医務室のベッドに横たわる啓太を西園寺と七条が心配そうに見つめていた。
 啓太はここへ来る途中で意識を失った。七条は啓太をベッドに運ぶと、すぐさま和希に電話した。保険医は体育で怪我をした生徒の手当てに行って暫く戻れそうもない。外傷はないので大丈夫とは思うが、万が一に備えて医師を手配出来る態勢は整えておきたかった。その後、ついでに中嶋にも連絡を入れた……一応の礼儀として。合流した西園寺にそのことを告げると、二人は同時に啓太に視線を落とした。一体、あそこで何があったのか……
 やがて静かに引き戸が動き、和希と少し遅れて中嶋が入って来た。和希は真っ直ぐ啓太に近寄ると、額や首筋に触れて発熱していないか確かめた。そのまま、啓太から視線を逸らさずに呟く。
「状況を詳しく聞かせて下さい」
「あまり多くは語れない。音がしたので生物準備室を覗いたら、蒼ざめた啓太がそこにいた。わかるのは、どうやら何か精神的に強い衝撃(ショック)を受けたらしいということだ。啓太は倒れる直前、しきりに呟いていた。ここから出して、と」
「……っ……!」
 一瞬、和希が痛そうに眉を寄せた。しかし、和希の斜め後ろに位置している西園寺達にその表情は見えなかった。それを目にしたのはベッドの足元にいる中嶋、ただ一人……
「わかりました。後は俺達が見ます。有難うございました」
 和希は振り返ると、小さく頭を下げた。言外に二人には立ち去って欲しいという空気が滲み出ている。西園寺と七条は無言で啓太を見つめた。
 啓太の恋人は確かに中嶋だが、西園寺達はまだ諦めた訳ではなかった。今、そのことを持ち出せば室内は騒がしくなるだろう。それは啓太に障る。付き添いたい気持ちは山々でも、ここは引くしかなかった。
「行くぞ、臣、海野先生のデータをあのままにしておく訳にはいかない」
 くるっと西園寺は踵を返した。
「そうですね。また盗まれると困ります」
 七条は穏やかに微笑み、お大事に、と言って西園寺と一緒に医務室から出て行った。
「……」
 引き戸の閉まる音が消えると、たちまち重苦しい沈黙が室内を満たした。和希はベッドの傍の椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を組んだ。中嶋が静かな声で尋ねた。
「何か心当たりがありそうだな」
「……」
 和希がため息をついた。
「そうですね……貴方は知っておいた方が良いかもしれません。これは啓太自身も知らない……いや、忘れてしまった出来事ですから。啓太は子供の頃、地下室に閉じ込められたことがあります。そこは普段は電子ロックが掛かっていました。しかし、あの日、運悪く停電が起こって僅かの間だけそれが外れていました。その隙に幼い啓太が誤って中に入ってしまったんです。ほどなく予備電源が作動し、扉は再びロックされました。数時間後、漸く啓太は発見されましたが、既に意識を失っていました。恐らく生物準備室で見た何かが切っ掛けで、啓太の中にそのときの恐怖が蘇ったんだと思います」
「……」
 中嶋は怪訝そうに和希を見た。
 確かに暗い地下室に閉じ込められる恐怖は、幼い子供では受け止め切れないだろう。忘れてしまったというのも無理はない……が、それは西園寺達を追い払ってまで秘密にすることではなかった。この話には、まだ続きがある。
「……それで?」
「……」
 クッと和希は小さく笑った。これで誤魔化せるとは最初から思っていなかったが、自分の口で改めて話すのはかなり苦痛を伴うものだった。
「そのとき……ある事故が起きました」
「……どんな?」
「それは言えません。ただ、非常に重大な事故です。幸い、啓太は一命を取り止めました。でも、幼い身体は激しく衰弱し、記憶も多くの部分が失われてしまいました。啓太が何とか普通の日常生活に戻れるまで半年を要したそうです。総て俺の責任です。あのとき、俺がもっとしっかり啓太を見ていれば良かった。そうすれば、啓太は――……」
 和希は指の先が白くなるほどきつく両手を握り締めた。中嶋は和希が啓太に対して過保護になる理由を漸く知った。
(まだそのときの罪悪感が残っているのか)
「……中嶋さん」
 すっと和希が中嶋を見上げた。
「もし、啓太があの事故の影響で『鈴菱』から一生……いや、永遠に逃れられないとしたら貴方はどうしますか?」
「どういう意味だ、それは?」
「言葉通りですよ。啓太はこの学園を卒業後、鈴菱の籍に入ります。啓太本人の了解は勿論、啓太のご両親の承諾も既に得ています。啓太は名実共に俺の弟になるんです。そして、二十歳の誕生日を迎えたら、祖父の遺言により俺と同等の遺産を相続します。出来ることなら俺は啓太を我欲の渦巻くあの世界に置きたくはない。でも、これはもう定められた路です……あの事故が起きた日に。なら、俺は今後も全力で啓太を護ります。貴方は否が応でもそこに巻き込まれることになる。耐えられますか、それに……?」
 和希が言葉にしなかった部分が聞こえる。
『……耐えられますか、それに……貴方の矜持(プライド)が……』
「……」
 中嶋の家も鈴菱には遠く及ばないが、相当な資産家だった。父は医師で、母はエステティック会社を経営している……が、中嶋はどちらかの後を継ぐのではなく、親の力の及ばない弁護士になる路を選んだ。中嶋ほどの才能があれば、独力で人生を切り開くことも可能だろう。親といえども他人の影響を完全に排し、ただ自らの価値観のみを貫く。中嶋にはそれが人生の意義の総てであり、そのことに己が矜持(プライド)をも懸けていた。しかし、鈴菱という名はそんなものを一瞬で吹き飛ばしてしまう力があった。実社会においてはまだ何の実績もない中嶋に、それはあまりに重く厳しい現実だった。
「五年後なら、もう少し事情は違うかもしれません。貴方なら司法研修を終えたら、直ぐに優秀な弁護士として才覚を発揮するでしょう。でも、これは二年後の話です。まだ貴方はただの大学生です。貴方に……啓太は護れない」
 ふっ、と中嶋は口の端でそれを嘲笑した。
「今から先を憂えても仕方ないだろう。俺はこいつを手放す気はない。今も……そして、これからも。名前に何の意味がある? 重要なのは、こいつがこいつであることだ。だが、俺は利用出来るものは何でも利用する。たとえ、俺自身がそれに一片の価値を見出せなくともな」
「……そう言うと思っていました」
 和希は小さく笑って立ち上がった。
「啓太の意識が戻ったら連絡を下さい。直ぐに血液検査をします。問題はないと思いますが、一応、念のために」
「ああ」
 中嶋は素っ気無く答えた。和希はドアを開けようとして振り返った。
「中嶋さん……啓太のこと、宜しくお願いします」
 和希は軽く頭を下げると、その場から去って行った。
 中嶋は静かに眠る啓太に目を落とした。思えば、啓太から子供の頃の話は殆ど聞いたことがなかった。まさか記憶が失われるほどの事故に遭っていたとは……正直、意外だった。しかも、それは現在もなお引きずっているらしい。そうでなければ、この程度のことで態々血液検査をするはずがなかった。啓太が鈴菱の籍に入るのは和希の意思とは別に、その件を表に出さないための措置にも見えた。もしかしたら、啓太の身内にさえ事故の真相は伏せているのかもしれない。そして、やがて啓太が相続するという『鈴菱グループ』の創始者の遺産――恐らく半端な額ではないだろう――それも賠償責任とみなすには、あまりに規模が大き過ぎた。『鈴菱』がそこまでして啓太を手元に置きたい理由……その総ての発端である過去の事故とは、一体、どんなものだったのだろう。
 初めて中嶋は啓太の中に暗い影を感じた。
「……我欲の渦巻く世界か」
 低い声で中嶋は呟いた。だが、それも悪くない、と思った。そこに、こいつがいるなら……



2009.1.30
『曙光』とは一変して、
和希と中嶋さんの大人の関係です。
でも、折角の告白タイムなのに啓太は寝ています。
ああ、運が良いはずなのに……

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Café Grace
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