ハワードからの電話を切ったイギリスは大きなため息をついた。
 会議を欠席した理由を根掘り葉掘り訊かれたが、日本の怪我のことを話す訳にはいかなかったので散々小言を言われてしまった。優秀なのも困り者だな、と呟いてイギリスは腕時計に目を落とした。日本の部屋を出てから既に二十分近くが過ぎている。
「あ~、こんなに時間が掛かるなら誰か傍に残しておくべきだったな」
『あら、日本さんなら大丈夫よ。しっかりしてるし』
 妖精の一人が言った。いや、とイギリスは首を振った。
「今はそうでもねえが、あれで昔はかなり世間知らずだったんだ。何せ二百年以上も引き籠もってたからな」
『そうなの?』
「ああ、陽に当たると溶けるって大騒ぎするし、アメリカの適当な占いはコロッと信じるし、当時は常識だった蒸気機関すら知らなくてさ――……」
 そこで不意にイギリスは口を噤んだ。
 開国以前の記憶しか持たない今の日本に先刻のアメリカの話が理解出来たのだろうか。アメリカも自分も、その点をはっきり確認しなかった。多分、大丈夫……とは思う。たとえ、日本が現状をよく理解していなかったとしても、記憶がない以上、話せることは何もなかった。しかも、念のためアメリカが事情聴取に立ち会う医者と弁護士を手配していた。何か問題が生じたとしても、彼らが上手く対処する。それなのに……なぜ、こんなにも嫌な予感がするのだろう。
「……」
 まるで蒼い澱の様な不安がイギリスの胸をひしひしと苛んでいた。
 それから逃れようと窓の外へ瞳を流せば、夜の闇を煌びやかな街の灯りが眩しく照らしていた。そのどこかに日本を襲った犯人が潜んでいるかと思うと、無性に腹が立った。確かにここは自国よりかは広い。しかし、本気になれば直ぐにでも逮捕出来る犯罪者だった。そんな者にあのアメリカが何時間も手こずるなんてあり得ない。いや……らしくない。
(さっさと捕まえろよ、馬鹿)
  心の中で、イギリスはアメリカに悪態をついた。
「……明日、誰か日本に付いててくれねえか? 多分、アメリカは事情聴取に立ち会おうとするだろうが、二日続けて議長国が欠席する訳にはいかねえ。だから、あいつは俺が首に縄を付けてでも議場へ連れて行く。だが、日本を一人にするのは俺も心配なんだ」
『わかったわ。何かあったら、私が直ぐイギリスに知らせる』
 傍にいた妖精がイギリスの前に進み出た。イギリスは小さく頷いた。
(後は……明日を待つしかねえか)
「そろそろ戻るか。アメリカの奴、鍵持ってねえしな」
『あっ、待って、イギリス』
 別の妖精がイギリスの顔を見て呼び止めた。
「どうした?」
『何か変な影が出てるわ。明日は周囲に気をつけて』
「……わかった」
 妖精の占いに、イギリスの中で不安が確信へと変わった。しかし、今の自分に出来ることは何もなかった。

「……っ……!」
 頭の痛みを堪えて日本はベッドから起き上がると、そっと辺りを見回した。
 もう暢気に横になどなっていられなかった。数百年後の自分は刀を銃に持ち替え、戦でもないのに平気で人を殺すらしい。魂とまで言われた刀を捨てるとは、一体、我が国はどうなってしまったんでしょう……と日本は空恐ろしくなった。しかし、同時にまた哀しくもなった。そうならなければ、自分は他国と渡り合えなかったのだろう。もしかしたら、記憶を失ってしまったのは鎖国していた頃に戻りたいという願望なのかもしれない。
(……帰りたい)
 不意に胸が苦しくなるほど望郷の念が込み上げてきた。
 先刻まで部屋から出ようとすら思わなかったが、今は自分を変えてしまった異国の地にいることが堪えられなかった。ずっと付き添っていたイギリスがいない、この機を逃す手はない……!
 日本は衝動的にベッドから白い足を下ろした。室内で靴を履く習慣はないので素足のまま、木製のドアへと駆け寄る。イギリスが食事や紅茶を運ぶ際の動きを見ていたので開け方はわかっていた。その記憶を頼りに、日本は少し腰が引けた不自然な格好でノブを回して急ぎ寝室から抜け出した。
「ここは……」
 隣は応接間になっていた。明かりは点いていないので薄暗いが、自国とは全く異なる室内を日本は物珍しそうに見回した。
 左の壁には作り付けの大きな暖炉があり、赤々とした炎が室内を適度に暖めていた。右側の大きな窓にはたっぷりとしたカーテンが掛かっている。中央に敷かれた深い色合いの絨毯の上に背の低いテーブルとソファが置かれていた。そこには会議の資料と日本が持参したノートPC、イギリスの紅茶の缶と茶器……そして、大きな茶色い紙袋があった。それを見た瞬間、日本の頭にいつかの光景が蘇ってきた。
『またこんなに買ったんですか。太りますよ、……さん』
『後で一杯、運動するから問題ないんだぞ、日本』
『なっ……』
 ポンッと沸騰した日本は慌てて紙袋から目を逸らした。赤くなった頬を両手で包み込む。
(い、今のは一体……)
 相手の顔や名前はわからないが、胸が高鳴り、身の内が甘く疼いた。頭よりも先に身体が思い出す……幾度となく抱かれた、その肌と熱を。しかし、まだ何も知らない日本は急に欲情した自分に完全に混乱してしまった。
(ああ、こんな処にいるから私はおかしくなる。早く、早く国に帰らなければ……!)
 おろおろと視線を彷徨わせると、正面の短い廊下の先に一回り大きな扉があった。そこから外に出られるかもしれない。日本がそう思ったとき、その向こうからカチャと鍵の外れる音が聞こえた。日本は咄嗟にカーテンの影に身を隠した。
「……」
 静かに息を潜めていると、微かな靴音がして誰かが中に入って来た。二歩、三歩と進んで……ピタッと止まる。
(気づかれたか!?)
 日本は刀の柄に指を掛けようとした。
 自分が国の化身である様に刀は力の象徴だった。必要なときは、いつでも直ぐ手元で実体化する……が、なぜか今は刀を取り出せなかった。どうして、と密かに動揺する日本にアメリカの声が響いた。
「そこにいるんだろう、日本」
「……!」
 日本は返事をするべきか少し迷った。しかし、このまま、やり過ごすことは出来そうもなかった。アメリカは問うてなかったから。あの人は、この場に私がいると知っている……
「……」
 慎重に日本はカーテンの裏から姿を現した。アメリカはソファを挟んだ反対側、暖炉の明かりが届かない場所に立っていた。日本も月明かりを巧く背にしているので、互いに相手の顔は良く見えない。
「……どうして私がいるとわかったんですか?」
 先に口火を切ったのは日本だった。アメリカは軽く肩を竦めた。
「君の殺気を感じたからさ。久しぶりだったから、ちょっと驚いたんだぞ」
「そう、ですか……」
 日本は小さく息を吐いた。
 次の瞬間、ふっと日本の姿が闇に溶けた。素早く懐に手を入れたアメリカの首筋に背後から鋭い手刀が突きつけられる。
「貴方ですね、私の刀を奪ったのは……どうして?」
 日本が低く囁いた。アメリカは微動だにせずに言った。
「君には、もう必要ないものだからさ」
「……」
 国としての矜持(プライド)が傷つけられ、黒曜の瞳が怒りにすうっと凍った。すると、アメリカが僅かに口の端を上げた。
「今の君にはわからないだろうけど、俺は敵じゃない。だから、その気を少し抑えてくれないかい? 間違って指に力が入りそうになるんだ」
 銃を取り出す暇はないと判断したアメリカは腋の下からフライト・ジャケット越しに真っ直ぐ日本を狙っていた。もし、俺が本気だったら、君は背後に回った瞬間に撃たれてたんだぞ。アメリカは暗にそう仄めかしていた。しかし、日本はそれに気づいた上でアメリカが引き金を引かない紙一重の殺気を放っていた。
「……」
 糸を張り詰めた様な無音の緊張にアメリカの肌がざわりと粟立った。武器のない日本は圧倒的に不利なのに、全く臆さないその姿は先の大戦を彷彿させた。記憶がなくとも、本質的な部分は変わらないということか。なら、下手に追い詰めない方が良い……
「引き分けで良いかい?」
 アメリカが明るく振り返った。日本が頷いたので懐からゆっくり手を出す。
「有難う、日本」
「……貴方のためではありません。ただ、私は無益な争いはしたくないだけです」
 存在しない刀を鞘に収める音が聞こえた気がした。アメリカは辛そうに日本を見つめた。
(今の君にとって、俺はただ敵ではないだけ……味方とは違う)
 記憶がない――知らない――というだけで、二人の間には溝が出来てしまった。日本はやんわりとアメリカを拒絶し、不用意にそこに踏み込もうものなら、今の様に争いになってしまう。俺は、もう君を傷つけたくないのに……
「日本、俺をもっと信じてくれないかい? そうしたら、俺は……!」
 思わず、アメリカは日本の腕を掴んだ。日本がビクッと震えた。
「あっ、ごめん。君は触られるのは苦手だったね」
 慌ててアメリカは手を離した。いえ……と日本は俯き、その腕を押さえた。
「……」
 強い力だった。いや、存在感と言うべきだろうか。アメリカはまだ若い国だとイギリスから聞いたが、それは大国を予感させるに充分なものだった。しかも、先刻、背後を取った瞬間にアメリカから感じた殺気……あれは尋常ではなかった。もし、判断を誤っていたら、自分は確実に撃たれていただろう……刀の有無にかかわらず。
(この人は強い。それが私にわかるのは恐らく……戦ったことがあるから。そして、負けた。ああ、だから、私は銃を使っていたんですね……この人に負けて刀を奪われたから)
 日本の中で引っ掛かっていたことが漸く一つに繋がった。未だ殺した理由は思い出せないが、そうする必要があるなら、未来の自分でも決して躊躇わない確信はあった。
「あの……アメリカさん」
「何だい?」
「実は――……」
 そのとき、再び鍵の外れる音がしてイギリスが戻って来た。
「うん? アメリカ、そんな処で何を……あっ、お前、日本を勝手にベッドから連れ出すなよ。元気そうに見えても、まだ本調子じゃねえんだぞ」
「あっ、いえ、これは私が――……」
「君こそ、日本を放ってどこに行ってたんだい? ちゃんと付いてないと駄目じゃないか」
 日本を遮ってアメリカがすかさず文句を言った。
「仕方ねえだろう。仕事の電話だったんだ」
「そんなの俺が戻るまで待って折り返しにすれば良いだろう」
「時差ってもんを考えろよ。いつ戻って来るかわからねえのに待てるか。だが、俺は日本が一人で部屋から出ねえよう手動でも鍵を掛けたぞ。なのに、どうやって入ったんだ、アメリカ?」
「マスター・キーに決まってるだろう。君だけが日本の部屋の鍵を持ってるなんて不公平じゃないか」
 その言葉に、イギリスは思い切り眉をひそめた。
「不公平って……お前、そんな理由で支配人の権限に干渉したのかよ。あっ、まさかそれを使って俺の部屋に入るつもりじゃねえだろうな。断っておくが、化身にもちゃんと外交特権はあるんだからな」
「どうして俺がそんなことをしないといけないんだい? 君の部屋になんか行ったら、紅茶の匂いで胸焼けするだけなんだぞ」
「胸焼けするほど飲んだことねえだろう、馬鹿」
 終に二人は話を脱線して口喧嘩を始めた。日本は話す機会を完全に失ってしまい、小さく俯いた。一体、私はこれからどうしたら良いんでしょう。
(……わからない)
 しかし、どうすべきかは直ぐにわかった。罪を犯したなら、償わなくてはならない。それは人間でも化身でも、きっと同じだから……

 翌日、イギリスは議題を説明するドイツの声をぼんやり聞いていた。
 今回の議長はアメリカだが、やる気のない姿勢に業を煮やしたドイツがいつもの様に場を仕切っていた。アメリカは会議をそっちのけにして手元のスマートフォンを何やら真剣に見ている。多分、捜査状況が上がってきたんだろう、とイギリスは思った。もう名前くらいはわかったんだろうか? 居場所は? 身柄の確保は出来たのか? イギリスの頭の中でアメリカに訊きたいことが幾つも浮かんでは消えていった。今日ほど休憩が待ち遠しかったことはなかった。時折、隣のフランスが怪訝そうにこちらを見ているが、それは無視した。まあ、俺が仕事に身が入らねえのは珍しいからな……
『イギリス、大変よ!』
 突然、イギリスの目の前に小さな妖精が現れた。日本さんが……!
「……っ……!」
 ガタンッと椅子を蹴飛ばしてイギリスが立ち上がった。一瞬にして場が静まり、全員の視線が集まる。
「あ~、どうした、イギリス? 何か質問でもあるのか?」
 いち早く気を取り直したドイツが尋ねた。イギリスが険しい表情で言った。
「いや、暫く休憩だ。ちょっと来い、アメリカ」
 イギリスは顎でドアを指すと、さっさと部屋を出て行ってしまった。有無を言わさぬその様子に誰も反論出来なかった。アメリカも何かを感じたのか、珍しく素直にイギリスに従った。
 ……数分後。誰もいない会議室に入るや否や、イギリスはアメリカの胸倉を素早く掴んで壁に背中ごと叩きつけた。
「お前……昨夜、俺がいないとき、日本と何があった?」
「いきなり痛いじゃないか、イギリス」
「言動には注意しろって何度も言っただろう! 日本と何があったんだ!」
「一体、何の話をしてるんだい、君は!」
 少し苛立ったアメリカがイギリスの手を強く振り払った。
 何もなかったとは言わないが、昨夜の一件をイギリスに話す気は欠片もなかった。イギリスは何かの声に耳を傾ける様に中空を見つめた。やがて小さく頷くと、再び視線をアメリカへと戻した。
「そうか……なら、良い。まだお前には連絡がねえ様だから教えてやる……日本が自白した」
「えっ!?」
「日本があの銃で男を撃ったと自白したんだ! 男と揉めて頭を殴られ、銃でそいつを撃ったんだと。そんな馬鹿な話あるか! 弁護士は取り調べのストレスからくる精神衰弱による自白と言ったが、日本はそれをはっきり否定した。今は医者が記憶の混濁について説明してる。だが、もう日本の逮捕は時間の問題だ」
「あり得ないんだぞ、そんなこと……」
「どうして……どうしてこんなことになったんだ、アメリカ? どうして自国の人間くらい、さっさと逮捕出来ねえんだ? それでも、お前、この国の化身かよ!」
「……っ……!」
 イギリスの悲痛な叫びにアメリカは息を呑んだ。
 口では色々言いながらも、イギリスが二人を大切にしていることは良く知っていた。しかし、その苦悩がここまで深いとは思ってもいなかった。どちらも、かつて君と袂を分かった者なのに……
「イギリス、俺は――……」
 すると、その言葉を断ち切る様にイギリスがくるっと踵を返した。足早にドアへと向かう。
「もうお前は当てにしねえ。奴は俺が捕まえる。そして、この件が片づいたら、アメリカ……日本は、俺が貰う」
「待っ――……」
 呼び止めようとしたその先で、冷たくドアが閉まった。
 こんなことは初めてだった。今までどんなに激しい口論をしてもイギリスから背を向けられたことはなかった。イギリスは翡翠の瞳に大きな涙を浮かべて口汚く罵ながらも、いつも真っ直ぐアメリカを見ていた。
 イギリスに失望された。
 それに思い至ったとき、アメリカは腹の底から何かが込み上げてくるのを感じた。その溢れる力を拳に籠めて思い切り壁に叩きつける。
 ダンッッッ……!
 白い漆喰の上に同心状の穴が開き、細かい破片がぱらぱらと床に落ちた。
(漸く……目が醒めた!)
 日本が記憶を失って以来、ずっと感じていた溝の原因が今、漸くわかった。
 記憶のない日本が距離を置こうとするのは当然だから自分から手を伸ばさなければならなかったのに、心のどこかで躊躇っていた。もしかしたら、少し腹を立てていたのかもしれない……大国アメリカを忘れてしまった日本に。だから、回りくどい言い訳をして二人の関係を敢えて日本に話さなかった。総てを思い出したときに後悔して頭を下げてくれば良い、と思って。しかし、そのくだらない矜持(プライド)のせいで、イギリスには後れを取り、捜査の進捗状況にも無意識の影響を与えてしまった。
(この国の化身たる俺が躊躇ってるのに、どうして国民が本気になれるんだ!)
 アメリカは部屋を出ると、大股で歩き始めた。硝子の奥で空色の瞳が一際、強く輝く。
(俺を敵に回した報いを犯人には受けて貰う。罪には罰を、悪には裁きを。そして……)
 地を這う様な低い声が廊下に響き渡った。
「日本は絶対に渡さない。たとえ、イギリス……君でもだ!」



初出 2014.1.18
『Annexe Café』より転載。

r  n

Café Grace
inserted by FC2 system