お願いして頂きました。
中嶋さんらしい、
甘く意地悪に誘う表情に想像力を刺激されます。
厚意に感謝を籠めて、
猫丸様へ小品『余香』を捧げます。


余香

31 January 2009   Dedicated to N


 応接室のドアが閉まった瞬間、ほっと啓太は息を吐いた。
 生徒会は学園内の自治を任されているので来客自体は珍しくなかった。生徒会室の隣には専用の応接室があり、そこには直線的でシンプルなデザインの薄茶色のソファ・セットが置いてある。大抵の場合、中嶋一人で事は足りた。啓太は客にコーヒーを出した後は中嶋の隣の肘掛け椅子に腰を下ろして静かに話を聞いているだけ。しかし、今日はそこに七条が座っていた。用件が会計部の領域にまで及ぶと予めわかっていたから手間を省くために七条も同席することになった。同じ部屋の空気さえ吸いたくないほど互いを毛嫌いしている二人が、まるで旧知の間柄の様に手際良く話を纏めてゆく。その姿はとても洗練され、堂々として誇らしかった。
 話が終わって客を送り出した啓太は嬉しそうに二人を振り返った。これを機に少しは歩み寄ることが出来たかも、と淡い期待を抱いてみる……が、中嶋と七条は視界にさえ相手の姿を入れたくないと言わんばかりに視線を背けていた。
(やっぱり気長にいくしかないか)
 啓太は密かに苦笑した。七条が立ち上がった。
「伊藤君、僕もこれで失礼しますね」
「あ……待って下さい、七条さん」
 慌てて啓太は引き止めた。はい、と七条の動きが止まる。
「お茶でも飲んでいきませんか? 貰い物のお菓子があるんです。直ぐ用意しますから」
 そう言うと、啓太は返事も聞かずにカップを回収して部屋から出て行ってしまった。
 暫くして、トレイに三人分の新しい飲み物と白い箱を載せた啓太が戻って来た。座っている七条に、どうぞ、と紅茶を置く。中嶋にはコーヒーを。そして、箱の蓋をそっと開けた。
「おや、バウムクーヘンですね」
「はい、先週のお客さんからのお土産なんですが、焼き立てより一週間ほど経った頃が一番美味しいそうです。今日辺りが丁度良いはずなんですけど」
「ああ、素敵な香りですね」
「はい」
 啓太は明るく頷くと、丁寧にバウムクーヘンを切り分けた。甘いものは食べない中嶋にも小さな欠片を一つ。最後は自分で食べることになるが、気分だけでも一緒にと必ずいつもそうしていた。啓太は二人の向かい側のソファに座ると、早速、綺麗な年輪にフォークを入れた。一切れ食べて、しっとりとした食感と香ばしい香りにほろりと頬が綻ぶ。
「あっ、美味しい!」
「ええ、本当に」
 無邪気な笑顔の啓太と甘い菓子に七条からも微笑が零れた。啓太は嬉しそうに中嶋に言った。
「中嶋さんも食べてみて下さい。これ、凄く美味しいですから」
「……」
 中嶋はその声を綺麗に無視すると、無言でコーヒーを口に運んだ。
 七条の表情が凍った。本当に人の好意を無にする人ですね。いつもなら、ここから舌戦に突入するだろう。しかし、なぜか今は言葉が出なかった。七条はソーサーを取って、ゆっくりと紅茶のカップに手を掛けた。
 応接室はバウムクーヘンの甘い香りに満ちていた。
 幸せそうにそれを食べる啓太を七条は静かに見つめた。胸の奥がほんのりと温かくなり、どこまでも穏やかに凪いでゆく……隣に中嶋がいるにもかかわらず。今までにもこういう打ち合わせは何度かあったが、今日ほど気持ち良く円滑に進んだことはなかった。ただそこに啓太がいるだけで、中嶋との不協和音が美しい旋律に変わる。まるで自由に空を舞う蝶の様に動き易かった。
 認めたくはありませんが、と七条は思った。やはり自分達は同族らしい。
(ですが、この場にはまだ一つ欠けているものがあります)
 不意に啓太が声を掛けた。
「七条さん、このバウムクーヘン、半分、会計室に持って行きませんか? 俺一人じゃとても食べ切れそうにありませんから」
「そうですね……結構な量がありますし、では、お言葉に甘えて」
 柔らかく答えた七条の背中で小さな黒い翼がはためいた。啓太は全くそれに気づかず、バウムクーヘンを半分に切り始めた。
「伊藤君とは好みも似ているので嬉しいです。幾ら美味しいお菓子でも一人で食べるのは何だか味気ないですから」
「そうですね……やっぱり二人で食べた方がずっと美味しいです」
「なら、これからは伊藤君が僕と付き合ってくれますか?」
「……えっ!?」
 啓太は軽く目を瞬いた。
(今、何て言ったのかな、七条さん……僕と? それとも、僕に? 俺、切るのに夢中で良く聞いてなかった……)
「……!」
 コーヒーを飲んでいた中嶋の動きが僅かに止まった。
 三人で奏でる空間の心地良さに静かに浸っていたが、あからさまな七条の挑発に一瞬で体温が下がる。普段なら、迷うことなくあの薄ら寒い仮面を引き剥がしてやっただろう。しかし、なぜか今は言葉が出なかった。先ほどの啓太の声が頭を過ぎる。
『……二人で食べた方がずっと美味しいです……』
「……」
 日頃から啓太がそう思っているのは知っていた。中嶋も、それに付き合っても良いとは考えていた……いつか、気が向いたら。だから、この場合、七条が何を言おうと中嶋には全く関係なかった。ただ、この賽を投げたのは自分だと七条に取られるのが気に入らない。最初から蚊帳の外にいた奴に……
 張り詰めた空気が漂う中、カップを置く音が小さく響いた。
(だが、奴も偽りの優越感に浸るほど馬鹿ではない。つまり、これは杞憂……結局、総ては俺の意思次第か……)
 密かに中嶋は心中の争いに終止符を打った。そして、フォークへと指を伸ばした……
「中嶋さん……!」
 パッと啓太の表情が華やいだ。おや、と七条が驚いた様な声を上げた。
「どうやら伊藤君には付き合ってくれる人がいますね。でも、たまには僕とも一緒に食べましょうね」
「あっ、はい」
 嬉しそうに頷く啓太に、約束ですよ、と七条は小さくウインクした。

 七条が会計室へ戻ると、中嶋は内ポケットから煙草を取り出した。室内も口の中も甘い匂いが満ちて胸焼けしそうだった。今まで吸わずに待っていたのは啓太が食べていたから。ただそれだけ……
 その仕草に気づいた啓太はソファから立ち上がった。やっぱり中嶋さんって優しいよな、とほくそ笑みながら、窓を開けようと足を踏み出す。
「わっ……!」
 テーブルの脚に躓いて身体が大きく傾いた。ぶつかる! 床との衝突に備え、啓太はキュッと瞼を閉じた。しかし―――……
「こんな処で転ぶな」
 頭上から嘆息混じりの低い声が聞こえた。ハッと目を開けると、啓太は身を乗り出した中嶋の腕に受け止められていた。
「あ……有難うございます、中嶋さん」
 啓太は恥ずかしそうに頬を染め……あっ、と小さな声を発した。
 中嶋のジャケットのボタンが一つなくなっていた。恐らく倒れそうになった啓太が無意識に引っ張り、切れてしまったのだろう。わわっと啓太は慌てた。どこに飛んだんだろう。キョロキョロと足元を見回した。すると、中嶋が窓の近くから何かを拾い上げた。
「す、すいません、中嶋さん! 俺、直ぐつけますから! あっ、取り敢えず、脱いで待ってて下さい!」
 啓太は急いで隣の生徒会室に携帯用の裁縫セットを取りに行った。それを握り締め、再び応接室のドアを開ける……!
「中嶋さん、ジャケッ、ト……」
 しかし、その声は途中で霧散してしまった。
 中嶋は脱いだジャケットを肘掛け椅子の背に放り投げ、自分はソファに座って煙草を吸っていた。しかも、なぜかネクタイを解き、ベストとシャツのボタンまで外している。一瞬、啓太は状況が理解出来なかった。
「あ、の……中嶋さん……?」
「お前が脱げと言ったから、その言葉に従っただけだ」
 淡々とした口調で中嶋が答えた。
「俺、別にそんなつもりじゃ……」
 啓太は小さく口籠もった……が、乱れた服の下から覗く冷たく白い肌に目が釘づけになってしまう。中嶋の均整の取れた身体はいつも禁欲的な線を保っているが、なぜ、こんなにも人の情欲をかき立てるのだろう。それとも、そんなことを考えるのは自分だけだろうか……そこに抱かれる歓びを既に知っているから。熱に浮かされそうな頭で、ぼんやりと啓太はそんなことを思った。それでも、まだボタンをつけなければという意識は残っていた。ジャケットの方へ歩を進める……
「啓太」
「……!」
 ハッと啓太は立ち止まった。
 中嶋が啓太に向けて、ゆっくりと掌を広げた。そこには小さな金ボタンが乗っていた。啓太はそれをじっと凝視した。あれを受け取って早くジャケットにつけないと。でも、あの手は……まるで俺を誘ってる様に見える……
「……」
 ふらふらと啓太は中嶋に惹き寄せられた。近づくにつれ、頭の芯が痺れるほどに甘い空気の密度が濃くなってゆく。ポトリと裁縫セットが床に落ちた。もう何も考えられなかった、中嶋のこと以外は……
 啓太はソファに膝をつき、左手を伸ばした。そして、内なる衝動に駆られるまま……中嶋に口づけた。
「……良い顔だ」
 クッと中嶋の喉が鳴った。
「中嶋さん……」
 ほうっと啓太は嘆息した。中嶋が不敵な微笑を浮かべて囁いた。
「どうした? もっといやらしい顔で俺を煽ってみせろ、啓太」
「そんな、俺……あっ……!」
 理性が戻り掛けた啓太の腰を中嶋が軽く撫で下ろした。背筋を走る淫らな感覚に反射的に恋人の肩に縋る。
「言ったはずだ、啓太……お前はただ俺だけを感じていれば良い」
「はい、中嶋さん……」
 蕩けた顔で啓太は小さく頷いた。
 再び降ってくる口唇を受けながら、中嶋は静かに啓太を抱き寄せた。紫煙でも消せそうにない、この甘い残り香を心ゆくまで堪能するために……



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