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お願いして頂きました。
ラフ・スケッチ的に捉えた一瞬の表情に
思わず、想像力がかき立てられます。
以前の厚意に感謝を籠めて
阿佐海 悠様へ小品『奇跡の実』を捧げます。

奇跡の実

10 May 2008  Dedicated to Y.A


 啓太は暗い顔で廊下を歩いていた。時折、深いため息が胸から溢れ、寂しげに隣を見つめる。今朝も和希は啓太を起こすと、会話もそこそこにサーバー棟へ行ってしまった。和希が多忙なのは今に始まったことではない。だから、ここ暫く甘いひとときを過ごしていなくとも、和希に感謝こそすれ不満を持ったことは一度もなかった。ただ、なぜか今日は無性に傍にいて欲しかった。それは自分の我侭だと幾ら言い聞かせても想いは募るばかりで……お陰で、何をするにも全く身が入らなかった。
 そんな憂いの啓太を見て、日頃から啓太に目を掛けているBL学園(ベル・リバティ・スクール)二大勢力――生徒会と会計部――が黙っている訳がなかった。
「啓太にあんな顔をさせるとは……一体、奴は何をしている!」
 少し離れた物影から心配そうに啓太を窺っている西園寺が苛々と呟いた。七条が小さく頷いた。
「全くです。彼には少しお灸を据える必要があります」
「なら、俺に良い考えがあるぜ。そろそろ俺もあいつに利息分くらいは返してやろうと思ってたからな」
 丹羽がニヤッと口の端を上げた。中嶋が低く喉を鳴らした。
「あれを使うのか、丹羽?」
「ああ……もう用意は出来てるだろう、中嶋?」
「当然だ。あんなものは簡単に手に入る」
「詳しく聞かせろ」
 西園寺が丹羽へと向き直った。そこで、丹羽は声を潜めて自分の計画を話し始めた。

 翌日の放課後、和希と啓太は会計室にお茶に招かれた。和希と一緒なのがよほど嬉しいのか、今日の啓太は昨日とは別人の様な顔をしていた。テーブルにはアイス・ティとレモン・メレンゲ・パイが置いてある。
「初めて作ったので伊藤君の口に合うかどうかわかりませんが、遠慮なく食べて下さいね」
「有難うございます、七条さん」
「遠藤君も。後学のために正直な感想を聞かせて下さい」
 わかりました、と和希は答えた。七条は西園寺の隣の椅子に腰を下ろした。
「あれ? 西園寺さんは食べないんですか?」
「ああ、私は甘いものは苦手だからな」
「郁はレモン・パイでも駄目なんですよ」
「そうなんですか……こんなに美味しそうなのに」
 啓太はフォークを手に取ると、淡雪の様なレモン・メレンゲ・パイを一切れ……パクッと頬ばった。七条が、どうですか、という瞳でじっと見つめる。啓太は少し不思議そうな顔をしたが、直ぐにっこりと笑った。
「美味しいですよ、甘くて。少し酸味が足りないですけど、レモンの香りも凄くてメレンゲもふわふわです」
 続いて、七条も食べる。
「ああ、伊藤君の言う通りですね。少し酸味が足りなかった様です。今度はもっとちゃんと作りますね。おや、遠藤君、どうかしましたか?」
 パイを食べた和希は、むっと眉根を寄せていた。努めて平静を装うが、呼吸さえ苦しくなるほど酸っぱかった。和希は何とかそれを飲み込むと、さっとアイス・ティに手を伸ばした。しかし、それを口に含んだ瞬間、今度は明らかに顔が歪んだ。酸味の利き過ぎた紅茶にコホッ、コホッっと激しく咽込む。
「気管に入ったのか、和希?」
「あ……ああ……コホッ……」
 和希はキッと七条を睨みつけた。すると、七条は哀しげに紫紺の瞳を伏せた。
「どうやら遠藤君の口には合わなかった様です。確かに成功とは言えない味ですから仕方ありません。伊藤君も無理に食べなくても良いですよ」
「何、言ってるんですか、七条さん! 俺はこれでも充分、美味しいと思います!」
「有難うございます。伊藤君は本当に優しいですね……どなたかと違って」
 そんな、と啓太は頭を振った。さり気なくアイス・ティを飲みながら、人の好意を無にする和希に怒った視線で無言の圧力を掛ける。ちゃんと食べないと七条さんに失礼だろう、和希!
「……」
 和希は困惑した表情で啓太とレモン・メレンゲ・パイとアイス・ティを見つめた。こんな子供染みた嫌がらせを貴方達から受けるとは思ってもいませんでした、と嫌味の一つもぶつけたいが、そんな余裕は今はない。それよりも、どうしたら啓太の不評を買わずにこの場を切り抜けられるか。その方法を、和希は必死になって考えていた。

「どれどれ……」
 丹羽は小さな赤い実をポイッと口に放り込んだ。種と実を分け、舌に果汁を擦りつける様に暫く転がしてから種だけを出す。それから、七条の作ったレモン・メレンゲ・パイを一切れ食べてみた。
「うわっ、甘っ……! よし! こっちはどうだ?」
 今度はアイス・ティを飲んで、くう~っと顔を顰めた。
「こっちはもっと甘いな」
「舌を麻痺させる訳ではないからな。熱いものさえ口にしなければ、三十分から一時間は効果が持続する」
 すっと眼鏡を押し上げながら、中嶋が言った。
「マジに凄いな。このシークワーサー入りのアイス・ティなんか普通の状態じゃまず飲めねえ。見ろよ、あいつのあの顔」
 丹羽が面白そうにパソコンの画面を指差した。そこには現在の会計室の様子が映し出されていた。映像を生中継しているので、生徒会室で丹羽達は和希の苦悩に満ちた顔をゆっくりと堪能していた。中嶋はミラクル・フルーツの入った缶を見て密かに微笑を深めた。
 それは、どんなに酸っぱいものでも甘く感じさせる奇跡の実だった。最近はダイエット中の甘味料としてドライ・フルーツからタブレットまで色々な種類が出回っている。啓太には、珍しいものが手に入った、と言って丹羽が予めミラクル・フルーツを食べさせておいた。啓太は直ぐに和希も呼ぼうとしたが、折悪しく和希は中嶋と打ち合わせの最中だった。勿論、それも作戦の内。丹羽は最初から和希にやるつもりはなかった。そこで、こう言って啓太の口を塞いだ。遠藤を驚かせたいから、この実のことは暫く黙っててくれ、と。素直な啓太はその言葉に何の疑問も持たなかった。そして、和希と一緒に西園寺達の待つ会計室へと向かった。
 啓太の批難する眼差しを浴び、レモンの塊の様なパイを前に苦渋の選択を強いられる和希。その様に、この計画の立案者・丹羽とミラクル・フルーツを入手した中嶋、茶会の場を提供した西園寺、超酸味の利いたパイと紅茶を用意した七条はそれぞれ心中深くほくそ笑んだ。
 和希がどうやってこの危機を切り抜けるか。それはまさに天のみぞ知る……


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Café Grace
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