。入口で長い編み上げ靴を脱いだ太宰は雑然と物が置かれた畳の上には座らず、右側にあるキング・サイズのベッドに腰を下ろした。角部屋は他より広いため、この大きさのベッドが入っても余裕があった。寝具が蒲団でないのは転生後の部屋決めの際に織田が強くベッドを推したからだった。坂口は堕落の一環と称して掃除を全くしないので、物に埋もれた万年床になるのは目に見えていた。ベッドなら上にある物を落とせば、取り敢えず、寝る場所は確保出来る。織田なりに坂口の性格も加味した合理的な判断だった。しかし、それなら一番大きいのにしろと坂口は言い出した。大は小を兼ねると要らぬ豪快さを発揮する坂口に対し、その必要性を認めない織田が抵抗したものの、部屋の主は俺だ、という一言で総て決まってしまった。
「ちょっと待ってろ」
 予め電気ケトルで沸かしておいた湯で、坂口は二つのマグカップにインスタント・コーヒーを淹れた。一つを太宰に手渡す。
「本当は酒でも飲みたい気分だがな」
「ああ」
 太宰は言葉少なに同意した。坂口は隣に座ると、コーヒーで軽く喉を湿らせた。そして、静かに話を切り出した。
「昨夜のことだが……太宰、俺が見つける前にオダサクと会ったのか?」
「……」
 無言で太宰は俯いた。一夜が明けても、あのときのことを思い出すのは辛かった。怖かった訳ではない。ただ、そこまで織田を追い詰めてしまった原因が自分にあるのが耐えられなかった。
(それに、下手に話してオダサクを悪者にもしたくない)
 自責と情に縛られて口の重い太宰を坂口は優しく促した。
「そのとき、何があったのか……あんたの感じた通りに話してくれ。どんなことを言おうと、俺は絶対にあんたとオダサクを信じる」
「……安吾……」
 躊躇いながら、太宰は顔を上げた。坂口は眼鏡越しに真っ直ぐこちらを見つめていた。その瞳には二人に対して確固たる信頼があった。本心では誰かに打ち明けたかった太宰はそこに僅かな希望を感じた。坂口なら、この苦しみを正しく受け止められるかもしれない。
「……俺、オダサクに殺され掛けたんだ」
「……!?」
「信じられないだろう? 俺だってそうだ。でも、本当なんだ。俺は、本当に……だけど、悪いのはオダサクじゃない。きっと俺がまた何かしたんだ。俺、いつも周りに迷惑ばかり掛けてるから……俺が、オダサクをそこまで追い込んでしまった。そうに違いないんだ。悪いのは俺だ。全部、俺のせいなんだ……」
「太宰、俺はあんたらを信じるって言っただろう。誰も責める気はねえよ。ただ、事実の確認がしたいだけだ……もしかして、昨夜、頭が濡れてたのはそのせいか?」
 コクリと太宰は頷いた。そうか……と坂口は低く呟いた。
「それは辛かったな」
「安吾……」
 その言葉で胸のつかえが取れたのか、太宰は一気に昨夜の出来事を話し始めた。潜書室から逃げ出してしまったのを自室で一人後悔していたこと。二人が心配していると思い、情けない顔を洗って自分を奮い立たせようとしたこと。そうしたら、いつもの癖で洗面台に水を溜めてしまってしまったこと。そして――……
「水を覗き込んだ俺の頭を誰かが後ろから押さえつけたんだ。俺、必死に暴れて……苦しくて……水も一杯、吸って……それでも何とか手探りで排水溝の蓋と繋がってる鎖を見つけて引っ張った。すると、頭の手が離れたから急いで顔を上げて振り返ったら……そこに、オダサクがいたんだ……」
 太宰は少し言葉を切った。坂口は黙って続きを待った。
「俺、何度もあれは自分の気のせいじゃないかって考えた。オダサクに殺される理由なんて全然、思いつかないし……あのとき、俺は耗弱で酷い自己嫌悪に陥ってた。でも、錯乱して幻覚を見た訳じゃない。俺だって、その方がずっとましだって思ってる。だけど、もし、そうだったとしても、絶対に一人は嫌だ! たとえ、正気を失ってても、俺は安吾とオダサクを道連れにする自信だけはあるんだ……!」
「ははっ、随分と後ろ向きな自信だが、あんたにしては上出来だ」
 坂口は楽しそうに笑った。それなら、もう一人取り残されることはないのだから。しかし、そんな安堵をおくびにも出さず、坂口は言った。
「成程な。大体、昨夜のことはわかった……となると、やはり問題はオダサクの方か」
「……? 安吾も何かあったのか?」
「俺はあんたの様な目に遭った訳じゃねえ。だが、違和感ならあった。いつもより冷たい……いや、あれは素に近いという感じだったな」
「どういう意味……?」
 太宰は首を傾げた。坂口は言葉を探す様に宙を見やった。
「あいつは残酷なんだよ……自分にも、他人にも。そうでなければ、死神なんか背負って走れねえだろう。だが、普段は巧く抑えてたその気質を今は制御出来くなってる。だから、行動に歯止めが利かねえんだ」
「それって善悪の判断も出来ないってことか? 俺、結構、長く押さえつけられたんだけど。マジで死ぬかと思うくらい」
「ああ……極端な話、オダサクにはあんたの生死はどうでも良かった。今のあいつにあるのは面白いか、面白くねえか……ただそれだけだ。あんたがオダサクに殺される理由がわからねえのも当然だ。そんなもの、初めからなかったのさ」
「……」
 無言で太宰は俯いた。その顔には驚きも困惑もなかった。衝撃(ショック)が大き過ぎたか、と坂口は少し心配になった。
「納得出来ねえか?」
「……いや」
 太宰はゆっくりと首を横に振った。
「寧ろ、何か納得した……俺、今生は病も死もないから忘れてたけど、きっと今でもオダサクには身の内を蝕む病魔の音が聞こえてる。だから、形振り構わず、必死に走らずにはいられないんだ……それって、やっぱり哀しいなって思ったんだ」
「相変わらず、あんたは優しいな、太宰……ここは怒るところだろう、普通」
「そうか? 俺、死ぬのは別に構わないよ。今生はちゃんと生きようって思ってるけど、全然、そんな自信ないし……もし、安吾とオダサクがいなくなったら……」
 瞬間、どろりと太宰の瞳が濁った。補修で耗弱は治ったはずなのに、こういうところが精神不安定な文豪たる所以なのだろう。坂口は小さく苦笑した。
「俺達はいつでもあんたの傍にいるだろう」
「ああ……でも、今はオダサクがいない……」
「そうだな。俺達の末っ子は焦燥に駆られるあまり、ときに周りが見えなくなる。それなのに、これっぽっちの反省も後悔もしねえ。本当、精神が強いってのは質が悪いぜ、全く。だから、そのときは俺とあんたで全力で繋ぎ止めるんだ。今が、まさにそうだ。わかるな?」
「ああ、オダサクを繋ぎ止められるのは俺達だけ……俺達だけだ」
 太宰はきつく掌を握り締めた。末の烏の危機に漸く頭が回転し始めた。金色の瞳に生気が戻って来る。
「……昨日、オダサクに何かあったとしたら、午後だよな。午前中はいつものオダサクだったし」
「ああ、俺を放って二人で仲良くじゃれ合ってたな」
 思い出して坂口は少し不貞腐れた顔で返した。クスッと太宰は笑った。
「なら、安吾も混じれば良かったのに」
「オダサクにその気がなかったからな。あれはただ、あんたの愚痴を止めたかっただけだ。潜書前の精神状態も侵蝕に影響するからな。あんたもそう思ったから、やり返しただけで満足したんだろう?」
「まあね」
 話が少し逸れた。しかし、二人は直ぐ話題を元に戻した。大事な可愛い末っ子が危ういこのときに雑談で時間を無駄にする気はなかった。
 昨日の午後、三人はそれぞれ別行動を取っていた。坂口は一人で安吾鍋の材料を買いに、太宰は潜書に行っていた。だから、その間、織田が何をしていたのか二人は知らなかった。う~ん、と太宰は唸った。
「安吾、あれって耗弱だと思う?」
「わからねえ。俺も最初はそれを疑ったが、オダサクが最後に潜書したのは四日前だ。なら、俺達が昨日まで気づかない訳がねえ」
「でも、今のオダサクは指輪の効果で練度が下がった分、いつもより侵蝕され易いだろう。だから、そのとき、実はかなり深くまで侵蝕されてたとか。あいつ、そういうの隠すの巧いしさ……で、オダサクが耗弱になるときは俺なら喪失してるくらい余裕ないから、ほんの小さな切っ掛け一つ――たとえば、体調不良とか――で一気に崩れたんじゃないかな」
「……」
 成程、と坂口は思った。それなら、織田の状況を巧く説明出来た。侵蝕されて耗弱に陥った訳ではないので、微妙に中途半端なのかもしれない……が、織田の言動にはどうしても別の要因が絡んでいる気がしてならなかった。そのため、どこか腑に落ちない……
 反応の鈍い坂口に太宰は更に続けた。
「安吾が何に引っ掛かってるかわからないけど、昨日の午後、オダサクが耗弱になったのは間違いないと俺は思ってる。耗弱になると自分のことしか考えられなくなるし、今のオダサクって、まんまそれじゃん。でも、安吾が納得いかないなら、まずは昨日の午後のオダサクの行動を調べてみないか? ここでじっとしてても埒が明かないだろう。それで確証が得られたら、二人でオダサクを部屋から引きずり出して補修室へ連れけば良い」
「……そうだな。最初に足取りを追うのは捜査の基本だな」
 わからないことは幾ら考えても仕方がないので、坂口は気持ちを切り替えることにした。すっと立ち上がる。
「オダサクが一人になったのは、あんたが潜書に行ってから俺が帰って来るまでの数時間だ。手始めに談話室に行くぞ、太宰」
「おう」
 方針の決まった二人は早速、行動に移った。

 談話室に入ると、左手のソファに座っていた新美がパッと顔を上げた。しかし、目当ての人物でなかったのか、直ぐガックリと肩を落とした。
「どうした? 元気ねえな」
 坂口が声を掛けた。新美は無言で狐のぬいぐるみを抱き締めた。坂口は新美の前に膝をつき、そっと顔を覗き込んだ。
「今日は宮沢先生と一緒じゃねえのか。喧嘩でもしたか?」
「……賢ちゃんは今、潜書中だよ……僕の代わりに……」
 新美は太宰ほどではないが精神が不安定な文豪だった。そのため、時折、潜書には適さない状態と判断した宮沢が代理で行くことがあった。今日が、そうらしい。
「そうか。それは少し寂しいな」
 坂口は新美の頭をふわふわと撫でた。新美が躊躇いがちに視線を上げた。
「……今日は、オダサクさんと一緒じゃないの……?」
「ああ、あいつは部屋にいるよ」
「……」
 新美は小さく俯いた。
 今の新美は何かを思い悩んでいるらしく、普段の悪戯っ子が完全に鳴りを潜めていた。坂口と太宰は困ってしまった。共に文学を守る者として力になってはやりたいが、現状、最優先なのは織田のことだった。どうしたものかと二人は密かに顔を見合わせた。すると、唐突に新美が言った。
「オダサクさん、大丈夫? ゴンがね……凄く心配してる……」
「……!」
 ハッと太宰は息を呑んだ。
「何か知ってるのか!?」
「……」
「おい、何とか言えよ!」
 微かな手掛かりに太宰は語調も荒く詰め寄った。その剣幕に怯えた新美は身を竦ませて狐のぬいぐるみに深く顔を埋めてしまった。苛立った太宰が新美の肩に手を伸ばした。それを坂口が掴んで止める。
「子供の扱いが下手だな、太宰」
「はあ? それは見た目だけだろう。こい――……」
 こいつは、と言い掛けて太宰は口を噤んだ。何だか子供を責めている様で自分が酷く大人気ない気がした。坂口は太宰を宥めようと軽く腕を叩いた。
「確かに新美先生は大人だが、精神は多分に肉体の影響を受ける。今、いるのは子供の南吉だ。急いては事を仕損じる。ここは俺に任せろ、太宰、こういうのは慣れてる」
「……わかった」
 逸る気持ちを抑え、太宰は渋々新美から離れた。少し間を置いて、坂口は優しく言った。
「南吉、どうしてゴンはオダサクを心配してんだ?」
 新美は答えなかった。坂口は勝手に話を続けた。
「そういえば、あんたとオダサクは同い年だったな。転生時期も確か近かったはずだ。それで、オダサクのことを気に掛けてくれたのか。有難な。全く……オダサクは困った大人だよな。こんな子供にまで心配させるなんてよ」
「……子供じゃないよ」
 不満そうに新美は訂正した。
「僕の方が年上だもん」
「ははっ、ああ、そうだな。オダサクは前世では一番の年下だったな。悪かった」
「……」
 新美は静かに顔を上げた。どうやら坂口と少し話をする気になったらしい。ねえ、と小さく囁いた。
「ここ、暑い……?」
「いや、別に暑くはねえだろう。寧ろ、人によっては寒いくらいだと思うぜ。本が傷まねえよう館内温度は通年で同じに設定されてるからな」
「うん……僕も、そう思う……でもね、昨日、オダサクさんは暑いって言ったの……」
 その言葉で、今更ながらに坂口は思い出した。昨日の午後、潜書室に宮沢と新美がいたことを。あのときは太宰の行方に思考が集中してしまい気にも留めなかったが、一体、二人はあそこで何をしていたのだろう。いや……誰を待っていたのか。
「……」
 坂口は新美を責める口調にならないよう注意して慎重に尋ねた。
「オダサクの奴、勝手に一人で潜書したのか……?」
「……ごめんなさい。僕のせいなんだ。僕が、雪を見たがったから……」
 核心に触れられ、これ以上は抑え切れないとばかりに新美の瞳に涙が滲んだ。新美が不安定だったのは織田を心配して良心に苛まれていたからに違いない。はあ、と坂口は小さなため息をついた。
「あんたが謝る必要はねえ。どうせオダサクから言い出したことなんだろう。ただ、そのときのことを詳しく聞かせてくれねえか」
「うん……」
 新美は手の甲で涙を拭った。改めて狐のぬいぐるみを抱え直す。
「昨日の午後、賢ちゃんとここに来たら、オダサクさんが一人で座ってたんだ……何だか寂しそうだったから、僕達、一緒に絵本を読もうって誘ったの。それには雪の絵があって……僕、雪が大好きだから……そうしたら、オダサクさんがこっそりその本に潜って雪を取って来るって……僕は雪が降るまで待てるよって言ったけど、そんなの時間の無駄だって……そうして暫くして戻って来たオダサクさんは僕に雪だるまをくれたんだ。その後、直ぐ煙草を吸いに行っちゃったけど、そのとき、ここは暑くて堪らないって……僕、変だなって……だって、暑くないから……どうしてオダサクさんはそんなこと言うんだろうって思って……」
「暑い、ねえ」
 坂口は低く呟いた。コクンと新美は頷いた。あのさ、と太宰が口を挟んだ。
「ちょっと気になったんだけど、本の中からオダサクはどうやって雪を持ち出したんだ? そんなこと出来ないだろう」
「僕達がここにいるのと同じだって言ってたよ。錬金術の力だって。だから、僕達が触ってる間は存在出来るの」
「う~ん……わかる、安吾?」
 どこか要領を得ない説明に太宰は補足を求めた。坂口は少し考えてから口を開いた。
「……オダサクが言ったのは本の中の雪も俺達と同じってことだろう。俺達も自分の本から転生したからな。だが、ただの概念に過ぎないものが意思のある俺達と同じとは思えねえ。もし、そうなら、自分の本から何でも持ち出せることになる。作者以上に、それに強い概念を与えられる者はいねえからな」
「なら、どうしてオダサクは雪を持ち出せたんだ?」
「多分、偶然の産物だろう。きっと何か他に要因があったんだ。オダサクが見落としてしまった別の何かが……」
 それ以上は坂口にもわからなかった。
(オダサクが雪を持ち出せた理由もだが、暑いと言った意味も謎だ。共通してるのは、どっちも温度に関係してるってことか。低ければ雪が降り、高ければ暑くなる。だが、それが何だと言うんだ……)
 行き詰まった坂口は黙り込んでしまった。太宰は理屈を考えるのは性に合わないので、もう一つ別のことを訊いてみた。
「そういえば、オダサクが潜った絵本は宮沢先生のコレクションだろう。俺達、本以外にも潜れるんだな」
「ううん、賢ちゃんの絵本じゃないよ」
「なら、何に潜ったんだ?」
「これだよ」
 そう言って新美は狐のぬいぐるみと一緒に抱えていた子供用の絵本を差し出した。太宰がそれを取ろうとした途端――……
「見せてくれ!」
 突然、坂口が新美の手から絵本を奪い取った。穴の開くほど表紙をじっと凝視する。題名には『ゆきのじょうおう』と書かれていた。日本でも広く知られているアンデルセン童話の一つ。しかし、その文字以上に想像力をかき立てる絵がここでは総てを強く支配していた。
「わかったぜ、太宰……これが原因だ」
「どういうことだ、安吾?」
「俺達は転生した文豪という自らの存在に慣れ過ぎて潜書の危険性を忘れてたんだ。幾ら錬金術で器を得たとはいえ、俺達の元は実体のない……そう、恐らく概念に近いものだ。潜書中は、それが剥き出しになる。そして、俺達がいつも潜ってる小説と違って絵本ってのは絵が中心だ。絵は各人の頭に情景を描く文字と違って万人に同じものを鮮明に見せつける。その強烈な存在感に無防備なオダサクは侵蝕されたんだ……!」
 そんな……と新美が泣きそうな声で呟いた。
「オダサクさんは、僕のせいで……」
「侵蝕なら補修で治るよな、安吾」
 太宰が不安そうに言った。坂口は小さく首を振った。
「難しいだろうな。これは侵蝕者の攻撃とは全く質が違う。しかも、絵に侵蝕されるなんて想定すらしてねえはずだ。南吉、オダサクから貰った雪だるまはどうなった?」
「……あれから暫くして溶けちゃったよ」
「持ち出しても本来の性質は変わらねえのか。なら、オダサクを侵蝕してるのは常温でも存在するものだ。もう一晩は経ってるからな」
「絵本の中で何か食べたとか?」
 思いつくままに、太宰は意見を出した。
「幾ら侵蝕者がいないとはいえ、潜書中に飲み食いはしねえだろう」
「そっか……そうだよな」
「オダサクを侵蝕したものは必ずこの絵本の中に描かれてる。だが、常温で存在するものなんて腐るほどある……まさか空気ってことはねえよな。いや、可能性は否定出来ねえか……」
 坂口は適当に絵本の頁を繰った。そこには様々な物が描かれていた。森の絵一つとっても雪を被った針葉樹の枝や葉、枯れて傾いた黒い幹、ひび割れた樹皮……
(どんなに些細なものでも、絵という実体があるだけで強い。一度、死んでそれを失った俺達じゃ絶対に敵わねえ)
 これで一応の筋は通ったが、織田を侵蝕したものを突き止める手掛かりにはならなかった。坂口は絶望にも近い気持ちで絵本を閉じようとした。そのとき、あっ、と新美が声を上げた。唐突に坂口の手を止める。
「わかった。きっと鏡の欠片が刺さったんだ」
「……!?」
「ほら、見て、ここ。小さな悪魔が割れた鏡を持って空を飛んでるでしょ。これは悪魔の作った鏡で、この欠片が刺さった子は心が凍りついて性格が変わっちゃうの。そして、雪と氷に閉ざされた雪の女王のお城に連れてかれる。オダサクさん、暑いって言ったでしょ。鏡の欠片が刺さった子は雪の女王の眷属になるから、きっとここが暑く感じたんだよ」
「確かに……物語の鍵である鏡の欠片なら他より存在感はかなり強い。オダサクの言動とも一致する……偉いぞ、南吉、あんたは名探偵だ」
 坂口が、まるで子犬を褒める様に新美の頭を両手で撫でた。新美の顔から憂いが薄らいでゆく。
「なら、これでオダサクさんは治るよね……?」
「ああ、物語に沿って鏡の欠片を取り除けば良いはずだ。この本ではどうやったんだ?」
「その子を大好きな人が温かい心で抱き締めたら、溶けて消えちゃったよ」
「悪魔の作った鏡だから愛に弱いのか」
「うん」
 それなら楽勝じゃん、と太宰は大きく胸を張った。
「俺達以上にオダサクを想ってる奴らはいないからな」
 ああ、と頷いて坂口は立ち上がった。二人は新美に慌ただしく礼を言うと、談話室を後にした。織田の部屋へ向かうべく廊下を左へ進もうとして……
「……?」
 ふと太宰が足を止めて振り返った。
「どうした、太宰?」
「今、何か音がしなかった?」
「そうか? 俺は別に――……」
 言い掛けた言葉が霧散した。今度は坂口にもはっきり聞き取れた……ドシンッ、と響く鈍い振動と共に。それは、そう遠くない処で何かが崩れた様な酷く不安をかき立てる音だった。

「……てめえ、覚悟は出来てんだろうな」
 志賀が感情を抑えた声で低く呟いた。織田は瓦礫の山と化した本棚から視線を上げ、気怠そうに振り返った。だらんと垂れた手に持っている鞭が微かな音を立てる。
「……去ねや」
 ピシリと空気が軋んだ。その瞬間、織田の右目が蒼く凍り、志賀は容赦なく本から刀を引き抜いた。



初出 2020.12.5
『Annexe Café』より転載。

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Café Grace
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