――久遠――


「ねえ……かず兄、は?」
 ベッドから起き上がった啓太は傍にいる白衣の男の袖を引っ張った。医師はカルテを繰る手を止めて啓太を見つめた。最近、漸く祖父母のことを思い出したが、口を開けば、かず兄のことばかり。事故の後遺症か……あるいは、まだ幼いせいか。啓太は時系列が混乱して過去の事象とそれに基づく未来の推測が出来なかった。つまり、かず兄は遠くの学校へ行ったから逢えない、ということがわからなかった。
 診たところ、容態は安定している。なら、もう教えても良いかもしれない。医師は優しく言った。
「かず兄と別れたことは覚えてるよね?」
「うん……悲しかった……」
「だから、もうかず兄とは逢えないんだよ」
「……っ……どう、して?」
 啓太は驚いて目を瞠った。
「ここにはいないから」
「いない? かず兄、いないの? やっぱり僕、捨てられちゃったの?」
「……? いや、別に君を捨てた訳ではないよ。ただ、別れるとはそういうことなんだ。そろそろ事実をきちんと認識するようにしようか。そうしたら、早くお家に帰れるから」
「いない……かず兄が、いない……かず兄……」
 殆ど聞こえない声で呟きながら、啓太は顔を伏せた。パジャマに透明な雫が点々と落ちる。啓太は大きな声で泣き叫ぶでもなく、ただ静かに涙を零していた……まるで大人の様に。それは小さな身体とはあまりに不釣合いで、だからこそ、その深い悲しみが見る者の胸を強く打った。
 医師は困惑してしまった。幼い子供をこんなふうに泣かせても良いのだろうか。自分のしたことは本当に正しかったのだろうか……
 良心に苛まれた彼はこの涙を止めたくて、つい嘘をついてしまった。
「あ……でも、啓太君が良い子にしていたら、かず兄は直ぐ戻って来るよ」
「本当?」
 パッと啓太が顔を上げた。期待に輝く瞳が眩しい。
「ああ、本当だよ」
 医師は励ます様に大きく頷いた……もう二人は逢うこともないだろう、と内心では思いながら。
「なら、僕……良い子にしてる」
 啓太は手の甲で涙を拭うと、明るく笑った。カルテに目を戻しながら、医師は柔らかく微笑んだ。子供で良かった……
(お陰で、簡単に納得してくれた)
 彼は、ほっと胸を撫で下ろした。

 啓太は算数のドリルを解いていた。問題を黙読する。
(えっと、次の分数を約分しなさい。十二分の三……)
 無意識に鉛筆で頭を軽く掻いた。約分は一つの数字を色々な方面から考えなければいけないので大変だが、啓太は熱心に勉強していた。まずは頭の中で分母を分解する。二x六、三x四……
(あっ……!)
 答えの欄に四分の一と記入した。次は……十八分の六。
「う~ん……」
 また少し考えて、三分の一と書いた。
 問三は十八分の九だった。前の問題と分母は同じだが、今度は分け方が違った。一つの数字が様々に変化する。重要なのは十八という数字ではなく、それをどう考えるか……
「痛っ……」
 会計室のソファに座っていた啓太は顔をしかめると、辛そうにこめかみを押さえた。先刻から取り留めのないことが頭に浮かんで酷い頭痛がして仕方なかった。にもかかわらず、思考は益々研ぎ澄まされてゆく。
(どう認識するかで世界は大きく変わる。そこに事実なんて存在しない。あるのは解釈だけ。そんなこと言うのは、皆、嘘つきばかり……大嫌い)
 そうしてキュッと目を閉じた。

『いけない! そんなことしたら……!』
 久遠の闇に鋭い声が響いた。
 扉をこじ開けようとする幼い手を蒼穹の瞳をした人が必死に止めようとしていた。しかし、彼にその子を制す術はなかった。ただ、後ろから声を振り絞るだけ……この輝きに惹かれたのだから。
「……っ……邪魔、しないでっ……!」
 子供は扉の隙間に爪を立て、全身の力を指先に籠めた。すると、闇を震わせながら、扉の輪郭が妖しく揺らいだ。駄目だ、と彼が叫んだ。
『その扉に干渉してはいけない、啓太っ……!』
「……!?」
 小さな子は驚いて手を離した。不思議そうに振り返って、ちょこんと首を傾げる。
「啓太? 何、それ? 僕は、ただ僕だよ」
『……そうだね』
 その人は儚い微笑を浮かべた。無垢な魂が確固たる口調で言った。
「僕、わかった。この扉は僕の存在に反応するんだ」
『そう……ここは啓太の心象世界だからね。但し、無意識の。扉は境界の象徴だよ。この向こうには、有意識の啓太……もう一人の君がいる』
「やっぱり……!」
 パッと子供の顔が華やいだ。期待を籠めて扉を見上げる……が、茶色の癖毛をした人の表情は暗く沈んでいた。
『おいで……君はあまりその扉に近づいたらいけない』
「やだ! 僕、ここから出て、色んなもの見るんだもん!」
 この扉は、闇から抜け出す唯一の希望だった。簡単に諦められるはずがない。僕、絶対、ここから出るんだから!
 小さな子はキュッと拳を握り締めた。彼が哀しそうに瞳を伏せた。
『……聞いて。あの遠い夏の日、一人の愚かな男のせいで、啓太は一個の者としては存在出来ないほど生命の輝きを削り取られてしまった。生きるためには自らを二つに、啓太と俺に裂くしかなかった。でも、深く傷ついた魂では俺までは支えられない。だから、少しでも負担を軽くするために、俺は眠ることにしたんだ。既に同化した啓太の記憶や能力と共に、いつ来るとも知れない覚醒の刻(とき)まで。ここには個を超越した知性があるから。だけど、俺の存在が君に形を与えてしまうとは思わなかった。君は啓太の無意識にして人の真なる姿、謂わば純粋な意思そのものだ。もし、君が無理やり向こうに行けば、啓太の意識はたちまち混沌と化し――……』
 その先を白い手が止めた。飾らない眼差しが冷たく相手を射る。
「知ってるよ。だから、この扉を開けるんだ。境界の消滅は覚醒と同義だからね」
『先刻も言ったけど……その扉は君一人では開けられない』
「でも、僕に従う。なら、内なる衝動で必ず扉は開けることが出来る」
 無理だ、と彼は首を振った。
『あれは過去と現在が一つの線で繋がったときにしか開かない。だから、あの日、幼い啓太から欠落した失われた輪(ミッシング・リンク)である、あの人の力がどうしても必要なんだ。でも、互いに離れてる時間が長過ぎた。あの人の啓太への想いは昇華してしまい、啓太も……君も、あの人を選ばなかった。輪は、永遠に失われてしまったんだ……』
「……?」
 コクンと幼い子は首を傾げた。彼が何を言っているのか全く理解出来なかった。あの日? あの人……?
『……良いんだよ、君はそれで』
 彼は少し寂しそうに微笑んだ。本質である君は時間や名前を必要としないから……
『俺達はどちらも啓太を取り巻き、根幹としてる点において良く似てる。なら、君にもわかるはずだ。今、啓太はとても危険な状態にある。強い感情が重なって不完全に変性した意識が、有の領域に上がらない膨大な記憶を無理やりここから引き出してる。このままでは、いずれ均衡が崩れて壊れてしまう。そうなる前に協力して欲しいんだ。久遠の闇に響く声は儚いけど、俺達が力を合わせれば、それは必ず啓太に届くから』
「でも、その先、僕にどんな路があるの? 啓太を助けて、その後、僕はどうするの? 一人ここに残された僕はどうすれば良いの? ずっとこの闇の中にいるの、一人で? 実存は本質に先立つとでも言いたいの? それを君が言うの? 今まで、ただずっと本質を見てきただけの君が? 笑わせないで!」
『……確かに俺は見てるだけだよ。これまでも……そして、これからも。でも、だからこそ、はっきりと言える。人は自ら望み、創るところ以外の何者でもない。君はこんな終わりを望んでるのか? 本当に、君はそれで良いのか?』
「……そんなこと」
 幼い瞳が怯えた様に揺らいだ。
「そんなこと僕だってわかってる! でも、この闇を認めたら僕はまた置いてかれる! ここから出られないから! どうして僕はいつも捨てられるの! どうして! 僕だって、僕だって世界を見たいのにっ……!」
『人は不安や死を自覚することで初めて真理を問い始めることが出来る。啓太の無意識である君がその恐怖を認めなければ、何も始まらないんだよ』
「でも……でもっ……僕、もっと色んなことが知りたい! 色んなものが見たいんだ! なのに、ここにいたら何も見えない! 何も、何も! そんなの、やだ! 絶対、やだっ……!」
 堪え切れない涙が終にポロポロと零れ落ちた。悠久を永らえた人は無言で子供を見つめた。
 真理への路は自らの内面へと通じる。だから、悩みに囚われて自己を探る内にこそ、人は存在する意味がある。今、漸くわかった。本当に怖いのは捨てられることではない。何も知らないまま、ただ静かに消えてゆくこと。無意識の啓太の叫びはそのまま、もう一人の啓太の秘めたる声に重なった。
(そっか……俺達は同じなんだ。俺にも知りたいことが一つだけあるから。なら……)
 ふわっと微笑むと、彼は静かに手を差し出した。
『ねえ、俺と一緒に生きよう』



2009.10.16
実存は本質に先立つ。
フランスの哲学者サルトルの言葉です。
それにしても……答えのない水掛け論です。
後は中嶋さんに期待することにします。

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Café Grace
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