昏れゆく春の宵霞の中、啓太は水面に映る自分の影を思い詰めた瞳で見つめていた。やがてそれはするすると浮かび上がる。啓太と全く同じ姿と声。もう一人の啓太は啓太を見て言った。
『思い出したんだね』
「……」
 啓太は無言で頷いた。
『なら、君の望みを教えて?』
「……わから、ないんだ……どう考えたら良いのか……」
『そっか……なら、初めから一緒に考えよう。ねえ、覚えてる? あの遠い夏の日、ここで俺達は分かれたんだ』
 もう一人の啓太は静かに空を見上げた。
 和希の祖父の研究室に迷い込んだ啓太は、そこで名もないある特殊なウィルスに感染してしまった。和希の祖父は啓太を助けるために完成直後のワクチンを使い、啓太は一命を取り留めた。しかし、それは表側から見た事実でしかなかった。
「……和希のお祖父さんは知らなかったんだ、俺が新しい宿主になったことを。だから、ワクチンは必要ないってことを……」
 消え入りそうな声で啓太は呟いた。今更、あのときのことで誰かを責めるつもりはなかった。あれは不幸な事故の様なものだから。しかし、もう一人の啓太はそうではなかった。
『それは言い訳にならないよ。お陰で、君は死ぬとこだった。ワクチンの副作用で、幼い君は一個の者としては存在出来ないほど生命の輝きを削り取られてしまった。生きるためには自らを二つに、君と俺に裂くしかなかった。でも、傷ついた魂では新たな宿主にはなれない。だから、俺は眠りについたんだ。既に同化した君の記憶や能力と共に、いつ来るとも知れない覚醒の刻(とき)まで』
「……覚醒の刻(とき)……」
 啓太はぼんやりと繰り返した。それは啓太が示す、啓太の望む路のことだった。そこにはいつも和希がいた。あの頃も……今も……
 もう一人の啓太が呆れた様に肩を竦めた。
『君はお人好し過ぎるよ。あの男は次期当主だよ? 彼らの宿主に対する執着がどれほどのものか、俺と記憶を共有する君にならわかるはずだ。研究を凍結したのは諦めたからじゃない。君のデータを収集するためだ。君の覚醒へ至る経緯をつぶさに観察して、次の機会を狙ってるんだ。あの日から君は彼らにとって最高のモルモットなんだよ。なのに、君はまだあの男を信じられるの?』
「……っ……!」
 一瞬、啓太の身体がビクッと痙攣した。
『鈴菱』が極秘に研究・保管していたウィルス。それは唯一の宿主に強大な力をもたらす反面、他は総て殺してしまう危険極まりない代物だった……が、そのリスクを考慮しても宿主の魅力はあまりある。だからこそ、半世紀以上にも渡って代々研究を重ねてきた。
 未覚醒とはいえ、生きた宿主である啓太を彼らが無造作に手放すはずがなかった。 恐らく啓太のプライバシーなど、ないに等しかっただろう。自分の全くあずかり知らぬところで、一切が曝け出され、観察されている。身体データ、家族構成、学校での成績、交友関係は勿論のこと、その日の行動、会話、食事の内容、果ては友達とした対戦ゲームの勝敗から入浴のときは右足から洗うことまで……彼らは余すところなく見ていたに違いない。学園での情報漏洩の際、啓太の資料の一部が流失したと和希から聞いたとき、漸くそのことに気がついた。そして、自分の置かれている状況の深刻さを認識して、生まれて初めて身の毛がよだつほどの恐怖を感じた。今まで何とかそれに堪えてこれたのは和希がいたから。和希が必ず護ってくれると啓太は信じていた。しかし、和希は宿主という言葉に反応した。それは和希もまた、その片棒を担いでいたことを意味していた……
(和希は知ってて、俺に……黙ってたんだ)
 衝撃(ショック)だった。
 啓太は今にも震え出しそうな身体を両手できつく抱き締めた。和希の行動には必ず理由がある。今は秘密にしていても後できちんと訳を説明してくれる。何度、自分にそう言い聞かせても、裏切られたという思いは勝手に和希への疑念を膨らませ、啓太を迷わした。信じたいのに、信じられない。MVP戦のときと同じ葛藤に再び啓太は苛まれていた。
 押し黙ったままの啓太に、もう一人の啓太は冷たく宣告した。
『いつの世も、宿主は常に一人。今、君の身体は新たな宿主として急速に変化している。さあ、啓太……覚醒の刻(とき)だ。君は決めなければならない、自分の路を。俺は、あの日、君を選んだんだから』
「……俺には出来ない」
 答える啓太の声が掠れた。もう一人の啓太は優しく微笑んだ。
『簡単なことだよ。ただ、君の望みを言えば良いんだ。たとえば、これまでの宿主は未来を読む力や強烈なカリスマ性を得て国を支配した。君の前の宿主もそれで敗戦国を一躍、世界征服寸前にまで導いたよ。君もそうする? ああ、そうか。君にはあの男がいるか。今の世を支配するのは武力だけではないからね。そういう意味ではあの男は最高のパートナーだよ。なら、君の望みはあの男を惹きつけ続ける魅力かな。あの男を虜にして、君の前に跪かせてみる?』
「……確かに俺は和希が好きだよ。でも、和希にはいつも本当の俺自身を見ていて欲しいんだ」
『それであの男が離れてしまったら? 今はお互い舞い上がってるから、そんなことが言えるんだよ。でも、いずれ必ずあの男は君を足手纏いに感じるときがくる。そうしたら、どんなに君が想ってても、あの男は君を捨てるよ』
「……和希はそんなことしない」
『どうしてそう言い切れるの?』
「だって、ずっと一緒にいるって約束したから。和希は約束は必ず守ってくれる。あんな子供のときの約束でさえ――……」
 不意に言葉が途切れた。
 MVP戦のときに朧に夢で見たことが、今は過去の記憶としてはっきり啓太の中に定着していた。大きな木の下で一人寂しそうに本を読んでいた和希。子供だった啓太の話を楽しそうに聞いていた和希。副作用に苦しむ啓太を辛そうに硝子の向こうから見つめていた和希。それから、恋と呼ぶにはあまりにも幼かったこの想い……
「僕も一緒に行く」
『えっ!?』
「和希との別れ際に俺が言った言葉だよ。和希は、それをずっと覚えてた。そして、ずっと待ってたんだ……俺がその約束を忘れてしまっても」
『それは君のせいじゃない。その頃の記憶は俺と共に眠ってたんだから』
「そんなの言い訳にならない。和希はあのときの約束をちゃんと守った。なのに、俺は再会しても和希を思い出しもしなかったんだ。傷ついたのは俺だけじゃない。俺も和希を傷つけてた。でも、和希は俺を信じて待っててくれたんだ……!」
 啓太の瞳から一すじの涙が零れ落ちた。
 自分がとても情けなかった。俺は何を迷ってたんだろう。和希を信じると言いながら、本心からは信じてなかった。だから、今頃になってボロが出るんだ……
「俺、やっとわかった。求めるだけでは駄目なんだ。それは子供の愛情だから。本当に相手と共にありたいなら、自分からも相手に与えなければいけないんだ。俺には、それが欠けてた」
『……やっぱり君は強いね』
「俺は強くない。強いのは和希の方だよ。俺は和希からそれを教わった。だから、もう迷わない。今度こそ、俺は本当に和希を信じる!」
『ふ~ん……なら、君達はお似合いかもね。あの男の君への想いにも偽りはないし。でなければ、たかが血が混じったくらいでここへは来られなかった。あの男はきっと誰を敵に回しても、最後まで君を護ってくれるよ』
「それはどういう――……」
 言い掛けて、ハッと啓太は息を呑んだ。
『鈴菱』の暗部とも言うべきウィルス。覚醒した啓太はその象徴であり、唯一の研究試料だった。密かに監視されていたとはいえ、これまでの様に自由に生活出来る保障がどこにあるのか。今後、拘束される可能性もある。和希が総てを知れば、全力で啓太を護ってくれるだろう。しかし、それは啓太といるためだけに学生をしている和希に今以上の負担を強いることだった。
(和希にそんなことはさせたくない。でも、俺は……!)
『……君はあの男の負担になりたくないんだろう?』
 もう一人の啓太が心を見透かした様に言った。
『なのに、あの男の傍にいたいなんて矛盾してるよ』
「……うん、自分でもそう思う。でも、和希は俺に約束してくれたんだ。ずっと一緒にいるって。俺といることで、きっと和希には和希にしかわからない苦悩があると思う。それを踏まえた上で和希が約束してくれたんだから、この矛盾は俺が抱えていかなければならないんだ。それに……」
『それに……?』
「俺だってまだまだ成長する。そうすれば、少しずつでもきっと和希の負担を減らすことが出来るよ」
 だろう、と啓太は笑った。その言葉は自信と言うよりも確信に近かった。もう一人の啓太が、君はとても純粋だね、と呟いた。本当に常に前向きな君らしいよ。そんな君だから、俺は幸せになって欲いんだ……
『人の心は移ろい易い。あの男も、いつ変わるかわからない。俺はそうして破滅していく人間を何人も見てきた。あの男も宿主の力を知ったら、自分のために君の気持ちを利用するかもしれない。そうなったら傷つくのは啓太、君なんだよ。君には、もっと楽な路もある。なのに、本当にこれで良いの? 覚醒したら、もう後戻りは出来ないんだよ』
「……心配してくれて有難う。でも、俺は和希を信じてるんだ」
 大きく頷いた啓太の瞳には強い意思が籠もっていた。その眩しいまでの輝きに、もう一人の啓太は目を奪われた。
(もう君に迷いはないんだね。そういえば、初めて逢ったときも君はそんな瞳をしてた。だから、俺は君を選んだんだ……)
『なら、君の望みは何?』
「……俺の望みは」
 ギュッと啓太は拳を握り締めた。
「和希と、ずっと一緒にいること!」
『……わかった』
 もう一人の啓太は、すっと右手を前に出した。啓太はそれに左手を合わせた。鏡に向き合う様に二人の姿が重なる。
『俺達は再び一つに還る。俺達が望む限り、俺達は同じ時間を生きる』
「和希と共に……」
 その瞬間、触れ合った掌から白い世界へ向かって閃光が迸った。たちまち泡沫は弾け、二人の啓太はその奔流の中に溶けていった……

「啓太っ!!」
 ガバッと和希は飛び起きた。薄暗い部屋。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。和希はゆっくりと辺りを見回した。ほどなく思考が現実に追いついた。和希は理事長室のソファーの上にいた。
(あれは夢、だったのか……?)
 和希は啓太の言葉を思い出した。
『……俺の血から新しい抗血清を作って……』
 そこには妙な説得力があった。しかも、啓太の言った宿主というのも引っ掛かる。和希は、かつて一度だけ同じ意味合いでその言葉が使われるのを聞いたことがあった。
 それは研究所長に就任した日だった。
 和希はウィルスや啓太の資料を引継ぐと同時にあることを言われた。もしも、宿主に覚醒の兆しが現れたら、直ちに本社へ連絡するように。宿主の確保は最優先事項である、と。しかし、その理由までは明かされなかった。
『……それでは納得出来ません……』
『……これは極一部の鈴菱の者のみが有する特殊情報だ。いかに直系血族とはいえ、お前はまだ若過ぎる……』
 無意識に和希は指先で膝をトントンと叩いた。
 和希の知るところでは、ウィルスは第二次大戦末期、ドイツで入手していた。恐らく細菌兵器に転用するつもりだったと思われるが、ワクチンの完成に至らないまま、終戦を迎えてしまった。そのためウィルスは表に出ることなく、密かにベル製薬の研究所へと引き継がれて現在に至っていた。
 そこで、ある疑問が生じる。
 なぜ、半世紀以上も続けてきた研究をワクチン完成と同時に凍結したのか。これほどの時間と資金を掛けて、生物特許すら取得しないのは営利企業としてはあり得ないことだった。そこには何か公には出来ない、したくない理由があるとしか考えられない。
(それが宿主ということか? だが、感染した啓太は保菌者であって宿主ではない。そもそも、ワクチンが完成しているのに、なぜ、『鈴菱』は未だ宿主に拘る?)
 左腕に刺さる点滴の針を、じっと和希は見つめた。通常、宿主が必要なのはワクチンが完成する前……抗体を取り出すため……
『……俺の血から抗血清を作らないと駄目なんだ! 俺が新しい宿主だから……』
 その瞬間、和希の頭に突拍子もない考えが閃いた。
(突然変異か!)
 和希の持っている資料には、ウィルスのプロテイン構造や遺伝子配列までは記載されていなかった。だが……もし、仮にウィルスが一定期間ごとに変異するとしたら。たとえば、インフルエンザ・ウィルスの様に。啓太に感染したウィルスが既に体内で突然変異を起こしているとしたら――……
 点滴のために捲った左袖を和希は更に押し上げた。二の腕の内側に内出血の赤い斑模様が浮き出ている。慌てて和希は立ち上がった。
「……っ……!」
 グラッと視界が揺れ、咄嗟に点滴スタンドにしがみつく。明らかに貧血が進行していた。
 最早、疑いようがなかった。夢の中で啓太が必死になって和希を還した意味が漸くわかった。一刻も早く新種用の抗血清を作って治療しなければ、手遅れになる……!
「くっ……!」
 和希は口唇を噛み締めた。そして、一歩ずつ……再び歩き始めた。


2007.11.23
漸く和希が復帰しました。
それなりに伏線は引いていたのですが、
結構、ファンタジーが入っています。
まあ、この世界自体がそうだから仕方ないかな。

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Café Grace
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