啓太は海辺に座り、沈む夕陽を眺めていた。隣では丹羽が豪快に寝そべっている。そろそろ起こさなければと思いつつも波間に煌く夕陽があまりに綺麗だったので、つい時間の経つのも忘れて見惚れていた。
「ふわ~、良く寝た……」
「あっ、王様、おはようございます」
「……啓太か? 何やってんだ、こんなとこで?」
  丹羽は身体を起こすと、ガシガシと頭を掻いた。啓太は水平線を見つめたまま、静かに答えた。
「夕陽を見てるんです。とても綺麗だから……」
「ああ、そうだな」
  大きな伸びをしながら、丹羽は目を瞬いた。キラキラした残照が寝起きには少々沁みる。何時だ、と思って時計を見ると、もう五時を過ぎていた。
「なあ……俺を探しに来たんじゃねえのか?」
「……そうですよ」
「時間、知ってるか?」
「……時間って? あっ!!」
  啓太は慌てて立ち上がった。丹羽の腕を掴んで必死に持ち上げる。
「王様、早く戻って下さい! また中嶋さんに怒られますよ!」
「どのみち今から戻ったんじゃ、同じだろう? ゆっくり行こうぜ、啓太」
「駄目です! 明日までに会計部へ提出する書類があるんですから! 忘れたんですか?」
「あ~、そんなのもあったな、確か」
「西園寺さんにまで怒られますよ、王様! だから、早く戻って下さい!」
「仕様がねえな、全く」
  ピョンと丹羽は飛び起きた。
「行くぜ、啓太!」
「あっ、待って下さい、王様~!」
  沈みゆく陽を浴びて走り出した丹羽の背中に向かって、啓太は大声で叫んだ。それは、いつもと変わらない平穏な放課後の一風景だった……

「遅い」
「すいません、中嶋さん」
  苛々したその声に、啓太はビクッと身を震わせた。ほんの少し夕陽を眺めるつもりが、いつの間にか、二時間近くも経っている。中嶋が怒るのも当然だった。
「まあ良いじゃねえか。俺も悪かったんだしよ」
  丹羽はドカッと自分の椅子に腰を下ろした。中嶋が鋭い一瞥を投げる……が、山積した書類に阻まれてそれは丹羽の元まで届かなかった。
「あ~、また随分と溜まったな。急ぎのはどれだ、中嶋?」
「全部だ」
「はあ!?」
「そいつを総て片づけるまで、今日は帰れないと思え」
「マジかよ……」
  ガックリと丹羽は項垂れた。やっぱり戻るんじゃなかった、と密かに後悔した。
  一方、啓太は中嶋に怒られて少し凹んだものの、直ぐに汚名返上とばかりにファイリングに取り掛かった。大量にある書類を慣れた手つきで分類し、綴じ込んでゆく。細かい字を書き連ねた白い紙が蛍光灯の光をチラチラと反射した。
(何か……眩しい……)
  啓太は目を擦った。
「三部ずつコピーだ」
「あっ、はい」
  中嶋から渡された書類を持って、啓太はコピー機へ向かった。やがて静かな室内に低い機械音が響き始めた。蓋の隙間を白い光が行ったり、来たり。啓太は無意識に目を細めると、またゴシゴシと擦った。
「啓太」
  呼ばれて、啓太はタタタッと中嶋の元へ駆け寄った。
「何ですか、中嶋さん?」
「先刻から何度も目を擦っているな」
「あ……はい、何か眩しくて」
「見せてみろ」
  中嶋は立ち上がり、啓太の顎をクイッとすくった。眼鏡のフレームに光が反射する。
「……っ!!」
「どうした?」
「すいません……ちょっと……」
  啓太は後ずさると、強く両目を擦った。中嶋が直ぐにその手を押さえた。
「そんなに擦るな」
「物貰いじゃねえか、啓太」
  丹羽が書類の向こうから顔を出した。中嶋は再び椅子に座ると、キーを叩き始めた。
「お前はもう帰れ。気が散る」
「……はい」
  啓太は小さく呟いた。それが中嶋なりの心配だとはわかっているが、先の失敗と合わさって少し落ち込んでしまう。今日はちっとも役に立てなかったな、俺……
「それじゃあ……お先に失礼します……」
「啓太、明日も治んねえなら、ちゃんと病院へ行けよ」
  はい、と啓太は頷いて、とぼとぼ生徒会室を後にした。

  夕食の時間が終わっても、丹羽と中嶋は戻って来なかった。啓太は光が目に沁みるので早々にベッドに入り、頭の中で今日の反省会を開いていた。引っ切り無しに瞬きをしたり、目元を擦っていたせいか、瞼がヒリヒリする。
(あんなに仕事があるのに物貰いなんて……本当、情けない)
  はあ、と啓太はため息をつくと、コロンと寝返りを打った。自己嫌悪に涙が浮かびそうになって、慌てて手の甲で拭った。
「痛っ……!」
  啓太は顔を顰めた。
  時間が経つと共に少しずつ酷くなっている気がした。丹羽の言葉が頭を過ぎる。やっぱり明日は病院へ行った方が良いのかもしれない……
(ああ、本当に情けない)
  益々啓太は落ち込んできた。しかし、寝つきの良い啓太がベッドに横になっていつまでも起きていられるはずがなかった。沈みゆく心と裏腹に、啓太は緩々と溺れる様に深い闇の奥に囚われていった。

  翌朝、和希はいつもの様に啓太を起こしに来た。啓太は壁の方を向いて背を丸め、まだ夢の中にいる。
(相変わらず、良く眠っているな)
  クスッと和希は笑った。MVP戦後、啓太から中嶋との関係を打ち明けられたとき、同時に和希もまた自分の秘密を明かした。理事長であり、幼き日に出逢っていたかず兄であるということを。啓太はとても驚いたが、直ぐに今まで通りの笑顔を見せてくれた。そんな啓太が和希は可愛くて、可愛くて仕方がなかった。再会して以来、その庇護欲は高まる一方で、実際、啓太が学園を卒業したら父との間で養子縁組をする手筈も整えてあった。そうすれば、名実共に兄弟になれる。ああ、今からその日が楽しみだよ、啓太……
「朝だよ、啓太」
  和希は啓太の肩を優しく揺すった。啓太はもぞもぞと身を捩った。
「カーテン……開けるぞ」
「……う、ん……」
  啓太の意識が浮上しつつあるのを見て、和希はカーテンを開けた。
「痛っ!!」
「啓太!?」
  さっと振り返えると、啓太は頭からすっぽり布団を被っていた。
「……和希……カーテン、閉めて……目が痛い……」
「わかった」
  和希は直ぐカーテンを元に戻してベッドへ駆け寄った。枕元に腰を下ろし、心配そうに啓太を覗き込む。
「啓太、顔を見せて」
「……うん……」
  啓太は恐る恐る布団の中から出て来た。その顔を見た和希は、思わず、息を呑んだ。両の瞼がぷっくりと赤く腫れ上がっている。啓太は薄く目を開いて、刺す様な痛みにまた小さく呻いた。
「無理をしない方が良い、啓太」
「……うん」
「直ぐ病院へ行こう。車を用意させる」
「えっ!? ただの物貰いだから大丈夫だよ」
「駄目だ」
  和希は携帯電話を取り出すと、素早く石塚を呼び出した。
「……ああ、二十分後に玄関前にタクシーを……それから、至急、眼科医を手配してくれ……」
(もう……和希は大袈裟だよな)
  啓太は白いつま先をそっと床に下ろした。目を閉じているので、思いの外、ベッドが高く感じられる。身体がグラッとよろめいた。
「わっ!!」
「大丈夫か」
「あ、有難う……」
  和希に受け止められて、啓太は赤面した。ふわふわと和希が頭を撫ぜた。
「着替えるんだろう? 手伝うよ」
「有難う、和希」
  啓太は素直に頷いた。
  ……二十分後。至れり尽くせりの和希のお陰で、何とか啓太は身支度を整えることが出来た。今は最後の仕上げにかかっている。
「啓太、少し動かないで……」
  和希が低い声で囁いた。椅子に座っていた啓太は静かに息を潜めた。すると、何かがふわっと顔を掠めた。鼻と耳に掛かる微かな重み。これって眼鏡……?
「サングラスだよ。外は明るいから」
「有難う」
  啓太は小さく微笑んだ。そして、和希に導かれて立ち上がった……が、和希の手が離れるのを感じると、思わず、その腕にしがみついてしまった。
「大丈夫。俺はいつも啓太の傍にいるから」
  和希は優しく啓太の右手を取り、自分の左の肘に掛けた。
  ほっと啓太は胸を撫で下ろした。思っているより気弱になっているらしい。物貰いも両目はちょっと厳しいよな、と考えていると、和希の声が聞こえた。
「行くよ、啓太」
「あ……うん」
  啓太の中に、また不安が込み上げてきた。和希はゆっくり足を踏み出した。啓太も精一杯、それに合わせる。一歩……また、一歩。
「そう……その調子……啓太、ドアを開けるよ」
「……うん」
  二人の間に微かな緊張が走った。今の啓太には瞼を透過する光さえ苦痛だった。廊下に出ると、和希は心配そうに尋ねた。
「どう、啓太?」
「……うん、サングラスがあるから大丈夫みたい」
  良かった、と和希は呟いた。
「なら、行くか。玄関でタクシーが待っている」
「うん」
  啓太はコクンと頷いた。

  昼過ぎに和希と啓太が寮に戻って来ると、ロビーで中嶋と篠宮が待っていた。
  診療が終わった後、こっそり和希がメールで二人を呼び出していた。中嶋は啓太のサングラスを見て僅かに目を眇めたが、何も言わなかった。啓太が和希と一緒に病院へ行ったことは、既に学園中に知れ渡っていた。MVP戦以降、啓太は生徒会と会計部のみならず、謎の理事長からも一目置かれる存在として、生徒達の間では有名になっていた。その啓太が、まるで花嫁と花婿の様に和希と腕を組んでいたのが目撃されたので、話は一気に二人の熱愛発覚という域にまで発展した。そんな噂の中から、中嶋は冷静に事実だけを拾い上げた。つまり、啓太が他の者に付き添われて歩かなければならないということを。昨日の一件もあったので目を痛めたのだろうと予想はしていたが、今の啓太を見てそれを確信した。
  和希は啓太を部屋へ連れて行くと、暫く篠宮に世話を託して中嶋と談話室へ向かった。
「説明して貰おうか」
  二人きりになるなり、中嶋は座りもせず、すぐさま用件を切り出した。その声は無機質で冷たい、相手が理事長と知っているにもかかわらず。思わず、和希は苦笑した。まあ、そうでなければ啓太の相手としては相応しくない。
  和希は中嶋に向かい合うように腰を下ろすと、テーブルに両肘をつき、ゆっくり指を組んだ。
「既に察していることと思いますが、今、啓太は目が見えません」
「……続けろ」
「医師の診断によると、両目が炎症を起こしていて光に敏感になっています。紫外線の強いこの時期には時折あるそうで、まあ、一種の日焼けの様なものらしいです。昨日、啓太は夕陽を眺めていたと言っていたので、恐らくそれが原因でしょう。ただ、火傷には変わりないので、症状が落ち着くまでは暫く安静にと言われました。そうすれば、一週間ほどで完治します」
「そうか」
「しかし、一時的とはいえ失明したも同然ですから、当分は啓太の身の回りの世話をする者が必要です。俺としては看護師をつけたかったのですが、それは啓太が嫌がって。だから、啓太の面倒は俺と篠宮さんとで見ます。篠宮さんは日頃から啓太のことを色々気に掛けてくれますので、先にメールで頼んだら快く引き受けて貰えました」
「相変わらず、あいつには甘いな、遠藤」
「ええ、啓太は俺の総てですから」
  和希は、さらっと言った。一般生徒と理事長、二つの顔を器用に使い分ける和希だが、啓太のこととなると目の色が変わる。今もその瞳の奥では怒りにも似た炎が揺らめいていた。
「中嶋さんには俺が直に話したかったので、詳細はメールしませんでしたが、また啓太の警護をお願いします。MVP戦のときのことはまだ記憶に新しいですから。今の啓太では、あのとき以上に俺や生徒会に対して不満を持つ者の標的にされかねません。貴方は、仮にも啓太の恋人なんですから、啓太のために協力してくれますよね?」
「夜ならな」
  それは、いかにも中嶋らしい言い方だった……が、いつもと違い和希には聞き流せる余裕があまりなかった。わかっていながら、婉曲に注意する。
「中嶋さん、啓太を泣かせないで下さい。涙には塩分が含まれているんです。傷に塩を塗り込む様な真似は暫く謹んで下さい」
「それもまた一興だがな」
「中嶋さん!」
  ガタンッと和希が椅子を蹴って立ち上がった。表情が急に大人びたものに変わり、眼光が鋭さを増した。
「俺はまだ貴方を認めてはいません。そのことを忘れないで下さい!」
「それは失礼、お兄様」
  中嶋は揶揄する様な微笑を口の端に浮かべた。そして、悠然と和希に背を向けると、談話室から去って行った。
  後に一人取り残された和希はドアが閉まるや否や、思い切り拳をテーブルに叩きつけた。
(あの男……!)
  普段、滅多に怒りを表さない和希だったが、こと啓太に関しては話が別だった。啓太は和希の唯一にして最大の執着だった。一瞬で、理性も論理も吹き飛んでしまう。今回の件は、和希にしてみれば、総て中嶋のせいだった。啓太が丹羽を探しに行ったのは、中嶋に言われたから。中嶋がそんなことを言わなければ、啓太は夕陽を眺めて目を痛めることはなかった。だから、総て中嶋が悪い。そんな突拍子もない論法が、和希の中では正当なこととしてまかり通っていた。
(まあ良い。もし、啓太の身に掠り傷一つでもつけようものなら、容赦なく叩き潰してやる。啓太にはもっと相応しい相手がいるはずだ。あんな陵辱紛いな方法で啓太を手にした奴ではなく、な)
  和希の顔から表情が消えた。全身から仄暗い気が漂う。そこには、啓太に出会わなければなっていたであろう素の鈴菱和希がいた。
「啓太……」
  まるで神聖なものでもあるかの様に和希はその名を口にした。お前は必ず俺が護るから……
  そして、冷酷に微笑を深めた。


2008.1.18
中啓編、初の和希です。
三角関係にはなりませんが、
啓太に対して、かず兄モード全開です。
しかも、ちょっと黒いかも……

r  n

Café Grace
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