和希は肘掛け椅子にぐったりと寄り掛かって、ぼんやりベッドの啓太を眺めていた。その隣には和希のための簡易ベッドが用意されていたが、まだ横にはなれなかった。背後で白々と夜が明け始めている。やれることは総てやった。残るはラボに回した啓太の血液から、新たな抗血清が合成されるのを待つだけだった。
 あの後、更に何度か吐血した和希のシャツは至る処が赤黒く汚れていた。和希の症状は予想より遥かに早く進行した。このままでは持たないと判断した医師達の進言に従い、和希は啓太の血を輸血することにした。交差適合試験(クロスマッチ)の際に、理論的に説明は出来ないが、二人の血液には奇妙な親和性があるとわかった。それを利用すれば、一時的に症状の進行を緩めることが出来るかもしれない。和希が生きるにはその僅かな可能性に賭けるしか方法がなかった。しかし、それは重度の貧血の啓太から更に血液を採取することを意味した。啓太は採血とそれを補う輸血を繰り返したため、発熱と呼吸困難を引き起こしていた。人工呼吸器の音が静かな室内に響き渡る。いつか、どこかで見たのと同じ光景が再び和希の目の前で繰り広げられていた。
(最低だな、俺は……)
 ふっ、と和希は自嘲した。
「和希様」
 石塚が声を掛けた。
「……何だ?」
「伊藤君の足跡調査が終了しました。過去二週間、伊藤君は掠り傷一つしていません。和希様以外の者との性的関係、もしくは接触もありませんでした。よって、他への感染は皆無です」
「だから、そう言っただろう」
 物憂げに和希は呟いた。
「はい……では、セーフティ・モードは解除しますか?」
「……いや、まだ早い」
「何か気になることでも?」
「……」
 和希は無言で窓の外に瞳を流した。
 これほどの騒ぎが本社に知られない訳がなかった。こちらからの連絡がなくとも、向こうは既に事態を把握しているだろう。セーフティ・モードが解除されたら、すぐさま啓太の確保に押し寄せて来るのは目に見えていた。和希はここに立て籠もっていられる間に、ウィルスや宿主について更に詳細な情報が欲しかった。
「和希様、彼が意識を……!」
 医師が声を上げた。
 和希は、どこにそんな力が残っていたのかと思うほど勢い良く立ち上がった。よろめきながら、ベッドへ近づく。誰かの用意した椅子に座ると、直ぐに啓太の顔を覗き込んだ。
「啓太!」
「……和、希……」
 人工呼吸器のマスクを付けた啓太は心持ち顎を上げて朧な瞳で和希を見つめた。和希は啓太の手を両の掌でしっかりと包み込んだ。啓太が不快そうに微かに首を振った。どうやらマスクが邪魔で話し難いらしい。和希が傍にいた医師に目をやると、彼は小さく頷いてマスクを外した。
 啓太が消え入りそうな声で言った。
「……待ってて……くれ……たんだ……」
「ああ、啓太がそう言ったんだろう?」
「……うん」
 弱々しく啓太は頷いた。
「俺……和希に……話さない、と……いけない、こと……が、ある……でも、和希にだけ……聞いて……欲しいから……」
「わかった。人払いをするから少し待って」
 和希は石塚を振り返った。石塚は医師や技師達を引き連れ、急いで部屋を退出した。ほどなくして室内には和希と啓太の二人だけとなった。
「何、啓太?」
「……本当に……誰も、いない……?」
 熱に浮かされて良く見えないのか、啓太は不安そうに和希に尋ねた。ああ、と和希は答えた。すると、啓太は深く息を吸い込んだ。表情はかなり苦しそうだが、話そうとする意思が遥かにそれを凌駕している。
「……和希……あのウィルス、に……名前がない訳、知ってる……?」
「いや……なぜ、命名しないのか不思議には思っていたけれど、何か理由があるのか?」
「うん、あれは……宿主と……意思を、共有するんだ……」
「……!」
「名前がないのは、真っ白……つまり、まだ宿主が……見つかってないから……そして、一人だけ選ぶと……その人の望み、に……適した構造、に……自分と、宿主を……変化させる……」
「望みに適した構造?」
「……前の人は……絶大なカリスマ性で……国を、支配した……」
「宿主にそんな力が……」
(道理で、『鈴菱』がウィルスを手放さない訳だ。宿主の力を解明出来れば、国どころか世界を動かすことも容易い)
 和希は、じっと啓太を見つめた。啓太は新たな宿主になった。なら、啓太もどこか変化したんだろうか……?
「……和希……」
 啓太の瞳が揺れた。すっと透明な雫が頬を伝い落ちる。
「啓太?」
「ごめんね……」
「何を謝るんだ、啓太? これでは夢と逆だな」
 和希は涙の糸を指で優しく拭った。すると、啓太は和希の手をキュッと握り締めた。
「……ごめん、和希……でも、俺……和希と……ずっと一緒に……いたいから……」
「ああ、わかっている。俺も同じだよ。だから、約束しただろう、ずっと一緒にいるって。啓太こそ、俺がどんなに酷い人間でも俺の傍にいてくれるか? 俺は自分が助かるために啓太をこんな目に合わせて……」
「……俺は……和希を、信じてる……それに……俺の方が……もっと酷いこと……」
 言葉を濁すと、啓太は小さく顔を背けた。
 啓太が何を考えているのか和希には直ぐ見当がついた。啓太は宿主の力を知って『鈴菱』からウィルスを横取りしたと思っているのだろう。どんなときでも、啓太は相手の非ではなく自分を責めるから。和希は優しく言った。
「啓太は何も気にしなくて良いんだよ。『鈴菱』はそんなものに頼らなくても充分に成り立っていけるから。これでも、世界的規模で展開しているグループだからな」
「……和希は……世界が、欲しい?」
 再び啓太が和希の方を向いた。その瞳の奥に罪の色彩(いろ)がはっきり見える……が、それは啓太が背負うべきものではなかった。
(元はといえば、総て俺の責任なんだよ、啓太)
 和希は啓太の柔らかい髪をふわふわと撫でた。
「俺は啓太が一緒にいてくれるなら、それで充分だよ」
「……有難う……和、希……」
 啓太は嬉しそうに微笑んだ。しかし、和希がほっとした瞬間、啓太の呼吸が大きく乱れた。口唇が震え、胸痛に顔が歪む。まだ握っていた和希の手にギリギリと爪が食い込んだ。
「啓太っ!!」
 容態の急変に、和希は直ぐ携帯電話で恐らく隣室に待機している石塚を呼び出した。三度目のコール音と同時にドアが開き、医師達が仮眠室に雪崩れ込んで来た。
「失礼します、和希様!」
 医師は和希を押しのけ、啓太の上に屈み込んだ。すぐさま緊迫した声が響く。
「ショック状態です!」
「まずいな! 黄疸が出ている! 溶血を起こしているぞ!」
「バイタルは?」
「徐脈! 上は八十を切ってます!」
「ノルエピネフリンだ! 急げ!」
 和希は診療の邪魔にならない様に急いで脇へ退いた。石塚が慌しく和希の元へ駆け寄って来た。
「和希様、たった今、岡田より連絡が入りました」
「……岡田から?」
 啓太から目を離さないまま、和希は呟いた。
 和希のもう一人の秘書・岡田は本社との橋渡しを主な仕事としていた。普段の和希なら石塚の言葉だけでその意味に気づいただろうが、今は啓太のことで頭が一杯なのか、反応が鈍かった。そんな和希を石塚は心配そうに窺った。
「社長がヘリでこちらへ向かったそうです。間もなく到着します」
「父、が……!」
 和希は絶句した。石塚は頷いた。
「恐らく今回の件が本社に洩れたのかと……」
「くっ……!」
 ギリッと和希は口唇を噛み締めた。
『鈴菱』が今日の地位を築けたのは、事業家として類まれな才能を持つ現社長によるところが大きかった。いかに和希が有能でもそんな男と互角に渡り合うためには、啓太からの情報だけではまだ絶対的に量が足りない。セーフティ・モードは情報収集のための時間稼ぎも兼ねていたが、空から来られたら打つ手がなかった。
(父は宿主に並々ならぬ執着を示していた。ここで奪われたら、恐らく啓太は永遠に研究試料だ。そんなことには、絶対にさせない!)
「石塚」
「はい」
「啓太には誰も近づけさせるな」
「わかりました」
 石塚にこの場を任せると、和希は重い身体を引きずる様にして仮眠室を抜け出した。サーバー棟の屋上にはヘリポートがあった。本社からなら、そう時間も掛からないだろう。俺に連絡がないのは、こちらの行動は既に折込済みということか……
「……」
 和希は横目でエレベーターの表示を見やった。黄色いランプが屋上で止まっている。それが、するすると下へ動き始めた。
 ……ポン。
 柔らかい音と共にエレベーターの扉が開いた。そこには四人の男が乗っていた。白衣を着た医師らしい二人と、濃紺の背広を着た物腰の柔らかい秘書ふうの男、そして――……
「久しぶりだな、和希」
 暗灰色のダブル・ブレストの背広に身を包んだ、一際、強い気を放つ……和希より少し褪せた色彩(いろ)の髪をした男が一人。
「はい、社長」
 和希は小さく頭を下げた。



2008.1.4
漸く和希パパの登場です。
今までヘタレていた和希はここからが本番!
さあ、啓太のために頑張って~

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Café Grace
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