啓太は一人で校舎へ続く石畳の上を歩いていた。その隣に和希はいない。昨日の採血ミスで午後の予定が狂ってしまい、その遅れを取り戻すために今日は朝から研究所へ向かわなければならなかった。ごめん、啓太……と言って、和希は慌しく寮を出て行った。仕方ないよな、仕事なんだから。頭ではわかっているが、やはり寂しい。啓太の足取りは自然と重くなっていた。
「よう、啓太」
「あ……おはようございます、王様、中嶋さん」
  啓太は小さく微笑んだ。
「何だ? 浮かねえ顔だな。遠藤と喧嘩でもしたか?」
「いえ……そういう訳じゃ……」
  丹羽の問いに啓太は首を振った。すると、中嶋が面白そうに口の端を上げた
「なら、単なる寝不足か?」
「な、中嶋さん!」
  啓太は真っ赤になって中嶋を見つめた。違います! そう言おうとしたとき――……
「……っ!!」
  突然、誰かが勢い良く背中に衝突した。
  よろめいた啓太はキッと後ろを睨みつけると、左手で相手のネクタイを素早く鷲掴みにした。乱暴に斜め前へ引き落とし、彼が体勢を崩したところで持っていた鞄を高々と振りかざす……!
「啓太!」
  ガシッと丹羽がその腕を押さえた。すかさず中嶋が二人の間に割って入った。
「気をつけろ」
「す、すいません!」
  中嶋に威圧され、相手の生徒はあたふたとそこから逃げ出した。啓太の目がそれを刺す様に凝視する。丹羽は彼の姿が見えなくなるまで、ずっと啓太を放さなかった。
「知り合いか?」
  丹羽は慎重に手を下ろした。啓太が不快そうに顔を歪めた。
「いえ……ただ、あんな人のせいで、この身体に傷でもつけられたら割に合いませんから」
「……」
  始業開始五分前の予鈴が鳴った。先月、新しいチャイムに変わって音色が少し綺麗になっている。
  ……キ~ン、コ~ン、カ~ン、コ~ン。
「あ……それじゃ、俺、お先に失礼します」
  啓太はふわっと微笑むと、二人と分かれて校舎の中へ入って行った。そんな啓太を丹羽と中嶋は訝しそうに見送った。やがて丹羽がポツリと呟いた。
「俺が止めなかったら、あいつをどうする気だったんだ、啓太?」

  その日の授業は実に退屈極まりないものだった。
  覚醒を機に啓太は学力が大きく伸びた。これまでの啓太は不活性ウィルスの影響で頭の奥に、謂わば霞がかかった状態だった。そのために外部からの知見は制御されてしまったが、代わりに幼い子供のみが持つ純粋さを護ることが出来た。その曇りなき瞳は物事の本質を真っ直ぐ捉える。本質とは即ち、真理。それを知る啓太の意思は自然に磨かれ、更に強く輝いていった。その霧が晴れたので、啓太は乾いた土に水が滲み込む様に知識を吸収し始めた。
  和希は直ぐそれに気づき、早速、ハード・クラスへの変更を勧めた……が、啓太は首を縦に振らなかった。このクラスで出来た友達を大切にしたいから。人との繋がりをいつも大事にしてきたからこそ今の俺があるんだ、と啓太は言った。それに、啓太が動けば和希も動く。まだ入学して半年ほどしか経たないのに、いきなり二人が上に行ったらおかしいだろう、と啓太が指摘すると、まあな、と和希は笑った。
(でも、それにも限度がある!)
  啓太は苛々と机を指で叩いた。ただ英文を読んで訳すのに、どうしてこんなに時間が掛かるんだ! 全く……付き合う身にもなって欲しい!
  はあ、と大きなため息が出た。この苦行があと三時間も続くのかと思うと嫌になってきた。あまりに不満が鬱積したせいか、少し頭が重い。先生、と啓太は手を上げた。
「気分が悪いので保健室に行かせて下さい」
  そして、教師の返事も聞かずに、さっさと教室から出て行ってしまった。

  啓太は真っ直ぐ東屋へと向かった。保健室で薬品の匂いは嗅ぎたくないので少し肌寒いかもしれないが、昼までそこで休みがてら一人静かに過ごすつもりだった。
  木で作られたベンチに腰を下ろして、啓太は辺りを見回した。やはり西園寺お気に入りの場所だけはある。ここは人工物が何も見えず、ただ綺麗な緑に囲まれているので居心地が良かった。思わず、啓太から微笑が零れた。そのとき、ポケットの中の携帯電話がメールの着信を伝えた。和希からだった。

       四時限目が終わったら、早退して研究所へ来てくれないか?

「……っ!!」
  それを見た途端、啓太の胸に割れる様な痛みが走った。前のめりに崩れそうになるのを、足に力を入れて辛うじて踏み止まる。
(和希にとって、俺は何……?)
  啓太はなるべく自然に身を起こすと、柱にもたれて瞼を閉じた。いつもの、あの纏わりつく様な嫌な視線は感じるが、近寄って来る気配はなかった。
「……くっ……っ……」
  ゆっくりと深く呼吸を繰り返していると、胸痛は汐が引く様に散っていった。
  しかし、同時に頭の奥がざわつき始めた。沈黙が破られ、その向こうで幾つもの言語が交錯する。それはKウィルスが今までに同化した意思が持っていた記憶だった。一体、このウィルスはいつから存在していたのか。古いものは霞んでいて啓太にも良くわからないが、時代が新しくなるほど鮮明に思い出せた。先代が好んだワーグナーの楽曲が今にも聞こえてきそうな気がする……
「……啓太」
  誰かが呼んだ。ぼんやりと啓太は思った。煩い……
「おい、啓太」
  今度は強く肩を揺すられた。啓太は顔を顰めた。触らないで! 一人にして!
”Berühren Sie mich nicht! Lassen Sie mich in Ruhe!”
「啓太」
「……!」
  ハッと啓太は目を開けた。すると、直ぐそこに丹羽と西園寺の顔があった。二人とも驚きの色彩(いろ)を浮かべている。
「啓太、お前……」
「臣から聞いてはいたが……啓太、どこでドイツ語を習った?」
「……何のことですか、西園寺さん?」
  ふわっと啓太は微笑んだ。西園寺が冷たく啓太を見つめた。
「とぼける気か?」
「今、ドイツ語を話しただろう、啓太」
  丹羽がはっきりと指摘した。しかし、啓太は軽く肩を竦めただけだった。
「さあ、俺には何のことだかさっぱりわかりません。多分、ただの寝言ですよ。最近、シューベルトのドイツ・リートを聞いてますから」
「あんな歌詞は聴いたことがない」
「西園寺さんは、ドイツ語は英語ほど堪能ではありませんよね?」
  コクンと啓太は首を傾げた。ああ、と西園寺は頷いた。
「だが、挨拶や簡単な会話程度ならわかる」
  すると、啓太がすっと目を眇めた。
「その程度の知識で人を疑うのはやめて下さい。不愉快です」
  啓太は立ち上がった。二人の間を通り抜け、そうそう、と丹羽を振り返る。
「王様、俺を起こすときはもっと静かにお願いします。俺は睡眠を妨害されるのが大嫌いなんです」
  そして、くるりと踵を返すと、啓太は東屋を後にした。丹羽がその背中を小さく顎で指した。
「なっ、俺の言った通りだろう? 全然、啓太らしくねえ」
「ああ、まるで別人だ」
  西園寺は携帯電話を取り出し、和希の番号を押した。暫くすると、相手が出た。
「……遠藤か?」
『珍しいですね。西園寺さんが掛けてくるなんて』
「ああ、啓太のことで少し訊きたいことがある」
『良いですよ。但し、答えられる範囲になりますが』
  和希の口調が僅かに硬くなった。構わない、と西園寺は言った。
「啓太は、いつドイツ語を習った? いや、あの発音はそういうレベルではない。臣の言う通り、まるでネイティヴだ。それに、性格まで変わった。以前よりも攻撃的になっている。それについて、お前に何か心当たりはないか?」
『性格が変わった? まさか……!』
  通話口の向こうで和希が絶句した。
「あるのか、遠――……」
『西園寺さん! 急いで啓太を捕まえて下さい! 今、啓太の現在位置を連絡させます! 俺が到着するまで、啓太をなるべく人目に触れない場所に引き留めておいて下さい! お願いします!』
  そう言うと、和希は一方的に電話を切ってしまった。さっと西園寺が丹羽を見上げた。
「手分けして啓太を探す」
「よし! 郁ちゃんは中嶋と七条に連絡してくれ!」
  その声が西園寺の耳に届く前に、丹羽は既に走り出していた。

  丹羽達から充分に離れた校舎の裏まで来ると、啓太はふらふらと壁にもたれた。片手でこめかみを押さえる。頭の中が無数の記憶で混沌とし、酷く気分が悪かった。気を抜いたら、その渦に呑み込まれて二度と戻って来れない気がする……
「和希……」
  啓太は恋人の名前を呼んだ。すると、和希の声が聞こえた。
『……愛しているよ、啓太……』
「うん、俺も……」
『……愛しているよ……』
「……うん……」
『……愛している……』
「……」
『……愛している……』
  和希は湯水の様に囁いた。愛している、と。何度も、何度も……何度も。
「……っ……」
  啓太の瞳から涙が零れた。
  ただ言葉が欲しい訳ではなかった。そこに想いが籠もっていなければ、総ては虚しい響きに過ぎない、もう啓太には和希がわからなかった。どこにいるの、和希? 遠過ぎて見えないよ。そう呟いたはずなのに、最早、それは啓太の言葉ではなかった。
”Wo bist du,Kazuki? Du bist zu weit und ich kann dich nicht sehen.”
  濡れた眼差しが周囲を彷徨う。すると、少し離れた木立の陰に啓太の様子を窺っている男の姿を見つけた。携帯電話で何かを話している。その瞬間、啓太は激しい怒りと共に総てを悟った。
(あいつらだ……あいつらが、俺から和希を奪ったんだ!)
  グッと啓太は掌を握り締めた。その甲で涙を拭う。もう泣いている場合ではなかった。一刻も早く和希を取り戻さないと! でも、それには……あいつらが邪魔だ。皆、片づけないと……
「ふっ……」
  無意識に口唇が歪んだ。
  啓太はゆっくりと歩き始めた……男に向かって。非力な自分に出来るのは相手の隙をつくことだけ。狙うは、ただ一ヶ所。あの細くて、白い……


2008.10.17
漸く西園寺さんが出て来ました。
ドイツ語は堪能でないと言っても、
皆さん、日常会話なら問題なさそうです。

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Café Grace
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