多大な厚意と
いつも素敵なイラストに感謝を籠めて
猫丸様へ小品『初恋』を捧げます。


初恋

24 April 2010   Dedicated to N


 生徒会室に戻って来た中嶋は無言で煙草に火を点けた。ドアに軽くもたれ掛かって、苦い煙を胸の奥まで深く吸い込む。自分がこれほど動揺するとは全く思ってもいなかった。啓太が初恋の人に夢中になっている……たかがそんな噂一つで。
 確かに最近の啓太は様子がおかしかった。上の空でぼんやり宙を眺めていたり、不意に大きなため息をついたり……それはまさに恋する人の姿そのものだった。
 これまで啓太の恋愛遍歴を聞いたことはない。そんなものに興味もなかった。ここにいる啓太が愛しているのが中嶋英明という男ならそれで良い……ずっと、そう思っていた。しかし、どうやらそれは間違っていたらしい。現に今、啓太は初恋という名の亡霊に憑りつかれている。
「くっ……」
 心が凍りつく痛みに中嶋は口唇を噛み締めた。
 こんなことになるくらいなら、いっそその前に総て奪ってしまえば良かった。考える自由すら与えず、身も心も一分の隙もないほど自分という存在で埋め尽くしてしまえば良かった。そうすれば、もう啓太はどこにも行かない。どこにも……行けない。
(お前は俺のものだと言ったはずだ。だが、もし、それを忘れたのなら――……)
 中嶋は煙草を床に落とすと、それを靴の先できつく踏みつけた。

「失礼しま……あれ?」
 放課後、いつもの様に生徒会室に来た啓太はドアを閉めようとして足元に吸殻が落ちているのに気がついた。
(給湯室に灰皿を洗いに行く途中で零れたのかな。良かった、見つけたのが俺で)
 注意深い中嶋にしては珍しいミスだと思いながら、啓太は片膝をついて吸殻に手を伸ばした。すると、不意に大きな影に包まれた。見上げれば、目の前に中嶋が立っている。
「あっ、中嶋さん……気をつけて下さいね、これ」
 掌に乗せた吸殻を啓太は中嶋に示した。しかし、中嶋は無言のまま、ただ啓太を凝視していた。違和感を覚えた啓太は、どうしたんだろう、と急いで立ち上がった。その瞬間――……
「わっ……!」
 強い力で痛いほど左腕を引かれ、手近な机の上に乱暴に押し倒された。邪魔な書類を中嶋の右手が物憂げになぎ払う。驚いた啓太が上体を起こそうとすると、すかさず中嶋が伸し掛かってきた。
「中嶋さん、一体、何を……!」
「この状態で何をするか、お前にわからないはずがないだろう?」
 中嶋が喉の奥で低く笑った。啓太は小さく息を呑んだ。
 そう……確かにわかっている。こうして脚を開いて中嶋の身体を受け止めているのだから。どんなときも中嶋に抱かれるのは決して嫌ではない……が、なぜ、この人はいつもこんなに自分勝手なのだろう。期待と羞恥で混乱しながら、啓太は中嶋を見つめた。いきなり激しい熱で覆われる俺の気持ちを少しは考えたことがあるんだろうか。それとも、恋人なら何をしても許されると思ってるんだろうか……
(中嶋さんは好きだけど……でも、だからって……)
 ささやかな抵抗として啓太は中嶋から顔を逸らした。
「あっ……!」
 開け放したままのドアに、さっと啓太は蒼ざめた。しかし、すぐさま冷たい指が顎を捉え、その視線を引き戻す。
「な、中嶋さん、ドアがっ……!」
「そんなことは、お前が気にする必要はない」
「でもっ……! もし、誰かが廊下を通ったら、どうするんですか!」
 必死にもがく啓太を見て中嶋が面白そうに表情を歪めた。
「観客がいる方がお前も楽しめるだろう、啓太」
「なっ……!」
 衝撃(ショック)のあまり啓太は目眩がした。我知らず、涙が滲んでくる。
「どう、し……っ……」
 口唇が震えて巧く言葉が出なかった。啓太は思い切り中嶋を突き飛ばすと、まだ握り締めていた吸殻を顔に向かって叩きつけた。そして、痛そうに瞳を伏せて無言で生徒会室を飛び出した。
「……」
 中嶋は啓太の去った机に軽く腰掛け、苛々と乱れた髪をかき上げた。
(どうしてだと……? それは俺の台詞だ。初恋相手に現を抜かすお前を責めて何が悪い)
 足元に目を落とすと、廊下から吹き込む風が散乱する書類を楽しそうに弄んでいた。ちっ、と中嶋は短く舌打ちした。
 傷ついたのは明らかに自分の方なのに、なぜ、こんなにも罪悪感に苛まれるのか。実らなかった初恋などさっさと忘れろ。素直にそう言って抱き締めれば良かったのだろうか。あんな顔で泣かれるくらいなら、つまらない意地を張らずに……啓太を愛しているから。
 ふっ、と中嶋は自嘲した。
 今頃になって漸くわかった。たとえ、どんな不様な格好になろうとも、きちんと言葉で問い質すべきだった。少なくとも啓太をあんなふうに責めるべきではなかった……
 中嶋は無言で膝を折ると、一枚ずつ書類を拾い始めた。
 自らの過ちを認める謙虚さは持っているつもりだった。問題は、その心をどうやって示せば良いのか。そうした経験は殆どないので、中嶋には全くわからなかった。答えを出せないまま、片づけが一通り終わった頃、小さなノックと共に滝が入って来た。
「失礼しま~す。副会長さんと啓太にお届けもんで~す」
 滝は机の上に木箱と、それより少し小さい白い箱を置いた。その両方から同じ甘い匂いが漂ってくる。好奇心を抑えられないのか、滝が面白そうに尋ねた。
「これ、二つとも苺や。啓太はわかるけど、副会長さんはいつから甘党になったんや?」
「滝、俺が甘いものを――……」
 不機嫌に言い掛けてハッと中嶋は思い出した……先週、仕事の合間に啓太から聞いた真っ白な苺の話を。品種名は確か……初恋の香り。
(そういうことか)
 あまりにおかしくて中嶋は声を上げて笑いそうになった。
 啓太が恋焦がれている初恋の人とは、この白苺のことだった。あの日、密かにネットで注文した中嶋は、まさか啓太も同じ様に取り寄せているとは思いもしなかった。そんな時間はなかったはずだから。仕事が終わると、直ぐに二人分の外泊届けを出して……
 しかし、今にして思えば、啓太の様子が変わったのはその翌日からだった。苺好きな啓太は今日まで一日千秋の思いでいただろう。それを自分が勝手に誤解して……責めた。
(ふっ、この俺が苺に踊らされるとはな)
 中嶋は小さく口の端を上げると、ご苦労だった、と三枚の学食チケットを差し出した。えっ、と滝が大きく目を瞠った。
(こん人が礼を言った上にチップまでくれるなんて……! 絶対、明日は雨や! 雨が降る!)
 そう叫びたい衝動をグッと堪えて、滝は商売人らしい笑顔で有り難くそれを頂戴した。
「まいどあり~、ほな、俺はこれで失礼しま~す」
 そうして足取りも軽やかに生徒会室を出て行った。中嶋は密かにため息をつくと、二人の苺の箱にそっと瞳を流した……

 啓太は屋上の柵に両肘をついて、沈む夕陽を一人静かに眺めていた。
(中嶋さんは素直になれないだけで本当は優しい人なんだって思ってた。でも、それは俺の勘違いだったのかな。もし、あのとき、俺が抵抗しなかったら……そうしたら、中嶋さんは本気で俺のこと……)
 また涙が浮かびそうになって、啓太は慌てて目を拭った。それでも中嶋を嫌いになれない自分が情けなくて、悔しくて……哀しかった。暗く俯いていると、背後から誰かが近づいて来る気配を感じた。しかし、啓太は振り向かなかった。彼の纏う空気だけでわかってしまったから。
「……っ……」
 キュッと啓太は目を瞑った。すると、右腕を掴まれて強引に身体を引き寄せられた。無理やり口唇を奪われ、反射的に拳を振り上げる……が、中嶋は啓太を身動き出来ないほどきつく抱き締め、そのまま、熱く口腔を貪った。
(またこうやって俺を誤魔化す……!)
 一瞬、啓太は中嶋に対して激しい怒りを覚えた。しかし、怒っているのに……もっときちんと怒るべきなのに、自分の心から抵抗する意思が徐々に消えてゆくのもはっきりと感じていた。あやす様に背中を撫でる中嶋の手がどこまでも優しいから。
「んっ……ふっ……」
 ずるいな、と啓太は思った。
 中嶋はいつも見えないところで密かに想いを告げてくる……こんなふうに。そして、中嶋の言動をきちんと紐解けば、それはいつも正しかった。これでは、もう俺は怒れなくなってしまう。貴方の心がもっと欲しくなり、貴方から片時も目を離せなくなって……貴方にまた新しい恋をする。
「ふ、あっ……中嶋、さ……んっ……」
 甘く蕩ける口づけに足元が覚束なくなった啓太は夢中で中嶋の胸にしがみついた。
(ああ、こんな苺みたいなキス、初めて……本当、苺みたいな……苺みたいな……苺……って、あれ?)
 啓太は微かに眉を寄せた。たとえではなく、本当に苺の味と香りがした。中嶋の口唇が静かに離れたので、それを追って啓太は薄っすらと瞼を開けた。
「どう、して……?」
 それだけで中嶋は啓太の意図を察して言った。
「今日、最初のキスだからな」
「……?」
 啓太は不思議そうに中嶋を見つめた。
「最近のファースト・キスは苺味らしい。だから、しただろう……初恋の香りが」
「えっ!? あっ、もしかして、これ……」
「……なかなか悪くない味と香りだ。だが、それで」
 すっと中嶋は顔を寄せた。啓太の耳元で低く囁く。
「お前が俺以外のものに現を抜かしても良いことにはならない」
「……っ……」
 啓太の背筋を艶めかしい感覚が駆け抜けた。同時に心の奥底から悦びが込み上げてくる。もしかして、中嶋さん、苺に嫉妬した……?
「ごめんなさい、中嶋さん……ごめんなさい」
 両手を広げて啓太は思い切り恋人に抱きついた。中嶋が少し目を細めた。
「とても謝っている様には見えないな」
「だって、俺、嬉しいんです。全然、思ってもいなかったから。まさか中嶋さんが苺に――……」
 その先は再び重ねられた口唇にかき消されてしまった。
 宵闇の迫る屋上に満ちる初恋の香り。それを知るのは夜空を彩る夕星(ゆうづつ)と……



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