「何をやっているんだ、啓太?」
 朝、いつもの様に啓太の部屋に来た和希はピタッと入口で立ち止まった。鏡の前で四苦八苦していた啓太は恨めしそうな視線を和希に投げた。
「和希~、見てないで助けてよ」
「仕方ないな」
 和希は啓太の傍に行くと、首に絡みついていたネクタイを器用な指先で外してやった。啓太は漸く苦痛から解放されて、ほっと安堵の息をついた。
「もう一人で出来るはずだろう?」
「そう思ってたんだけどさ、暫くやらなかったら、元に戻ったみたいなんだ」
「……だな」
 クスッと和希は笑った。
 今日から啓太は再び登校することになった。和希は、せめてヘモグロビン濃度(Hb)が十三くらいまで回復してからでも遅くはないだろう、と猛反対したが、暇を持て余した啓太にとうとう押し切られてしまった。対外的には、啓太は風邪を拗らせて入院したことになっていた。成瀬が、ハニーの体調の変化に気づいてたのに僕は何もしてやれなかった、と大騒ぎしたので誰もそれに疑問を持たなかった。しかし、実は啓太はずっとサーバー棟内にいた。強度の貧血により心臓に大きな負担を掛けてしまったので、そこから動かすことが出来なかった。
 急を聞いて駆けつけた啓太の両親はそこが病院でないことに最初は不信感を抱いたが、対応した石塚や医師団から病状の説明を受けると、啓太は子供の頃にも田舎で同じ経験をしていたのを思い出して素直に納得した。そして、仮眠室がICU並みの設備と医療体制を整えていると知ると、一生徒のためにそこまでしてくれた学園と理事長に対して深い感謝の意まで表した。
 そこまでされると石塚も良心が咎めた。だから、せめて滞在している間は快適に過ごせるよう万全を尽くすことにした。
 まずは啓太の近くにいたいという両親の希望に沿って、あまり使われていない応接室の一つに簡易ベッドを運び入れ、臨時の宿泊部屋として明け渡した。食事も態々食堂まで出向かなくても済むよう石塚自身が二人の元まで運んだ。浴室は仮眠室にしかないので、それだげはどうにもならなかったが、二人は文句を言うどころか顔を見る度に礼を言った。お陰で、石塚は益々恐縮する羽目に陥ってしまった。
 啓太の容態は輸血後、二日目まではヘモグロビン濃度(Hb)の低下が見られたものの、以降は徐々に改善していった。それに伴い発熱や呼吸困難も治まったので、一週間も経つと表面的には今までとあまり変わらないまでに快復した。啓太の両親は息子の復調を確認すると、娘を長く一人にもしておけないので、と言って家へ帰って行った。結局、彼らは最後まで和希に会うことも、ウィルスの一件を知ることもなかった。
「……」
 和希はぼんやりと啓太を見つめた。
 ウィルスは啓太の体細胞と完全に同化した。その詳細な仕組みを解明するのはこれからだが、少なくとも二次感染の恐れがなくなったことは確かだった。自分を歩く細菌兵器の様に思っていた啓太はそれを聞くと大喜びした。しかし、和希はとてもそんな気にはなれなかった。
(次にウィルスが検出されるのは啓太が死んだとき……啓太は生きている間も、死んだ後も、『鈴菱』の道具として利用され続ける……)
「和希?」
「あっ、ごめん。きつかったか?」
「そうじゃないけど、もう良いよ」
「あ……そうだな」
 すっかり物思いに耽っていた和希はネクタイを結び終えたこともわからなかった。そっと手を離す。制服姿の啓太を見るのは久しぶりだった。またこうして一緒にいられるのが夢の様な気がした。
「もしかして、見惚れてるのか?」
 冗談めかしに啓太が言った。ああ、と和希は真剣に頷いた。
「綺麗だよ、啓太」
「……!」
 さっと啓太が赤くなった。小さく俯き、もじもじと呟く。
「真面目に……そんなこと言うなよ」
「……どうして?」
 和希は少し身を屈めて啓太の顔を覗き込んだ。
「照れるから?」
「……うん」
「でも、本当のことだから。一時は……もう駄目かと思った」
「なら、俺だって……」
 啓太は、そっと和希を見上げた。
 和希は新種用に合成した抗血清の点滴を受けると、四日で快復した。既にステージⅡへ移行していたので効果の程は微妙だったが、途中で啓太の血液を投与して肺からの軽い出血のみで進行を抑えられたことが幸いしたらしい。そうでなければ、危なかったかもしれない。医師達がそんな話をしているのを聞いたとき、啓太は胸が潰れそうだった。もし、本当に和希が死んでしまったら、絶対に自分を許せなかった。だから、またこうして一緒にいられるのが夢の様な気がした。
「和希……」
 啓太は熱い瞳で恋人を見つめた。最後に和希とキスをしたのはいつだろう、と思った。
 サーバー棟にいる間は常に周りに誰かいたので、とてもではないが出来なかった。昨夜、寮へ戻ったときにもしなかった。啓太を無事に送り届けると、今日はもう遅いから、と言って和希は直ぐ自分の部屋へ帰ってしまった。まだ本調子ではない啓太としても、そんな時間に和希に触れたら抑えが効かなくなりそうだったので、その心遣いが嬉しかった。でも、今なら……二人の気分も盛り上がり、窓から明るい陽が射し込んでいる今なら……
 しかし、和希はすっと目を逸らした。
「啓太、早く食堂へ行こう。皆が待っているから」
「あ……うん」
 啓太はコクンと頷いた。
(朝から何を考えてるんだよ、俺……)
 そして、和希と共に部屋を出た。

 食堂に啓太が現れると、そこはちょっとした興奮状態に陥った。真っ先に啓太に抱き着いてきたのは成瀬だった。
「ああ、ハニー、心配してたんだよ。十日も入院だなんて大変だったね。もう大丈夫なのかい?」
「はい、色々心配を掛けてしまいましたが、この通り、元気になりました」
「うん、そうみたいだね。良かった。本当に良かった」
「成瀬さん……」
「ハニーがいない間、僕がどんなに辛かったか、きっとハニーには想像も出来ないよ。もうどこにも行かないで、ハニー、ずっと僕の傍にいて……」
 成瀬の腕に一段と力が籠もった。勘の良い成瀬は何か気づいているのかもしれない。それはいつになく真剣な声だった。啓太は何も言えず、ただ成瀬に身を任せた。今は……そうすることしか出来なかった。しかし、いつまでも啓太を抱き締めている成瀬に業を煮やした滝が強引に二人の間に割って入った。
「由紀彦! いい加減、離れんかい!」
「あっ、酷いな、俊介、僕とハニーの中を引き裂くなんて」
「後がつかえてるんや。もうそのくらいにしとき! なあ、啓太もそう思うやろ?」
「あ……ははっ」
 曖昧に誤魔化す啓太に成瀬は優しく微笑み掛けた。滝がビシッと啓太を指差した。
「それにしてもな、お前、風邪で入院やなんて体力なさ過ぎや」
「……うん」
「よし! 今日から俺が鍛えてやる。まずは俺のサポートから始めよか」
「それってただのデリバリーじゃ……」
 呆れ顔で啓太が呟いたとき、滝、と堅苦しい声が聞こえた。
「げっ、寮長さん……おはようさん」
 滝は恐る恐る振り返った。いつの間にか、篠宮と岩井が真後ろに立っていた。篠宮が言った。
「伊藤、もう大丈夫なのか?」
「はい」
「そうか。良かったな」
「……本当に良かった、啓太」
「有難うございます、篠宮さん、岩井さん」
 啓太はペコリと頭を下げた。その隙に、これ幸いとばかりに滝はそそくさと立ち去ろうとした……が、直ぐ篠宮に捕まってしまった。
「待て、滝」
 昨日、自転車用のオイルを床に零しっ放しにしていた件について懇々と説教が始まった。なぜか岩井も一緒に怒られている。そんな相変わらずの光景に、思わず、啓太はクスッと笑ってしまった。
「何だ? 篠宮の奴、また朝から説教してんのかよ」
「あっ、王様、中嶋さん、おはようございます」
 啓太が明るい声で挨拶をした。丹羽がニカッと破顔した。
「おう、啓太! すっかり元気になったな」
「今日から復帰か、啓太?」
 中嶋が静かに尋ねた。
「はい、当分は半日だけの登校ですが、横になっていても退屈なだけなんで」
「そうか」
 ふっ、と中嶋は微笑んだ。あの、と啓太が呟いた。
「色々有難うございました。その……何か、大変だったみたいで……」
「お前が気にすることはない。丹羽などは、寧ろ、面白がっていたくらいだ」
「おい、ヒデ……って、まあ良いか。とにかく、啓太が無事に帰って来たんだからな」
 丹羽は大きな掌でくしゃくしゃと啓太の頭を撫でた。すると、西園寺がその甲をピシャリと叩いた。
「やめろ、丹羽、啓太が目を回す」
「大丈夫ですか、伊藤君?」
「あ……はい、七条さん」
 少しクラクラしながら、啓太は頷いた。まだかなりの貧血なので、こういうことをされると弱い。悪い、と丹羽は素直に謝った。
「少し痩せたな」
 西園寺が啓太の頬にそっと手を当てた。啓太は小さく微笑んだ。
「直ぐ元に戻りますよ。俺、食欲は旺盛ですから」
「では、もう少し体調が良くなったら、僕と一緒にケーキを食べに行きませんか? 美味しい苺のタルトのあるお店を見つけたんです」
「はい」
「あっ、七条、抜け駆けは駄目だよ。ハニーは僕とパンケーキを食べに行くんだから。ねっ、ハニー?」
 成瀬が再び啓太を取り戻した。西園寺がキッと成瀬を睨みつけた。
「乱暴に扱うな、成瀬! 当分、啓太は会計室で静かに過ごすことになっている!」
「ああ、そうでした。では、早速、何か素敵なものを取り寄せておきます」
 すかさず七条が態とらしく思い出した。丹羽が口を挟む。
「郁ちゃん、そんなのいつ決まったんだよ」
「今だ」
「割り込みは駄目だよ、西園寺」
 成瀬が首を横に振った。そうだ、そうだ、と丹羽が騒いだ。
「啓太は生徒会室の方が良いに決まってるからな」
「何を馬鹿なことを。あんな部屋で啓太がゆっくりと休めるものか。そういう台詞は仕事を総て終わらせてから言え」
 西園寺は腕を組み、勝ち誇った顔で言い放った。すると、丹羽の口元に不敵な微笑が浮かんだ。
「ふっ……やったぜ」
「何!? あれほどの量を一日で片づけたと言うのか!?」
「ああ、全部な。この俺が本気になれば、あのくらい訳ねえからな。じゃあ、そういうことで啓太は貰ってくぜ」
「何が、そういうことで、だ! 勝手に決めるな!」
「郁ちゃん、言ってることとやってることが矛盾してるぜ」
「う、煩い!」
 丹羽と西園寺は啓太を差し置いて午後の過ごし方について言い争いを始めた。成瀬はまだ腕の中に捉えていた啓太に優しく囁いた。
「ハニー、ここは落ち着かないから、どこか別の場所に行こうか?」
「成瀬君、抜け駆けは良くないと自分から言いましたよね?」
 七条が不穏な微笑を浮かべた。そうだったね、と成瀬は返した。
「でも、僕のことは気にしなくても良いよ。それより、西園寺を放っておいて大丈夫かい、七条?」
「郁のことなら心配はいりません。寧ろ、今、問題なのは貴方の方です。取り敢えず、伊藤君を放して貰いましょうか」
 今度は啓太を挟んで、成瀬と七条が火花を散らし出した。少し離れた場所から和希はその光景を黙って眺めていた。すると……
「お前はあれに加わらないのか? いつもなら、真っ先に入って行くだろう?」
 いつの間にか、中嶋が横に立っていた。
「……そうですね」
 気の抜けた声で和希は答えた。中嶋は啓太をじっと見つめた。
 啓太の感染したウィルスがどんなものかは掴めなかったが、最近、学園の警備に密かに多くの人間が加わった。防犯カメラの数も倍増した……まるで何かを監視するかの様に。それと啓太の一件は全く関係ないかもしれないが、和希の腑に落ちない態度に中嶋は鎌を掛けることにした。
「怖くなったのか?」
「……!」
 ハッと和希は息を呑んだ。中嶋が質問を繰り返す。
「急に警備体勢を強化したのはあいつのせいだろう。あいつに触れるのが怖くなったのか?」
「……はい」
 今にも消えそうな声で和希は答えた。
 一個の存在としては不安定な啓太に、自分の想いを押しつけて今度こそ本当に失ってしまうのが怖かった。こうして傍にいてくれるだけで良い。元々見ているだけのつもりだった。それが想いを通じ合わせることが出来たのだから、これ以上はもう何も望まない……何も望んではいけないんだ……
 ギュッと掌を握り締め、和希は自らをきつく戒めた。
「……そうか」
 ポツリと中嶋が呟いた。
「なら、啓太は俺が貰う」
「えっ!?」
 和希は、さっと隣へ目を走らせた。しかし、そこにはもう中嶋の姿はなかった。



2008.3.7
ほぼオールキャストです。
あまりに長く啓太が寝ていたので、
少し花を持たせてみました。

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Café Grace
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