Ⅲ


 西園寺は紅茶で軽く喉を湿らせた。少しぬるくなっていたが、気にはならなかった。ここから先は考える隙を与えないよう一気に畳み掛けると最初から決めていた。

西園寺:ナイアが屋敷から出て行った瞬間、沙耶は硬直が解けて大きくむせ込んだ。
後小路:はあ……っ……ごほっ、ごほっ……!
西園寺:沙耶は苦しそうに何度も咳をしながら、よろよろと立ち上がった。
丹羽 :大丈夫か、お嬢さん?
後小路:はあ、はあ……うん……もう、平気……
西園寺:沙耶は蒼ざめた顔で頷いた。そして、踊り場の鏡を見上げて言った。
後小路:あの先に幸哉がいる。早く行かないと……!
西園寺:キュッと掌を握り締め、沙耶は一人歩き出した。お前達はどうする? 沙耶はもう強制しな
    いから好きに決めて良い。
丹羽 :勿論、俺は行く……ここまで来て帰れるか。
七条 :そうですね。母体をどうするかは今はまだ考えません。
伊藤 :……俺も行きます
    (後小路さんを殺さないといけないし……)
遠藤 :俺は啓太について行きます。
中嶋 :俺にはこの先へ行く理由がないが、最後、丹羽達を教会へ連れ帰るためについて行く。
西園寺:ならば、お前達も沙耶に続いて踊り場へと向かった。ナイアが入口を開いたと言った鏡は
    骨董品(アンティーク)の部類に入りそうな古い唐草模様の額に入って壁に掛かっていた。
    それ以外は特に目を引くものはなく、知らなければ素通りしてしまうほど何の変哲もない。沙
    耶は鏡の前に不安げに立つと、恐る恐る指を伸ばした。白い指先が鏡面に触れた瞬間、そ
    こから小さな波紋が広がる。
後小路:きゃっ……!
西園寺:驚いた沙耶は慌てて指を胸元へ引き寄せた。しかし、鏡面は直ぐに凪ぎ、その向こうに地
    下へと伸びる狭く薄暗い石造りの階段が現れた。
丹羽 :……本当にあった。
七条 :この先に母体が……
後小路:幸哉……!
西園寺:直ぐに気を取り直した沙耶は迷わず額縁を跨いで鏡の中へと入った。それを見たお前達
    も次々にその後に続く……中に入ってから誰か振り返るか?
丹羽 :俺は見ねえ。振り返っても、多分、額縁が消えたのに気づくだけだろうしな。今は先に進む
    ことしか考えねえ。
中嶋 :ああ、無駄にSAN(正気度)が減るだけだ。
遠藤 :俺もこれ以上、SAN値を減らす危険は冒せませんので。
伊藤 :俺も見ません。
七条 :僕は振り返ります。やはり気になります。
丹羽 :七条、SAN値が減ったらまた不定になるぞ。
七条 :はい、わかっています。
丹羽 :階段で発狂されたら逃げ場がねえだろう。暴れた巻き添えで誰かが落ちる可能性もある。
    それなら、俺は振り返ろうとする七条を止める。七条先生、ここは暗い。前だけを見て慎重
    に進もうぜ。
七条 :仕方ありません。僕は振り返るのをやめてそれに頷きます。
西園寺:では、薄暗がりの中、お前達は石造りの階段を慎重にゆっくり下りて行った。暫くすると、
    下の方に仄かな明かりが見えてくる。それはどこか歪で湿気を纏ったぼやけた青い光で、
    近づくにつれて、それは大きな広間の様な場所から漏れているとわかった。換気もしている
    のか、地下にもかかわらず、悪臭の混じった風が微かに肌を撫でてゆく。やがて最初に入
    口に着いた沙耶が大きく息を呑んだ。
後小路:……っ……!
丹羽 :どうした、お嬢さん?
後小路:あ、あれ……
西園寺:沙耶は後に来る者達のために脇へ退いた。やがて全員が下まで辿り着き、その理由を知
    るだろう。まるで自然の作り上げた神殿の様な広間を満たす青の光源は中央に浮ぶ硝子
    の六面体だった。それは沙耶と同じ顔をした人の頭部を内包して不規則な方向にゆっくりと
    回転しながら、毒々しい青い光を四方に拡散している。しかし、お前達はそんな不可思議な
    現象を気にも留めなかった。なぜならば、更なる違和感に意識を奪われていたからだ。広間
    の床一面を埋め尽くす沼男(スワンプ・マン)の残骸……それはどれも脈動し、生きていた。
    えんじ色の肉塊は触手を人の手の様に模って青い光を賛美している。しかも、例外なく口に
    似た器官を携えて絶えず何か言葉を発しようと蠢いていた。
七条 :『聞き耳』を振ります。
西園寺:残念だが、それは音にはならない。肉塊は擦り切れたオルゴールの様なか細い悲鳴を零
    しているだけだ。ここで全員、SAN(正気度)チェックだ。成功で1D3、失敗で1D10の喪失
    となる。臣と遠藤は成否に関わらず、SAN値が減るとまた不定が再発する。
丹羽 :1D10は大きいが、全員で発狂でもしない限り、何とかなる範囲だな。
七条 :フラグですか、それ?


丹羽 :SAN(45)→96 ファンブル 1D10→10
    :SAN(45)→35 不定の狂気
    :アイデア(65)→92 失敗
中嶋 :SAN(47)→76 失敗 1D10→9
    :SAN(47)→38
    :アイデア(70)→12 成功 一時的狂気
七条 :SAN(26)→18 成功 1D3→1
    :SAN(26)→25 不定の狂気
遠藤 :SAN(5)→94 失敗 1D10→5
    :SAN(5)→0 永久的狂気
伊藤 :SAN(59)→74 失敗 1D10→2
    :SAN(59)→57


「うわっ、やってしまった!」
 丹羽が大きく頭を抱えた。七条が楽しそうに言った。
「ふふっ、やはり今日の女神は機嫌が悪いですね」
 中嶋が小さくため息をつく。
「終にSAN値が0になったな、遠藤」
「初期SAN値25ですからね。KP(キーパー)の温情で何とかここまで来ましたが、正直、良く持ったと思います」
「和希はキャラ・ロストってことなのか?」
 啓太が不安そうに尋ねた。漸く慣れてきたとはいえ、色々教えてくれた和希を失うのはやはり心細かった。和希は困った様に頬を掻いた。
「どうだろう。それはKP(キーパー)の判断することだからな」
 その言葉に啓太は西園寺を見やった。自然と皆の視線も集まる。西園寺は少し考えて言った。
「遠藤は生命を失った訳ではないので、まだシナリオから脱落はしていない。だが、RP(ロール・プレイ)はかなり制限される。最早、物事を理性的に判断することは出来ず、偏執的な己の使命を遂行することしか考えられなくなる」
「つまり、俺は啓太に仇なす総てを滅ぼす狂信者ってことですね。それは面白そうです」
「和希はアザトースのための騎士だろう。どうして俺なんだよ?」
 慌てて啓太が反論した。すると、ふわりと和希は微笑んだ。
「俺はアザトースを崇拝している啓太を信じているからな」
「……こんなに『信用』を振るんじゃなかった」
 今更ながらに啓太はそれを後悔した。西園寺が丹羽と中嶋に目を向けた。
「お前達は1D10を振って狂気の内容を決めろ。順番に処理をする」
「なら、俺から行くぜ」
 まずは丹羽がダイスを振った。2だ、と呟く。西園寺はパソコンの画面に狂気表を出した。
「激しい恐怖症だな。恐怖のあまり、逃走することも可能だ」
 う~ん、と丹羽は低く唸った。
(俺は三度も沼男(スワンプ・マン)の残骸を見てるから精神的にはもう限界ってことか。だが、ここで逃げたら、シナリオから脱落する)
「KP(キーパー)、俺は沼男(スワンプ・マン)への恐怖で逃げ出しそうになるが、その増殖を止めるという義務感で辛うじてそこに踏み止まるってのは駄目か?」
「今までのRP(ロール・プレイ)と矛盾しないので良いだろう。だが、お前はこれから三ヶ月の間、沼男(スワンプ・マン)を連想させるもの……肉や赤、血などを激しく恐怖することになる」
「了解。暫く肉は食えねえな」
「次はお前だ、中嶋」
 西園寺の言葉に今度は中嶋がダイスを振った。
「7だ」
「丹羽と似ているな。釘づけになるほどの恐怖だ。対象は好きに決めて良い」
 中嶋は小さく腕を組んだ。
「普段から人を実験材料にしてる俺がこの程度で恐怖するのは少し無理がある。だから、解釈を変える。そもそも、俺は屋敷に足を踏み入れた瞬間から肉塊の臭いに不快感を持っていた。潰された沙耶を見てそれが沼男(スワンプ・マン)から発するものと知り、その感情は更に強まった。そして、今、大量の肉塊を初めて目の当たりにしたことで悪臭に対して恐怖にも似た嫌悪に囚われてその場に凍りついてしまった」
 これでどうだ、と視線で問う中嶋に西園寺は軽く頷いた。
「多少、強引な感は否めないが、それで許可する。では、描写を再開する」

西園寺:広間の地獄の様な光景に、啓太以外の者は激しい衝撃(ショック)を受けた。一面に広が
    る沼男(スワンプ・マン)の残骸は累々と横たわる人間の死体と同じと知っているからだ。あ
    まりの惨状に四人は一気に理性を失ってしまった。丹羽は逃げ出したくなる恐怖に大きく震
    えながら、しかし、沼男(スワンプ・マン)から人類を救うという義務感で辛うじてその場に踏
    み止まった。臣は自分の予想していた通りの展開を目の当たりにして絶望に打ちひしがれ
    た。中嶋は悪臭を嫌悪するあまり、身体が凍りついた様に動けなくなった。そして、遠藤は
    擦り減っていた理性の糸が終に切れてしまった。四人は発狂のRP(ロール・プレイ)をしろ。
丹羽 :俺は蒼ざめてガタガタ震える身体をきつく抱き締めながら、恐怖に満ちた声で叫ぶ。何で、
    こんな……これが、人間だってのか……っ……あり得ねえ。あり得ねえだろう!
七条 :僕は涙を零して呆然と呟きます。皆、あれに食われてしまった……もう、誰もいない。終わ
    りだ……僕達も、ここで……
中嶋 :俺は鼻を覆って肺に入る空気を極力、減らす。言葉は何も発しない。
遠藤 :最後の一線を越えた俺は腹の底から笑い出します。ははっ、はははっ……ご覧下さい、神
    父様! 我が神に逆らう薄汚い愚か者どもの末路を! これは最高だ! はははっ……!
西園寺:そんなお前達の中で啓太だけは驚いたものの、直ぐにいつもの落ち着きを取り戻した。そ
    して、硝子の六面体の向こうに寄り添う様に立つ一人の男を凝視した。どうやら床に広がる
    肉塊は青い光ではなく、彼を仰いでいたらしい。
後小路:幸哉!
西園寺:沙耶が男の名を呼んだ。だが、後小路は六面体を見つめたまま、その声に全く反応しな
    かった。
伊藤 :なら、今度は俺が話し掛けます。後小路さん……
西園寺:すると、後小路は初めて視線をこちらへと向けた。啓太の姿を認めると、六面体に沿って
    ゆっくり移動して現れる。
後小路:神父様……そういえば、混沌が何か言っていたな。母体を殺しに来たのですか?
伊藤 :……
後小路:お好きにどうぞ。俺には、もうあれは必要ないので……殺すなら、殺して構いません。俺
    は、もう何もかもどうでも良いんです。なあ、沙耶……
西園寺:後小路は硝子の六面体に向かって声を掛けた。
伊藤 :……それが母体ですか?
後小路:いいえ、これが沙耶です。六面体の力で時間の進みを誤魔化して細胞の崩壊を遅らせて
    いるだけの。身体は新しい沙耶を作るために全部、使ってしまいました。残ったのは、もうこ
    れだけ……
西園寺:後小路は正気とは思えない恍惚とした表情で六面体を見つめた。ここで中嶋が正気に戻
    る。お前は後小路の顔を知らないが、二人のやり取りは耳に入っていたので、ある程度の
    状況は把握している。丹羽達に『精神分析(物理)』をすることが可能だ。
中嶋 :する理由がない。俺は傍観している。
丹羽 :戻さねえのかよ。
西園寺:ならば、描写を再開する。発狂中の者は黙っていろ。沙耶が一歩、前に進み出て言った。
後小路:幸哉、私を見て! 沙耶はここにいるわ!
後小路:……
西園寺:その声は明らかに聞こえているはずだが、先刻と同様、後小路はやはり反応しなかった。
    少し間を置いて、ふと思い出した様に啓太に頭を下げる。
後小路:ああ、確か貴方には猟犬を押しつけていましたね。申し訳ありませんでした。
西園寺:そうして後小路は一音節の短い言葉を発した。途端、啓太は左手の甲にぼんやりとした
    熱を感じた。見ると、そこに刻印されていた青い紋章は跡形もなく綺麗に消えていた。
後小路:これでもう貴方はあの忌々しい犬に襲われることはありません。
伊藤 :……死ぬつもりですか?
後小路:言ったでしょう。もうどうでも良いんです。だって、俺は後小路幸哉ではないから……
伊藤 :……?
後小路:俺は……俺は、後小路幸哉の沼男(スワンプ・マン)です。貴方に猟犬を押しつけた後に
    気づいたことですが……俺は沼男(スワンプ・マン)だった。だから、後小路幸哉を追うあの
    猟犬の獲物にはなり得ない。今頃、奴は平行世界(パラレル・ワールド)か過去の後小路幸
    哉を襲っていますよ。
伊藤 :……
後小路:はははっ……笑えるでしょう。記憶も知識も経験も、身体の細胞まで総てそっくり同じなの
    に、奴はそれを同一の個体と知覚しない。俺が偽物だとわかってるんです。わかってるんで
    す……
伊藤 :……
後小路:でも……でも、この沙耶を思う気持ちだけは誰にも否定させない。俺のこの気持ちだけは
    本物なんだっ……!
西園寺:すると、後小路に無視されていることに耐え切れなくなった沙耶が叫んだ。
後小路:聞いて、幸哉! お願い! 私を見て! 私も貴方と同じなの! 貴方の気持ちが本物な
    ら、私の気持ちも本物! 今の貴方にはきっとわかるはずよ! だから、お願い! 私を見
    て、幸哉! 私を認めて!
西園寺:沙耶の必死の声に対し、しかし、後小路はその総てを拒絶して絶叫した。
後小路:今更……今更、認められる訳ないだろうっ!!
後小路:幸哉っ……!
後小路:お前を認めるということは、ここに散らばる肉塊も俺は認めなければならない! そんな
    こと出来る訳ないだろう! 俺が今までどれだけの沙耶を殺してきたと思ってるんだ!
西園寺:無意識に後小路は肉塊を沙耶と称した。拳をきつく握り締め、吐き捨てる様に言う。
後小路:認める訳にはいかない! それだけは絶対に、俺は認めないっ!!
西園寺:後小路の強い決意に沙耶の両目から大粒の涙が溢れ落ちた。だが、後小路は一度も沙
    耶に視線をやろうとはしなかった。そして、おもむろに左手で広間の奥を指差した。そこには
    更に地下へと続く階段があった。
後小路:……母体はここより下、あの先にあります。母体と言っても、別に他の沼男(スワンプ・マ
   ン)と何ら変わりません。人間です。首をへし折れば、ちゃんと死にますよ、神父様。
伊藤 :……その話が本当かどうか、『心理学』を振ります。


伊藤 :心理学(75-10)→??


西園寺:啓太は後小路をじっと凝視した。しかし、話の真偽を確信するに至るだけのものを読み取
    ることは出来なかった。啓太の視線を感じたのか、後小路が呟く様に言った。
後小路:嘘は言っていません。それを証明する方法はありませんが……ただ、殺すなら早く行った
    方が良い。この場所はもうすぐ崩壊します。
西園寺:そうして後小路は再び六面体に瞳を戻してしまった。広間に沙耶のすすり泣く声が静かに
    反響していた……


2017.3.4
まさか四人も発狂するとは……
そのため、殆ど西園寺さんの一人芝居です。
内心、恥ずかしいと思っているのかな。

r  n

Café Grace
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