「……っ……ん……」
 理事長室に書類を届けに来た啓太は、和希の腕に抱かれて口唇を重ねていた。
 一度、互いを失い掛けた恋人達は機会あるごとに瞳で、指で、声で、想いを伝え合っていた。本当は二人とも今直ぐにでもベッドへ行きたかったが、さすがにこの時間からそんなことは出来ない。だから、せめて口づけだけでもと深く浅く……また深くと重ねていた。
「……和、希……俺、そろそろ……」
 啓太は名残惜しそうに呟くと、小さく顔を背けた。
「待って、啓太」
「何、和希?」
「まだ光っているよ」
「えっ!? あ……本当だ」
 両手を見つめて、啓太は恥ずかしそうに笑った。気持ちが昂るとどうしても発光してしまう。啓太は大きく深呼吸した。すると、輪郭を取り巻いていた淡い光は小波の様に静かに消えていった。
「有難う、和希」
「ああ」
 和希はふわりと微笑んだ。啓太が躊躇いがちに尋ねた。
「……和希、今日は向こうに行かないのか?」
「研究所か? ああ、特にそんな予定はないな」
「なら……早く帰って来れる?」
 啓太の顔が今にも火が点きそうなほど赤くなった。和希はクスッと笑った。
「ああ、この仕事が終わったら直ぐ啓太の処に行くよ。それまで待っていてくれる?」
「うん」
 嬉しそうに啓太は頷いた。和希は腕の中の啓太を、もう一度、強く抱き締めた。耳元で甘く囁く。
「愛しているよ、啓太」
「うん、俺も」
 そして、啓太は生徒会室へと戻って行った。
 パタンとドアが閉まると、和希は自分の口唇にそっと指を押し当てた。胸が高鳴るのは啓太だけではない。和希もまた啓太に触れる度に身体が熱くなった。
(本当に今日は早く帰らないとな……でないと、俺の身が持たない)
 和希は密かに苦笑すると、再び書類に目を通し始めた。それは殆ど事務的な決済印を求めるものばかりだった。
 新しく着任した有能な副理事長のお陰で、学園内における和希の仕事はかなり楽になった。その分、ベル製薬研究所長としてより多く研究に携われる。三ヶ月前、Kウィルス研究の本拠地がここに移って以来、和希は頻繁に研究所へ足を運ぶようになっていた。
 Kウィルス。それが例のウィルスにつけられた名前だった。単純に啓太の頭文字を取って。嫌な呼び方だ、と和希は思った。Killer……殺人ウィルスとも受け取れる……
「……!」
 最後の書類を見た和希の目の色が変わった。
 それは研究所から上がってきた検査結果報告書だった。宿主は一個の存在としての揺らぎが大きい。これは和希の立てた仮説だったが、先日、その実証の一環として和希は啓太の固有振動数を調べた。
 固有振動数とは物体を振動させた際に検出される固有の周波数のことで、生物も物質である以上、特定の振動数を持っていた。人間の場合は凡そ100Hzから1kHzとされている。宿主が不安定な理由の一つは、共振現象と係わりがあるに違いない。外部から伝わった振動エネルギーが宿主の持つ固有振動数に近くて放出されなければ、その振幅はエネルギーに比例して増大してゆく。それが人の物質としての限界を越えたとき、宿主は崩壊するのではないか。まるで地震で大きく揺れた建物が耐え切れなくなって、終には崩れてゆくかの様に。和希はそう考えていた。
 その結果が誤差を修正して、漸く上がってきた。
 逸る気持ちを抑えて、和希は報告書を読み始めた。しかし、そこに書かれていたのは和希の予想を遥かに越えていた。
「……テラヘルツ光!? まさか……生体でそんなことがあり得るのか!?」
 啓太の固有振動数は異様なまでに高く、電磁波の域にまで到達していた。
 電磁波は周波数によって電波から光、放射線と様々に呼ばれ、分類されていた。つまり、電波も光も本質的には同じものといえた。テラヘルツ光とは超高周波の電波、または可視光よりもかなり低い周波数の光、もしくは電波と光の中間領域にある電磁波のことだった。そのため、テラヘルツ光は物体を透過する電波の特徴と、直進する光の性質の両方を兼ね備えていた。一見すると便利な特性を合わせ持っているが、電波とも光ともならないその曖昧さ故に人工的に発生させるのが困難で、電磁波の中では未だに研究が進んでいない分野だった。
「……」
 和希は報告書を置くと、背もたれに深く寄り掛かった。
 確かに思い当たる節はあった。電波や光は振動数に応じたエネルギーを持っている。気持ちが高まると光を発する啓太の身体……テラヘルツ光に感情エネルギーが加わり、それを可視光の領域にまで押し上げているとしたら。エネルギー観点からすると、テラヘルツ光は人の体温に近かった。それより少し周波数の高い遠赤外線は生体高分子――DNA――の固有振動数に近接しているため、そのエネルギーは吸収されて温度を上昇させる。発光した啓太は、いつも篝火の様に温かかった。
 和希の指先が落ち着かなげに肘掛を叩いた。トン、トン、トン、トン、トン……
 実際に啓太の身体を研究し始めて約一ヶ月半。Kウィルス研究への参加は啓太を護るために和希自らが望んだことだったが、啓太を試料の様に調べることに最初は酷く抵抗を感じた。啓太がその唯一の宿主である以上、それはやむを得ないことだと思ってもそう簡単に割り切れるものではない。しかし、新たな事実がわかってくるにつれ、和希の中に徐々に知的好奇心が芽生えてきた。もっと、もっと色々なことを調べてみたくなった。そして、和希が頼めば啓太はいつでも素直に頷いた。
『……うん、良いよ、和希……』
 もしかしたら、検査で多少は嫌な思いをさせたこともあったかもしれないが、啓太はその重要性をきちんと理解し、自ら進んで協力してくれた。
『……これは総て啓太のためだから……』
『……うん、わかってるよ、和希……』
『……愛しているよ、啓太……』
『……俺も愛してるよ、和希……』
(そうだ。これは総て啓太のためなんだ。俺は啓太の宿主としての力を利用したい訳ではない。ただ、これは啓太を護るために必要なことなんだ。俺は啓太を愛しているからこそ、宿主の何たるかをもっと良く知らなくてはならない……!)
 バッと和希は立ち上がった。後の仕事は石塚と加賀見で何とかなるだろう。啓太に早く帰ると約束したが、少し立ち寄るだけなら別に問題はない。
 やはり和希は今日も研究所へ行くことにした。

 サーバー棟を出た啓太は小さくため息をついた。明日の放課後、また研究所へ行くことになった。啓太も今や生徒会役員なので仕事があるが、これは自分に係わることなので断ることは出来なかった。
 最初の話では週に一度だった。週末に数時間。それが徐々に時間が長くなり、日にちが増えていった。先週からは殆ど毎日だった。俺達のことは気にするな、と丹羽や中嶋は言うが、内心は上辺ほど穏やかでないことは啓太も感じていた。
(和希が俺のために一生懸命なのはわかる……けど、そのために王様達の和希に対する印象が悪くなるのは嫌だな。最近、和希は忙しくて皆と殆ど話もしてないから、今夜は二人で王様の部屋へ遊びに行こうかな……でも……)
 啓太の顔が赤くなった。自分が本当は何を望んでいるのか、良くわかっていた。そんな時間があるくらいなら和希と――……
「あっ、伊藤君~!」
 突然、啓太は東屋へ続く小道沿いの温室にいた海野から声を掛けられた。海野は入口の処で、こっち来て~、と手招きしていた。啓太は慌てて考えを振り払うと、海野の元へ駆け寄った。
「どうしたんですか、海野先生?」
「丁度良いときに会えた。ねえ、ちょっと頼まれてくれないかな」
「何をですか?」
「もうじき七条君が会計室に生ける薔薇を取りに来るんだけど、僕、用事が出来ちゃったんだ。これで綺麗なのを適当に切っておいてくれる?」
「わかりました」
 啓太は黒い花鋏を受け取った。有難う。そう言うと、海野はどこかへパタパタと走って行った。啓太は代わりに温室へ入った。そこには赤と白の薔薇が無数に咲き誇っていた。
(凄い! 海野先生、こんなこともしてたんだ。でも、ここから綺麗なのって言われても……俺、どれを切れば良いかわからないよ)
 チョン、チョンと鋏を鳴らしながら、むせ返る様な薔薇の香りの中を啓太は物色し始めた。
(あっ、これ……)
 辺りを見回していた啓太は、ある一本の赤い薔薇の木の前で立ち止まった。それは些か蕾が多過ぎた。どうせ切るなら、間引きも兼ねた方が良いよな。そう思った啓太は一輪ずつ手に取ると、丁寧に鋏を入れていった。無意識に歌を口ずさむ。

 Sah ein Knab ein Röslein stehn,Röslein auf der Heiden……
 (子供が薔薇を見つけた。一本の野薔薇を……)


 だから、七条が温室の中に入って来た足音にも気づかなかった。
「……伊藤君」
「……!」
 ビクッと啓太は飛び上がった。さっと振り返り、七条が優しく微笑んでいるのを見ると、恥ずかしそうに呟いた。
「もう……脅かさないで下さい、七条さん」
「ふふっ、すみません。海野先生にお願いしていた薔薇を取りに来たんですが、どうやら伊藤君が代わりに切ってくれた様ですね」
「はい、海野先生、何か急用が入ったらしくて。あの……このくらいで良いですか?」
 持っていた薔薇の花束を啓太は差し出した。
「ええ、量も充分ですよ。ところで、海野先生にこの木を切るよう言われたんですか?」
「あっ、いえ……俺が勝手に決めたんです。ちょっと蕾が多いので。でも、もう遅かったみたいです。これじゃあ、来年は厳しいですね」
「そうですね。多分、この木だけ選定するのを忘れてしまったんでしょう。でも、伊藤君が切ってくれたお陰で、少しは咲いてくれるかもしれませんよ」
「だと嬉しいです」
 啓太はふわっと微笑んだ。そのとき、啓太の携帯電話が鳴った。
「あっ、王様だ。ちょっとすいません、七条さん……はい、伊藤です」
『啓太、早く戻って来い! 俺を中嶋に殺させる気か!』
「そんな大袈裟な……わかりました。直ぐ戻ります」
 ピッと電話を切った。すいません、と啓太は七条を見上げた。
「相変わらず、あちらは忙しい様ですね」
 七条の表情が微かに冷たくなった。丹羽の声が聞こえたに違いない。なら、中嶋の名前も……
 あ……はい、と啓太は頷いた。すると、七条はまた穏やかな微笑を浮かべた。
「そうですか。なら、伊藤君はもう行って下さい。これは僕が海野先生に返しておきますから」
 七条は啓太の手から花鋏を抜き取った。
「えっ!? 良いんですか? 有難うございます」
「その代わり、たまには会計室に遊びに来て下さいね」
「わかりました。それじゃあ、俺、お先に失礼します」
 ペコリと頭を下げると、啓太は大急ぎで温室から出て行った。その後姿を見送りながら、七条がポツリと呟いた。
「……Rの発音……見事でしたね。舌先ではなく喉で……まるで本物のドイツ人の様でした。一体、どこで覚えたんでしょうか? それに」
 啓太の切った薔薇の木を見つめる。
「いつから薔薇に詳しくなったんでしょうね。花の選定、切り方……どれも完璧です」
 そして、七条は入口にある道具箱に花鋏を入れると、静かに温室のドアを閉めた。


  補足  1kHz=10Hz 1THz=1012Hz



2008.8.22
今回は前作以上に理事長ではない和希ですが、
やはり最後はハッピー・エンドです。
啓太が歌ったのは
シューベルト作曲『野ばら』の冒頭です。

r  n

Café Grace
inserted by FC2 system