「……それは本気かい、日本?」
 アメリカは感情を押し殺した瞳で日本を睥睨した。身体から抑え切れない仄暗い気が滲み出ている。
「今の発言は米日同盟を破棄すると言ってるに等しい。訂正するなら今しかないよ」
「己が言葉の意味はきちんと把握しています。貴方がそう受け取りたいのなら、私はそれで構いません」
 少しも臆することなく、日本はアメリカを見返した。そうか、とアメリカの声が冷たく辺りに響く。
「わかった」
 くるっと踵を返すと、アメリカは日本に背を向けた。やがて玄関の戸が硬く閉まる音が聞こえ……日本は痛そうに目を閉じた。
 事の発端は些細な口喧嘩だった。
 近年の科学技術の発達に伴い、各国との往来は昔と比べてかなり楽になった。しかし、日本は海に囲まれた極東の島国。アメリカから気軽に行ける場所ではなかった。にもかかわらず、アメリカは電話やメールでは物足りないと頻繁に日本にやって来た。それを窘めると……
『恋人に逢いに来たらいけないのかい?』
 不満そうに反論された。
『そうではありません。ただ、もう少し節度を弁(わきま)えて欲しいとお願いしているんです。国の化身たる者が度々自国を留守にして他国に入り浸るなど、決してあってはならないことです。世界会議のときなら、いざ知らず――……』
『世界会議は月に一度じゃないか! 俺は、そんなには待てない。好きな人にはいつでも逢いたいし、何度でも触れたくなる。今だって……!』
『成程……貴方が求めているのは私の身体だけなんですね』
『誰もそんなことは言ってないだろう、日本』
 そうしたやり取りが暫く続き、アメリカは徐々に苛立ちを募らせていった。日本も嫌気が差したのか、珍しくきっぱりと言った。
『とにかく、もうここへは来ないで下さい』
『……!』
 アメリカはキュッと拳を握り締めた。
 その言葉に酷く矜持(プライド)を傷つけられた気がした。自分は世界に君臨する唯一の超大国なのにという無意識の傲慢もあったかもしれない。だから、売り言葉に買い言葉で終には同盟破棄にまで話が発展してしまった……

 あれから二週間……あの日以来、アメリカは自国から一歩も外へ出ていなかった。今月はアメリカが世界会議のホスト国ということもあり、表面上は熱心に仕事に取り組んでいる。今日は朝から執務室で各国から提出されている議題に関する要望書を読んでいた。すると、不意に軽快なノックして誰かが入って来た。
「よう、アメリカ……お前、日本と喧嘩したんだって? 今やどこもその噂で持ち切りだぜ」
 それはイギリスだった。アメリカは目線だけチラッと上げて冷たく言った。
「そんなこと君には関係ないだろう」
「どうやら本当らしいな。まあ、お前には日本は勿体なかったからな。終に愛想尽かされたか」
 ははっ、と笑うイギリスをアメリカは不快そうに見やった。
「皮肉を言いたいだけなら帰ってくれないか。忙しんだ」
「ふ~ん、マジで機嫌悪いな……で、喧嘩の原因は何だ? 教えろよ」
 アメリカの声を軽く聞き流して、イギリスは部屋のソファに勝手に腰を下ろした。アメリカが小さく眼鏡を押し上げた。
「人のプライバシーに口を挟むのが紳士のすることかい?」
「それが俺達に残された数少ねえ楽しみなんだよ」
 イギリスの口の端が僅かに上がった。
 全く悪びれないその態度にアメリカは何だか腹を立てる気力が削がれてしまった。正直、内心ではかなり落ち込んでいるので、虚勢を張るのにも疲れてきている。アメリカは無意識に瞳を伏せた。
「……」
 もしかしたら、と思う。日本はもうとっくに恋愛感情が冷めていたのかもしれない。そうなっても仕方ない要素は色々あった。先の大戦で自分が日本に何をしたか忘れた訳ではない。そのことにいつまで経ってもアメリカが気づかないから、終に日本自ら別れを切り出したのだろうか。
(いや、日本は忍耐強いから自分からそんなことは……)
 アメリカは直ぐにその考えを否定した。しかし、なかなか本心を口に出さない国だから……自信はない。
(空気なんて読める訳ないじゃないか。言いたいことは、きちんと言葉にしてくれないとわからないよ、日本……)
 しょんぼりと肩を落とすアメリカをイギリスは暫く黙って見つめていた。やがて一つ小さなため息をつくと、先ほどまでの揶揄する声とはまるで違う、年若い弟を前にした優しい兄の様な口調で言った。
「話してみろよ、アメリカ……最初から全部」
「……話せって言われても……本はと言えば、日本が……」
 アメリカは、もごもごと口籠もった。イギリスは辛抱強くそれに耳を傾けた。そうして漸く総てを聞き出すと、成程な、と低く呟いた。
「お前の気持ちもわからなくはねえが、日本の言うことは尤もだと思うぜ」
「どうしてだよ? 俺達は国の化身とは言っても、政治的な権力は全くないんだ。国を動かすのは、いつだって人間だろう。仕事はきちんとやってる。だったら――……」
 その言葉を遮ってイギリスは軽く指を横に振った。
「わかってねえな、アメリカ……もし、お前の言う通りだったら、国には化身なんて必要ねえ。だが、現に俺達はこうして存在してる。なぜか。それは俺達が見たり、聞いたり、感じたりしたことをその国に住む人間達の無意識に浸透させるためだ。無意識ってのは普段は何の役にも立たねえが、いざって言うとき、どっちに傾くかわからねえ天秤に最後の一押しを加える。つまり、俺達もまたそうやって国を動かしてるんだよ」
「……!」
「俺はロンドンからワシントンD.C.までのフライト中、暇潰しに機内上映の映画をずっと見てた。たまにはそういうのも悪くねえと思う。これも一つの経験だしな。だが、お前が日本に行くために何度もあんなふうに過ごしてるとしたら、ぶっ飛ばす。今直ぐぶっ飛ばす。俺達の時間は経験にこそ費やされるべきで、無駄に浪費するためのもんじゃねえんだ」
「俺は日本に逢いに行く時間が無駄だなんてことは一度も――……」
 しかし、それは途中で霧散した……機内で退屈を感じたことがない訳ではなかったから。
「……」
 アメリカはおもむろに立ち上がると、机の横に置いてある大きな地球儀に歩み寄った。極東の小さな島国を見つけて、そこから北米大陸まで指で辿ってみる。
「……遠いな」
 ポツリと声が零れた。日本がもっと近くだったら良かったのに……
 やるせなさに打ちひしがれ、アメリカは八つ当たりする様に力一杯、地球儀を回した。すると、その風に煽られて机の上の書類が何枚かひらひらと落ちた。低く舌打ちする……が、放っておく訳にもいかないので仕方なく床に膝をついた。
(うん……?)
 ふと書類のある部分に目が留まった。待てよ……
 そのまま、アメリカは暫く黙考した。やがて勢い良く立ち上がる。
「そうか! わかったぞ!」
「ちょっ……おい、アメリカ、いきなり何だ?」
 イギリスが驚いて目を瞠った。アメリカは腰に手を当てて、えっへん、と胸を張った。
「問題を解決する方法を思いついたんだ!」
「へえ~、どうやって?」
「今はまだ詳しく話せないけど、簡単に言うなら……そうだな……持つべきものは、やっぱり友達ってことさ!」
 アメリカが親指を立てて元気に頷いた。
「友達って……」
 その言葉に照れたイギリスの頬が、さっと赤く染まった。軽く頭を掻く。
「よせよ、アメリカ、俺は別にそんなんじゃねえよ。ただ、暇だったから様子を見に来ただけで……あっ、勘違いすんなよ。お前が落ち込んでたら可哀相だなとか思った訳じゃねえぞ。それに……」
 一人で色々言い訳をするイギリスをアメリカは綺麗に無視して颯爽とドアへ向かった。
「じゃあ、俺はやることがあるからこれで失礼するよ、イギリス」
「ああ、さっさと行けよ」
 イギリスは顔を逸らしながら、追い払う様に片手を振った。アメリカが出て行くと、大きく胸を撫で下ろす。
「はあ、慣れねえことしたから柄にもなく緊張したじゃねえか、馬鹿……だが、まあ、たまにはこうしてアメリカの相談に乗ってやるのも悪くねえかもな」
 そして、満足そうに笑った。

 同じ頃、日本は床の間の前で一人静かに花を活けていた。上品な藍色の着物姿で縁側に少し背を向けて正座している。庭を一望出来るよう障子は開いているので、時折、爽やかな朝の風が烏の濡れ羽色をした髪を楽しそうに弄んだ。しかし、日本の表情は暗く沈んでいた。古くなった花を新聞紙で一纏めにすると、小さなため息が零れる。これでは花が可哀相だった……自分以外には誰も見てくれないのだから。
 あれ以来、アメリカは日本にぱったり来なくなった。電話やメールも全くない。今月は世界会議のホスト国なので色々忙しいに違いないが、こうしていると寂しさがひしひしと込み上げてきた。
「……」
 いや、そろそろ現実を認めよう、と思った。あのとき、アメリカは同盟破棄と言ったものの、上司からは未だにそんな話はない。つまり、破棄されたのは自分の方だ、と……
(若くして超大国になられたアメリカさんなら、お相手には不自由しなさそうですし……向こうへ行って謝ったら、もしかしたら、まだ許して貰えるかもしれませんが……)
 日本はそうしたい心を押し殺した。これが国としての、あるべき正しい姿と思うから。二人の関係が今まで続いてきたのは遠距離を物ともしないアメリカの行動力と厚意によるところが大きく、今後もそれを同じく期待することは日本には出来なかった。
(この花が枯れたら……もうここには何も活けません)
 床の間に花瓶を戻して日本はそう決意した。そのとき、背後から微かな笑い声が聞こえた。驚いて振り返る。
「……ロシアさん」
 縁側に面した障子の傍に銀髪に長いマフラーをした朴訥(ぼくとつ)な男が立っていた。
「家主の許可なく勝手にあがられては困ります。どこの国でも、まずは玄関の呼び鈴を鳴らすのが礼儀ではないのですか?」
「あっ、呼び鈴があったんだ。ごめん。気づかなかったよ」
 のんびりとロシアは答えた。だってさ、と続ける。
「玄関に鍵も掛かってないから、もしかして、君に何かあったのかなって思ったんだ、僕」
「それは要らぬご心配をお掛けして申し訳ありません」
 日本は軽く頭を下げた。気にしなくて良いよ、とロシアは優しく返した。
「ところでさ、日本君」
「はい」
「アメリカ君と別れたって本当?」
「……!」
 その言葉に日本が微かに息を呑んだ音をロシアは聞き逃さなかった。嬉しそうに小さく手を叩く。
「わあ、やっぱりそうなんだ」
 畳を軋ませて、一歩、ロシアは部屋に入った。後ろ手にゆっくり障子を閉めながら、まるで品定めをする様に日本を眺めやる。嫌な予感に日本は密かに身を引き締めた。
 ロシアがクスクスと笑った。
「さすが鋭いよね。先刻、僕に気づかなかったのはアメリカ君を想ってたから? だから、あんなに色っぽかったの? でも、それって日本君らしくないよね」
「どういう意味ですか?」
「だって、日本君は潔いのが好きだろう。なのに、自分を捨てた男をいつまでも未練がましく想ってるなんて凄く見苦しいじゃないか」
「……」
「だから、僕が忘れさせてあげるよ」
 そう言って、ロシアは獰猛な瞳で微笑んだ。



初出 2013.7.5
『Annexe Café』より転載。

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