「……はあ」
 夕暮れの談話室で窓辺の椅子に一人座っていた織田は右手の指輪を見てまた一つ小さなため息をついた。
 潜書の際、文豪は本から武器を取り出して戦うが、今までは決まった一種類のみだった。それが新たに開発されたこの指輪を嵌めると、異なる武器にすることが出来た。織田の場合はナイフではなく鞭に。これからは鞭の長い間合いを生かして敵全体を攻撃出来る……と喜んだのも束の間、その流線的な動きは刀に慣れた織田には酷く扱い難いものだった。しかも、これまでは一刀で倒せた敵の撃ち漏らしが多く、改めて練度を鍛え直さなければならなくなった。しかし、今生も他人より弱い身体は少し無理をしただけで直ぐ悲鳴を上げた。それをいつもの陽気な笑顔の裏に隠して潜書に行こうとしても、織田の気質を良く知る坂口や太宰、あるいは医師である森に見つかって必ず止められた。彼らは皆、織田の身を案じていると頭ではわかっているものの、正直、余計なお世話だった。身体の負担を考えて潜書をしていたら、練度はなかなか上がらない。これでは他の文豪達と差が開く一方だった。
(……要らんわ、こんな指輪……)
 苛立ち紛れに織田はジャケットのポケットから煙草を取り出し、火を点けようとした。しかし、直前でそれはすっと指から抜き取られてしまった。
「煙草は喫煙室で吸わないと怒られるよ、オダサクさん」
 いつの間にか、傍に宮沢と新美が立っていた。狐のぬいぐるみを抱えている新美が辺りを窺いながら、声を潜めて囁いた。
「ゴンがね、泉先生が怒ると怖いよって言ってる」
「……平気や。泉先生に怒られるんは慣れとる」
 織田はぼんやり返した。ワシらは色々目つけられとるからな……
「うん、僕達もそうだから気持ちはわかるよ。でも、ここには色々な人がいるから譲るとこは譲らないと……ねっ、オダサクさん?」
 宮沢が諭す様に言った。コクコクと新美は頷いた。二人とも姿形は幼いが、前世では織田より年上だった。だから、誰にでも譲れない一線のあることを良くわかっていた……たとえ、それが法規に違反するとしても。新美が小さな手で織田の頭にそっと触れた。
「痛いの、痛いの、飛んでけ~」
 使い方は少し違うが、無邪気に織田の憂鬱を払う新美を織田はポカンと見つめた。言葉と行動の差があまりに大きく、どう反応して良いかわからなかった。しかし、新美なりに気を使ったのだろう。その心遣いは素直に嬉しかった。織田は小さく微笑んだ。
「おおきに。何か元気が出たわ……せやな。守れる規則は守らなあかんな」
「うん」
 ニコッと二人は笑った。新美が宮沢の袖を軽く引っ張った。
「賢ちゃん、絵本の続きを見よう」
「そうだね、南吉」
 宮沢は新美と一緒にソファへ移動しようした。織田は慌てて口を挟んだ。
「ちょっ、ここではあかんやろ」
 二人の言う絵本とは春画のことだった。もし、潔癖症の泉に見つかったら、不潔です、と大騒ぎになりかねない。
「譲るとは譲るんやろ。なら、悪いことは言わん。ここはやめとき」
「ああ、これは大丈夫だよ。本当に、ただの絵本だから」
 面白そうな顔で宮沢は織田に一冊の子供用の絵本を見せた。表紙には大きな字で『ゆきのじょうおう』と書いてある。
「何や、アンデルセン童話かいな」
 ほっと織田は胸を撫で下ろした。うん、と新美が頷いた。
「僕、童話を書いてたから、ちょっと興味があって……ゴンも見てみたいって。オダサクさんも一緒に見る?」
「あっ、そうしようよ。オダサクさんも一緒に見よう。ねっ?」
「せやな。折角のお誘いやし、たまにはワシも童心に返ってみますか」
「やった」
 二人は嬉しそうに織田の手を引っ張ってソファへ移動した。三人掛けのソファに織田を中心に宮沢と新美が左右に腰を下ろす。宮沢が織田に絵本を渡した。
「オダサクさん、読んで」
「ええで。お兄さんの美声に聞き惚れさせたる」
 快活にそう答えて織田は絵本を受け取った。
 話は至って単純だった。悪魔の作った鏡の欠片が刺さって性格の変わってしまった少年を少女が雪の女王の宮殿まで助けに行く。子供用なので内容はかなり端折られていたが、ページを彩る様々な絵は瞳に楽しかった。一通り読み終えると、新美にせがまれ、今度は絵だけを眺めることにした。
「綺麗だね、ゴン……沢山の鏡の欠片が雪の様にキラキラしてて……」
 新美は悪魔の作った鏡の割れる場面が特に気に入ったらしく、無意識にページに手を伸ばした。ふふっ、と宮沢が笑った。
「南吉は雪が好きだね」
「うん、僕、子供の頃は少し身体が弱かったから、雪が降ると、あまり外に出して貰えなかったんだ。大人になったら、病気になってやっぱり……だから、何か雪って憧れちゃうんだ」
「そっか」
「良いなあ、雪……早く降らないかな……」
 新美は期待を込めて窓の外に瞳を流した。織田は無言で新美を見つめた。
 前世、新美は織田と同時期に生まれ、同じ病を患い、先に逝った。特に交流はなかったので、この図書館で会うまでは何の感情もなかったが、ままならない身体を持ったもどかしさは良くわかった。今生も密かにそれに苛まれている織田はそんな新美に初めて強い親近感を覚えた。
「よっしゃ! お兄さんに任せとき」
 ポンと織田は胸を叩いた。新美が不思議そうに首を傾げた。
「えっ!? 何を?」
「雪が見たいんやろ? なら、ワシがこの本に潜って取ってきたる」
「駄目だよ、オダサクさん。気持ちは嬉しいけど、最初にネコさんに言われたでしょ。本の中のものは持って来れないって。それに、誰かに見つかったら怒られるよ」
「南吉の言う通りだよ。どんなに本物の様に見えても、あれは総て概念なんだ。本の外では存在出来ない。行くだけ無駄だよ」
 宮沢も反対した。すると、織田は小さく指を振った。
「それは少し違うで。ワシらも元は著作に残っとった概念みたいなもんや。けど、今は錬金術の力でここにおる。なら、本の中のもんもワシらが触れとる間は実体化するはずや」
「それはオダサクさんの仮説であって実証した訳じゃない」
「せやけど、そう大きく的は外してない思うで。なら、試してみる価値はある。大丈夫や。さっと行ってさっと帰れば誰にもわからへん」
「でも……」
 言葉に詰まって宮沢は新美を見やった。新美は何かを堪える様に狐のぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた。
「……雪が降るまで、僕、ちゃんと待てるよ……ゴンと一緒だし……」
「子供が無理をしたらあかん」
 織田はふわふわと新美の頭を撫でた。新美が上目遣いに反論した。
「それを言うなら僕の方が年上だもん」
「たった数ヶ月やろ。せやけど、ワシの方が長生きしたで。せやから、ワシの方が年上や」
「ううっ……」
 新美は悔しそうに唸った。織田は静かに立ち上がった。
「最近は寒うなってきたけど、まだ雪が降るほどではないやろ。いつ降るかわからん雪を待つなんて時間の無駄や。善は急げ言うしな。ほな、ワシはちょっと潜ってくるわ」
「あっ、待ってよ、オダサクさん」
 絵本を手に足早に談話室を出て行く織田を宮沢と新美は慌てて追い掛けた。開け放たれた扉から廊下の冷たい空気が流れ込んで来る。それは近づく冬を予感させるには充分な寒さだった。

「はあ、絵本に潜るんは初めてやけど……結構、冷えるな」
 雪の中に降り立った織田は黒い手袋を嵌めた両手を擦り合わせて暖を取りながら、一先ず軽く辺りを見回した。そこは今にも泣出しそうな曇天の下、小高い丘を深い雪と森が取り囲んでいた。遠くを走る馬車の轍がこちらからあちらへ黒々と伸びる以外は人影すらない。まさに先ほど見た絵本の絵と全く同じだった。
「百聞は一見に如かずやな」
 文字のかき立てる想像力で情景を描写する作家には万人に同じものを見せることが出来ないので、それはとても新鮮な感動だった。今度、雪景色を題材に何か書いてみようか……と考えて織田はここへ来た目的を思い出した。
「あかん。あかん。ワシは雪を取りに来たんやった。時間もあまりないから、さっさと済まさな。なるべく綺麗で新しいのがええな……」
 織田は少し丘を登ると、中腹辺りの新雪を両手ですくい上げた。手袋越しにふわふわした雪の感触と冷たさが伝わってくる。
(……このまま、持って帰るんは芸がないな。雪だるまにでもするか)
 新美の喜ぶ顔を思い浮かべ、織田は片膝をついて雪玉を作り始めた。
 それは楽しい作業だった。雪は握り固める度に、きゅ、きゅっと兎が鳴く様な音がした。織田も雪に触れるのは久しぶりなので、いつしか童心に返って夢中になっていた。だから、気づかなかった。遥か頭上の空を一匹の小さな悪魔が慌ただしく北へと駆け抜けて行ったことに……割れた鏡の欠片を撒き散らしながら。
「ふう、こんなもんやろ」
 織田は小さな雪だるまを手に立ち上がった。その瞬間――……
「……っ……!」
 痛みにも似た鋭い冷気が右目と胸に刺さった。息が詰まり、目の前が真っ暗になる。ゆらりと傾いだ身体がとさっと雪の上に倒れた。

「……オダサクさん、遅いね」
 潜書室で待つ宮沢がポツリと呟いた。新美は無言で頷いた。二人の視線の先には綺麗な文様の刻まれた台座に置かれた『ゆきのじょうおう』の絵本があった。そこに織田が一人で潜って、そろそろ一時間……雪を取りに行くだけにしては遅過ぎた。直ぐに帰ると言っていたのに、結局、午後の潜書をしていた会派の方が先に戻って来てしまった。二人は怒られるのを覚悟した……が、帰還後は潜書者の状態の確認などで慌ただしい上に、宮沢を尊敬している中原が自分を出迎えに来てくれたと勘違いして大騒ぎしている内に有耶無耶になってしまった。
 宮沢と新美が落ち着かない不安と心配に苛まれていると、不意に絵本から無数の光の粒が湧き上った。
「あっ、賢ちゃん、戻って来た!」
 新美が嬉しそうに絵本を指差した。やがて、二人の前にふわりと鳥が着地する様に織田が降り立った。
「おかえりなさい、オダサクさん」
「おかえりなさい」
「……ただいまやで」
 にこやかに挨拶した織田は手にしていた雪だるまをすぐさま新美に差し出した。わあ、と新美が大きく目を瞠った。
「雪だ! 凄いよ、ゴン、本物の雪だよ!」
「なっ、持ち出せたやろ。せやけど、しっかり持っとかんと消えてまうから気つけてな。まあ、そうでなくとも、その内、溶けてまうがな」
「有難う、オダサクさん」
「良かったね、南吉」
「うん!」
 大はしゃぎの新美は黄色い手袋をした両手を広げ、嬉しそうに雪だるまを受け取った。小躍りする新美を微笑ましく見つめながら、宮沢が小声で尋ねた。
「でも、遅いから心配してたんだよ……中で何かあった?」
「別に、何もなかったで。ただ、ちょっと綺麗な雪景色に見惚れとっただけや」
 織田は素っ気無く返した。チラッと宮沢は織田に視線を走らせた。しかし、その顔からは何も読み取れなかった。
「そっか……なら、良いんだ。南吉のために有難う、オダサクさん」
「どういたしまして。ほな、ワシはちょっと煙草でも吸ってくるわ。ここは暑うて堪らん」
 織田は小さく片手を上げると、軽快な足取りで潜書室から出て行った。
「……」
 暫く廊下を歩いていた織田は周囲に人気がなくなると、不意に足を止めた。右手を縋る様に壁に這わせ、左手で辛そうに胸を押さえる。宮沢と新美の前では平静を装い通したが、息をする度に、まるで肺の中からチリチリと炎で炙られている気がした。空気が熱過ぎる……恐らく雪の上に倒れて身体が芯まで冷え切ってしまったせいだろう。館内は一元的に温度管理がされているため、熱の逃げ場がなかった。暫くどこかで一人になりたい。そう思った織田はここの気温に慣れるまで中庭にでも行くことにした。そのとき、背後から誰かがこちらへ向かって走って来た。
「オダサク!」
 それは坂口だった。織田は息苦しさを堪えて完璧な笑顔で振り返った。
「安吾やん。そないに慌ててどないしたん?」
「あんた……」
 坂口は織田に微かな違和感を覚えた。しかし、今はそれを問い詰めている時間がなかった。
「急いで太宰を探してくれ!」
「太宰クンなら、まだ潜書中やろ」
「先刻、耗弱になって戻って来たらしい。だが、俺が潜書室に着く前に消えやがった」
「何やて!? 一体、助手は何をしてたんや!?」
「今日の助手は志賀だ。あいつの手は借りたくなかったんだろう。だから、俺が迎えに行くまで待ってろって言ったのに……」
 太宰は精神不安定な文豪のため、潜書で耗弱や喪失状態に陥り易かった。そうした文豪は正常な判断が出来ないので、いつも助手が補修室へ連れて行くことになっていた……が、太宰は前世から今生に至るまで志賀を毛嫌いしていた。だから、志賀の姿を見て反射的に潜書室を飛び出してしまったに違いない。
 ちっ、と織田は小さく舌打ちした。
「太宰クンの志賀先生嫌いも大概にせなあかん。こんなん皆の迷惑や」
「……」
 坂口は僅かに眉をひそめた。その反応は織田らしくなかった。もしかすると、また体調を崩しているのかもしれないという考えが頭を過る。先刻の違和感はそれだったのだろうか。なら、こっちも後で何とかしねえと……
「まあ、太宰に言い含めるにしても、いないんじゃ話にならねえ。あんたは館内を探してくれ。俺は外を見てくる」
「それならワシが行くで。ちょっと外の空気を吸いたい思っとったところや」
「駄目だ。陽が落ちて大分、気温が下がってる。自分のせいで、あんたが風邪を引いたと知ったら、太宰は本気で失踪する。あんたは館内を当たってくれ。頼んだぜ」
 軽く片手を上げると、坂口は玄関ホールの方へ走り去った。織田は苦々しくその後ろ姿を見送った。早く外で涼みたいのに、余計な手間が一つ増えてしまった。
(耗弱の太宰クンは酷い自己嫌悪に陥っとるから人気のある場所は避けるやろな……しゃあない。まずは太宰クンの部屋から見に行こか。はあ、しんど……)
 織田は短く嘆息すると、諦めて太宰を探すことにした。

「……」
 自室の洗面台の前で太宰は焦燥した面持ちで正面の鏡を見つめていた。
 今日は久しぶりに芥川と一緒の会派で練度も上がった自分の雄姿を示そうとはりきっていたのに、気負い過ぎて完全に空回りしてしまった。挙句の果てに耗弱……しかも、その姿をよりにもよって志賀に見られてしまった。
(何やってんだろう、俺……)
 咄嗟に潜書室から逃げ出してしまったが、今になって後悔していた。侵蝕され易いのは仕方がないとしても、問題はその後だった。耗弱や喪失になる度に一々騒ぎを起こしていたら、前世と何ら変わらない。
「はあ……」
 太宰は大きなため息をついた。
 普段は美男子と自画自賛している派手な赤い髪と金色の瞳が酷く道化染みて見えた。やはりお前は駄目な奴だ。人間失格だ、と罵る声が聞こえる。しかし、そうした負の感情に流されまいと太宰は必死に抗った。
 今生はちゃんと生きようと心に強く決めていた。ここは、あの日、銀座で逢った三人の夢の続きだから……再び揃った三羽烏の一角を自ら先んじて崩す真似だけは絶対にしたくなかった。
(今頃、きっと安吾やオダサクが探してる……)
 大切な二人に思いを馳せ、太宰は今にも沈みそうな自分を奮い起こすため情けないこの顔を洗うことにした。いつもの様に排水口を黒いゴム製の栓で塞いで洗面台に水を溜めてゆく。顔を洗うだけならその必要はなかったが、水に惹かれる性分なので、それは完全に無意識の行動だった。やがて洗面台に並々と水が溜まった。
「……」
 太宰は少し前に身を屈めた。両手で水をすくおうとして――……
「わっ……!」
 突然、誰かに後頭部を強く押さえつけられた。水の中に無理やり顔を沈められて息が出来ない。太宰は闇雲に手や足を振って必死に頭の手を振り払おうとした。しかし、背後を取られた上に前屈みという不利な体勢なので、全く効果はなかった。空気の代わりに吸い込んでしまった水で鼻や胸が痛い。バシャバシャと水の跳ねる音が響く中、太宰は今にも遠のきそうな意識を振り絞って蛇口に手を伸ばした。その根元には排水口を塞ぐ栓と繋がる細い銀の鎖が結ばれていた。手探りでそれを見つけると、思い切り鎖を引っ張った。
「……!」
 栓が外れ、一気に水が排出された。すると、頭を押さえていた手が不意に離れた。太宰は勢い良く身を起こした。はっ、と息を吸い込むと同時に肺に入った水が吐き出され、激しく咳き込む。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……!」
 痛みと苦しさに胸を押さえながら、太宰は急いで振り返った。すると、そこには無表情な織田が立っていた。
「……っ……オダ、サク……?」
 呆然と太宰は呟いた。織田が冷ややかな声で言った。
「こないなとこで水遊びしてたらあかんで、太宰クン」
「お、前……ゴホッ……何、を……っ……」
 俺の頭を水に突っ込んだのはお前だろう、と太宰は叫ぼうとした。しかし、まだ巧く声が出ず、ただ怒りを籠めて睨み返すことしか出来なかった。織田が小さく口の端を上げた。
「ええな、今の太宰クン……まさに水も滴るって奴やな」
「ふっ、ざけ……る、なっ……!」
「ケッ、ケッ、ケッ……ほな、ちゃんと補修室へ行くんやで。ワシは外で一服してくるわ」
 そう言うと、織田はさっさと踵を返してしまった。太宰はまだ力の入らない足で慌てて後を追った。
「待、てよ……っ……オダサクッ……!」
 靴も履かずに廊下へ飛び出た太宰は素早く左右を見回した。しかし、既に織田の姿はどこにもなかった。
「……」
 太宰は廊下をよろよろと右へ歩き始めた。外で一服するなら、寮棟からの出口は玄関ホールと裏口の二つしかない。この時間、食堂に近い裏口はまだ人の出入りも多いため、何となく今の織田は避けそうな気がした。
「太宰!」
 玄関ホールに着くと、丁度外から戻った坂口が駆け寄って来た。太宰の無事を確認し、ほっと胸を撫で下ろす。
「全く……潜書室で待ってろって言っただろう。探したぞ」
「……ごめん」
 太宰は小さく俯いた。前髪の先からポタリと水滴が落ちた。坂口は太宰が濡れている理由を訊かなかった。ただ……まあ、良いさ、とだけ呟いた。
「補修室へ行くぞ。あんたも練度が上がってるから、朝までゆっくり補修してくるんだな」
「……」
 無言で太宰は頷いた。
 坂口の顔を見て少し安心したせいか、先刻のことが夢の様な気がしてきた。もしかしたら、水に近づいた瞬間、無意識に死の衝動に駆られて自分から顔を突っ込んでしまったのかもしれない。あれは……冗談にしては度が過ぎた。一歩、間違えたら、本当に死んでいただろう。だから、そう考える方が自然だった。
(そもそも、俺、オダサクに殺される覚えもないし……)
 現に、今日も午前中は三人で坂口の部屋でまったりと過ごしていた。しかし、太宰だけ午後から芥川や中原と一緒の会派で潜書が組まれていた。人選が酷い。誰か中也と代わって、と畳に寝転がって駄々を捏ねていると、しゃあないな、と織田に顎をすくわれて口唇を奪われた。愚痴の途中で無防備に開いていた口に悪戯な舌が滑り込み、口腔の上壁を愛撫される。織田の長い髪が太宰の胸の上でとぐろを巻き、時折、髪留めが服のボタンとぶつかって硬い音を立てた。一瞬、このまま、なし崩し的にもつれ込むのも悪くはないと思った……が、主導権を取られるのは好きではなかった。だから、織田の後頭部を引き寄せる振りをして素早く二人の身体を反転させた。勿論、織田が頭をぶつけないよう細心の注意を払って。そして、今度は自分から仕掛けて織田の口内を隅から隅まで心ゆくまで堪能した。まさかそれを怒って……
(いや、今更、そんなことで怒るなんてあり得ないだろう。でも、もしかしたら……それとも、やっぱりあれは全部、俺の気のせいだったのか……?)
 太宰は頭が混乱して気分が悪くなってきた。坂口はそれを耗弱のせいと思ったらしく、蒼ざめた太宰を連れて補修室へと向かった。
 補修室では森が既に補修の準備をして待っていた。今日の助手である志賀はいなかった。恐らく太宰を刺激しないよう森に任せたのだろう。森は頭がびしょ濡れの太宰を見て急いでタオルを差し出した。有難うございます、と坂口は礼を言ってタオルを太宰の頭に被せた。わしわしと少し乱暴に髪を拭く。
「あんたはオダサクと違ってこのくらいで風邪は引かねえだろうが、一応、今夜は暖かくしとけよ」
「……オダサク……」
 太宰はうわ言の様に言葉を繰り返した。坂口はてきぱきと太宰を寝間着に着替えさせると、寝台に放り込んだ。
「それじゃ、明日まで良い子にしてろよ、太宰」
 坂口の声はとても静かで優しかった。ゆっくりと太宰は瞼を閉じた。今は総てを忘れて眠りたかった。そして、明日、目が醒めたら――……

「さて、と。今度はオダサクか」
 一仕事を終えた坂口は軽く伸びをして身体を左右に捻った。太宰も織田も危なかしくて色々手が掛かるが、それを面倒に思ったことはなかった。一度、二人を失った痛みを魂にまで深く刻み込まれているから……太宰と織田がいる限り、坂口の精神は全く揺るがなかった。
(まだ館内を探してるかもかもしれねえ。取り敢えず、適当に当たってみるか)
 三人の部屋を始めとして坂口は談話室や食堂など一通り見て回った。しかし、どこにも織田はいなかった。通りすがりの文士の何人かにも訊いてみたが、誰も織田の姿を見ていない。三度、玄関ホールに来た坂口は完全に手詰まりになっていた。まさか図書館にまで探しに行ったんだろうか、と考えて織田の言葉を思い出した。
『……ちょっと外の空気を吸いたい思っとったところや……』
 坂口の視線が玄関ホールの大きな二枚の硝子扉の方へ動いた。
(まさか……)
 時刻は既に夜の八時を過ぎていた。晩秋の風は確実に冬の足音を響かせ、織田の様に身体の弱い者に障るのは火を見るよりも明らかだった。坂口は慌てて外に飛び出した。先刻より更に気温が下がって今夜は底冷えがしそうだった。
「あの馬鹿……」
 坂口は図書館を取り囲む木立の間を丹念に探し始めた。中庭は食後の一服を楽しむ人が多いので、何となく避ける気がした。そうして、どのくらい外を歩き回ったのか……さすがの坂口も寒さが身に沁みてきた頃、漸く裏庭の奥まった一角に小さく灯る煙草の火を見つけた。
「オダサク……!」
「……安吾か」
 大きな木の幹に隠れる様に立っていた織田が低く呟いた。
「何や……?」
「何や、は俺の台詞だ。あんたこそ、こんな処で何をしてるんだ!?」
「見てわかるやろ。一服しとるんや」
「それなら喫煙室か自室にしろ。とにかく中へ戻れ。この寒さは身体に障る」
 坂口は織田の腕を掴もうと右手を伸ばした。パシッ、とその手が払われる。
「触んなや」
「……」
 眼鏡の奥で坂口は静かに目を眇めた。
 織田が他人を寄せつけないときは大抵、不調を隠していた。しかも、坂口や太宰に対してもこういう露骨な態度を取る場合は、最早、それが限界に達しているということだった。坂口の頭の中で激しく警鐘が鳴り出した。もう二度と、失いたくないから。絶対に……!
「俺は、あんたの生き方を否定はしねえ。だが、それにも限度がある。体調が悪いなら、今直ぐ力ずくでも医務室へ連れて行く」
「体調は悪うないで。ただ、安吾はいつも熱いんや。太宰クンの様に水でも被って出直しや」
 坂口の心配を織田は素っ気無く流した。
「……あんた、太宰に会ったのか?」
「会うたで。せやから、ここで一服しとったんや」
「……」
 一瞬、坂口は織田の言葉が信じられなかった。もし、それが本当なら、織田は自分より先に耗弱の太宰を見つけたのに放置したということになる。今生は互いに愛執にも似た感情を抱き、肌まで許すほど強く依存しているのに、そんなことがあり得るだろうか……?
「なぜ、太宰を補修室へ連れて行かなかった?」
「何でワシがそこまでせなあかんのや。面白ないやろ、そんなん」
「面白いとか、面白くないとかそんな話じゃねえだろう」
「そんな話や、ワシにとってはな」
 ふう、と織田は細く煙を吐き出した。その冷たい横顔は人の域を超え、ぞっとするほど美しかった。
「あんた、耗弱してるのか……?」
「……ワシが最後に有碍書に潜ったんは三日前やで。なら、その間、ワシの耗弱に気づかんかった安吾の目は節穴ってことになるな」
「俺の目が節穴かどうかは、あんたを補修室に連れて行けばわかる」
「人任せかいな……話にならんわ」
 織田は坂口を追い払う様に小さく手を振った。しかし、坂口はその場から動かなかった。少し間を置いて、織田は呆れた様に息を吐いた。吸っていた煙草をそっと坂口に銜えさせて一言……
「おやすみ」
 妖しく微笑んで自室へと戻って行った。



初出 2020.11.7
『Annexe Café』より転載。

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Café Grace
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