新しく淹れたコーヒーと紅茶の香りが漂う中、西園寺は全員を静かに見回した。
「そろそろ纏まっただろう。誰か始められるか?」
「俺から行くぜ」
 丹羽が軽く手を上げた。西園寺の口の端が小さく上がる。
「ふっ、いきなりお前か」
「まあな。郁ちゃんは細かい辻褄は気にするなと言ったが、ここまでやったんだ。やっぱり筋が通ってた方が面白いだろう。それで、軽く話を擦り合わせてたら、俺からやる方が流れが良かったんだ。郁ちゃんは何も考えず、特等席でゆっくり観賞しててくれ」
「それは楽しみだ。ならば、私はもう口を挟まないので後はお前に任せた、丹羽」
「おう、任せとけ」
 元気良く丹羽は親指を立てた。

丹羽 :なら、後日談、第一話……丹羽哲也の場合、始めるぜ。後小路邸での事件から三ヶ月ほ
    ど経ったある日、俺は七条の心療内科を訪ねる。時間は十八時頃だ。落ち着いた雰囲気
    のこぢんまりとした診察室に七条だけが座ってる。それを見た俺は軽く左手を上げて挨拶し
    た。久しぶりだな、七条先生。
七条 :丹羽さん、お久しぶりです。予約患者に貴方の名前を見て少し驚きました。どうぞお掛け下
    さい。
丹羽 :俺は曖昧に頷いて椅子に座る。
七条 :お元気でしたか? 貴方とは連絡を取ろうと思っていましたが、仕事に追われてなかなか
    そうもいかず……申し訳ありません。
丹羽 :いや、それはお互い様だ。俺だって仕事をしてたら、こうして先生に会いに来れたかわから
    ねえしな。
七条 :仕事をやめられたんですか。まあ、あんな経験をした後なので、暫く休養するのも良いかも
    しれませんね。夜はきちんと眠れていますか?
丹羽 :さあ、どうだろうな……
七条 :不眠気味なら薬を出しましょうか? ああ、もしかして、今日はそれで……?
丹羽 :いや、そういう訳じゃ……なあ、七条先生、ニュース見てるか?
七条 :……はい、一応。
丹羽 :今、世界各国……って言っても主に日本だが、原因不明の奇病が流行ってるよな。身体
    が徐々にえんじ色の肉塊に変わってくやつだ。
七条 :最近では報じられない日はないですね。未だに原因が掴めないので仕方ありませんが。
丹羽 :……俺達はそれを知ってる。そいつらは皆、沼男(スワンプ・マン)だ。
七条 :はい……母体の声が消えたので、擬態をやめたんでしょうね。
丹羽 :この先、もっと発症者が増える……絶対に助からねえとわかったら、凄いパニックになるだ
    ろうな。
七条 :母体の言った通りなら、本来の姿では環境に適応出来ませんからね……
丹羽 :七条先生、俺達は本当に正しかったのか? いや、正しいのはわかってる。あのまま、沼
    男(スワンプ・マン)を放置したら、もっと多くの人間が食われてた。俺達は人類を救った。そ
    れは間違いねえ……が、ニュースを見る度に俺は思うんだ。母体を殺したのは本当に正し
    かったのかって。何も知らずに死んでくしかねえ人を前にしてもなお胸を張ってそう言えるの
    かって。
七条 :……迷っているんですね。
丹羽 :迷ってる。そう、なるのかな……と言って俺はおもむろに右袖を捲り、えんじ色の肉塊に変
    わりつつある腕を見せる。
七条 :僕は息を呑みます。それはっ……!
丹羽 :ああ、俺も沼男(スワンプ・マン)だったんだ。先月、肘を怪我して治りが遅いなって思って
    たら……こうなった。
七条 :丹羽さん……
丹羽 :やめてくれ! 俺は丹羽哲也じゃねえ! 本物の丹羽さんを殺して成り代わった沼男(スワ
    ンプ・マン)だ!
七条 :……
丹羽 :俺は今までずっと自分が人間だと信じてた。なぜなら、俺には昔からの記憶があるから
    だ。幼馴染の顔や名前、教習所で初めてハンドルを握ったときの感動、タクシーに乗せた酔
    客の愚痴すらはっきり覚えてる。どこをどう見ても、俺が沼男(スワンプ・マン)であるはずが
    ねえんだ! だが、現実……俺は沼男(スワンプ・マン)だった。それに気づいたとき、俺は
    思った。ああ、これは自業自得だって。俺はただ自分が死にたくねえから、あのとき、深く考
    えもせずに母体とそれに連なる四万五千の生命をさっさと切り捨てたんだ。正しいとか、正
    しくねえとか、そんなんじゃねえ。全部、自分のためだった!
七条 :死にたくないのは誰でも同じです。僕達はあの限られた時間の中で出来る限りのことをし
    ました。ただ、沼男(スワンプ・マン)と人間の共存はどう足掻いても叶わぬ夢……どちらか
    が滅ぶしかなかった。初めから、そう決まっていたんです。
丹羽 :……やっぱり良い人だな、七条先生は。だが、昔から言うだろう、人を呪わば穴二つって。
    沼男(スワンプ・マン)に死を押しつけた俺が沼男(スワンプ・マン)だったのは、まさにそれ
    なんだ。俺はただ死にたくなかっただけなのに……結局、自分で自分の死刑執行書にサイ
    ンしたんだ……
七条 :なら、貴方は神父様が母体を殺さなければ良かったと思っているんですか?
丹羽 :……さあな。もう何もわからねえんだ。寝ても醒めても、俺の頭に浮かぶのはえんじ色の
    肉塊……後小路の屋敷や、あの不気味な地下の広間で見た沼男(スワンプ・マン)の成れ
    の果てだけだ……俺は、あんなふうにはなりたくねえ……あんな姿で死ぬのは嫌だ……
七条 :丹羽さん……
丹羽 :だから、今日、ここへ来た。七条先生……俺を、殺してくれ。
七条 :……!
丹羽 :総てを知ってるあんたなら、俺の気持ちがわかるはずだ!
七条 :それは……
丹羽 :あんたにこんなことを頼むのは酷だとわかってる。だが、情けねえ話だが、怖くて自分じゃ
    出来ねえんだ。話してるだけで、ほら……手が震えてる。だから、頼む、七条先生! 俺が
    人の形をしてる間に殺してくれ! 俺は母体を殺すと決めたことを後悔する前に死にたいん
    だ! これから先も生き続ける人達を妬んで恨んで、心まで化け物になる前に! その前に
    ……頼む、七条先生! 俺を、殺してくれっ!!
七条 :僕は暫く瞳を伏せてから無言で白衣のポケットから一包の薬を取り出します。
丹羽 :震える手で受け取って尋ねる。これは……?
七条 :……毒です。眠る前に服用すれば、もう二度と……朝は来ません。
丹羽 :そ、そうか……でも、何で先生がこんな物を……っ……まさかあんたも!?
七条 :はい……母体を失った沼男(スワンプ・マン)は傷を修復しても擬態しないので、僕は直ぐ
    わかりました。
丹羽 :そういえば、あのとき、先生はナイアの攻撃で背中に傷を負ってたな。それでか……
七条 :丹羽さん、僕は後悔しています。こんなことになるなら自分で母体を殺せば良かった、と。
    あのとき、自ら選ばなかった僕は知らずに生きることを放棄していました。たとえ、その先に
    どんな結果が待っていようと、自分の未来はきちんと自分で選ぶべきでした。ただ流される
    よりかはその方が遥かに納得出来ます。
丹羽 :ああ……俺も今になって漸く神父様の言った意味がわかった気がする。だから、せめて最
    後は自分の手で掴み取ることにしたんだ。
七条 :それで良いかと……
丹羽 :七条先生……今日、あんたの処に来て良かった。お陰で、俺は救われた。あんたは丹羽
    哲也じゃねえ俺の最初で最後の友人だ。
七条 :有難うございます。貴方も僕にとっては最初で最後の友人でした。
丹羽 :一度くらい一緒に飲みに行きたかったな。
七条 :そうですね。美味しい料理とワインのあるお店を知っていますよ。
丹羽 :俺も良い地酒を置いてる店を知ってるぜ……二人で朝まで梯子してみたかったな。
七条 :はい、きっと楽しい時間になったでしょうね。
丹羽 :ああ……それじゃあ、そろそろ俺は行くぜ。
七条 :はい……お互い、悔いのないよう……
丹羽 :じゃあな、七条先生……有難う。


「以上で丹羽哲也の後日談は終了だ」
 重苦しい余韻を払拭する様な声が響き渡った。西園寺が機嫌良く言った。
「まさかお前の自殺を見られるとはな。それだけで、このシナリオをやった価値があった」
「俺のPC(プレイヤー・キャラクター)はそんなに肝の座った奴じゃねえからな。七条から薬を貰ったものの、死ぬのはぎりぎりまで悩んで躊躇ってると思うぜ。最後は少し狂ってるかもな」
「お前にしては見事なバッド・エンドだ。次は臣か?」
 はい、と七条は頷いた。

七条 :では、後日談、第二話……七条 臣の場合です。場面はそのままで時間は二十時少し前
    くらいにしましょうか。丹羽会長が帰ると、僕は傍に立て掛けておいた杖を掴んで立ち上が
    ります。座っているとあまり目立ちませんが、背中は肉塊の凸凹で酷い猫背の様になってい
    るので、杖がないと巧く歩けません。今日の診療を終えた僕は白衣を脱いで背もたれに掛
    けると、ゆっくりコートを着て病院を後にします。近くの大通りでタクシーを拾い、自宅のマン
    ションに着くまで運転手とずっと世間話をしています。そして、降りるときに丹羽会長と同じ
    薬を彼に渡します。その後は自室で普通に食事と入浴をするので、少し時間を進めます。
    同日、二十二時……僕は居間のソファに腰を下ろし、瓶に入った粉薬を小分けして薬包紙
    で丁寧に包んでいます。その作業に集中しているので、傍らにつけたテレビには目も向けま
    せん。しかし、緊急ニュースを告げるアナウンサーの声に不意に手を止めました。どうやら
    原因不明の奇病に関してアメリカ疾病管理予防センター(CDC)から調査員が日本に派遣
    されるそうです。僕はそれを食い入る様に見て虚ろにこう呟きます。無駄なことを……母体
    亡き今、僕達に残された希望はこれしかないのに……


「以上で終了です。僕と丹羽会長の後日談は重なっている部分が多いので、ふとした一瞬に落ちた独白にしました」
 七条は小さく頭を下げた。西園寺が尋ねる。
「これは臣は殺人鬼になったということか?」
「そういう訳ではありませんが、結果としてそうなりました。今の僕は沼男(スワンプ・マン)に残された唯一の希望は人の形ある内に死を迎えさすことで、それは医師であり、事の顛末を総て知っている自分の務めだと思っています。多分、自分が沼男(スワンプ・マン)と知って少し壊れてしまったんでしょう。だから、僕は沼男(スワンプ・マン)を探して少しでも多くの人と会話し、見つけたら睡眠薬と偽って毒を渡して殺しています。最期は醜い肉塊になって死にますが、きっと多くの人を救えたと一人満足しているはずです」
「その前に警察に捕まるかもしれないぞ」
「クトゥルフの警察はそんなに有能ではないので、僕の犯罪に気づいて部屋を捜索する頃には肉塊を発見するだけでしょうね。でも、それもまたクトゥルー・エンドで楽しいかもしれません。そこは皆さんの想像にお任せします」
「どちらも面白いバッド・エンドだな。次は誰だ?」
 期待を込めて西園寺が場を見回した。すると、中嶋が小さく手を上げた。
「俺がやる」

中嶋 :後日談、第三話……中嶋英明の場合を始める。場面は後小路の事件の一ヶ月後、時刻
    は寒さが身に沁みてくる夕方とする。現在、俺は教会が引き取ったナイアから暗黒の知識
    を得て死よりも深い眠りに至る薬の研究を続けている。自宅を出た俺は小さな紙袋を手に
    啓太の教会へと向かった。以前より明らかに信者が増えた礼拝堂では、まだ十数人が熱心
    に祈りを捧げている。それを横目に俺は祭壇の左奥にある執務室へ入った。後ろ手にドア
    を閉めながら、無意識に呟く。全く……最近、人が多くて落ち着かなくなったな。
伊藤 :こんばんは、中嶋さん……申し訳ありません。謎の奇病が流行っているので、今は救いを
    求める人が多いのです。暫く我慢して下さい。
中嶋 :祈ったところで意味はない。あれは病気ではない。沼男(スワンプ・マン)の成れの果てだと
    言って追い出せば良い。
伊藤 :ふふっ、ここは教会ですよ。絶望に打ちひしがれて神の前に膝を折る人々を無下には出来
    ません。
中嶋 :絶望は信仰の礎、か。
伊藤 :おや、珍しいですね。研究以外に興味のない貴方が私の言葉を覚えているとは。今回の
    件で何か心境の変化でもありましたか?
中嶋 :いや……ただ、母体の間で丹羽達を見ていて一つ思い出しただけだ。
伊藤 :宜しければ、それを聞かせて貰えませんか?
中嶋 :……昔、俺の親もよくあんなふうに俺の世話を押しつけ合っていた。俺は望まれない子供
    だったからな。
伊藤 :それはお気の毒に。
中嶋 :心にもないことを言うな。
伊藤 :ふふっ、失礼しました……成程、親の愛を得られなかった絶望が貴方を信仰へと導いたの
    ですね。
中嶋 :俺にそんな自覚はないがな……まあ、今となってはどうでも良いことだ。時間は生まれて
    から死ぬまでの間しかない。俺は研究以外の些事でそれを浪費する気はない。そう言って
    紙袋を啓太に渡す。中には俺の作った死に至る薬が入っている。
伊藤 :笑顔で受け取ります。有難うございます、中嶋さん。
中嶋 :そんな失敗作をどうする?
伊藤 :明日、七条さんがここへ来るので差し上げようかと。
中嶋 :七条? ああ、怪我で実験に使えなかったあいつか。奴は別れ際、もう俺達とは関わりたく
    ない様に見えたが、連絡があったのか。どういう心境の変化だ?
伊藤 :七条さんは沼男(スワンプ・マン)だったそうです。
中嶋 :ほう?
伊藤 :ナイアの知識に一縷の望みをかけていましたが、そのナイアも沼男(スワンプ・マン)と知っ
    たら、とても落胆していました。だから、ここへ来るよう言いました。私なら七条さんに希望を
    与えられるので。
中嶋 :お前が示すのは泡沫の夢へ惑わす幻だろう。
伊藤 :それは七条さんの捉え方次第……そこまで私は関知しません。でも、何の救いもないこの
    世界で見る夢があるなら幸せでしょう。
中嶋 :ふっ……お前の、その憎悪を憎悪と見せないところには全く感心する。
伊藤 :憎悪?
中嶋 :何だ。自分で気づいてないのか。以前、俺がお前に沼男(スワンプ・マン)について尋ねた
    ことがあっただろう。
伊藤 :……ああ、肯定派か否定派かというあれですね。
中嶋 :そうだ。あのとき、お前は肯定も否定もしなかった。それは肯定であり、否定でもあったか
    らだ。お前は人が沼男(スワンプ・マン)に食われるのは構わなかったが、沼男(スワンプ・マ
    ン)の存在は許せなかった。いや、正確には沼男(スワンプ・マン)に食われてもなおその中
    に残る人間性が許せなかった。だから、お前は沼男(スワンプ・マン)の増殖を止める方法
    を知りたかった。奴らの尋常でない生命力は良くわかっていたからだ。もし、沼男(スワンプ・
    マン)を完全に殺せなかったら、幾ら人間を殺しても意味がない。それほどまでに、神父、お
    前は人を憎んでいる。
伊藤 :一瞬、俺は目を瞠ったものの、すぐさま表情を消して中嶋さんを冷たく見据えます。貴方の
    務めは私の分析ではなく、一刻も早く薬を完成させることです。
中嶋 :ああ、わかっている。互いに余計な干渉はしないこの関係を俺は結構、気に入っている。
    それを自ら崩すことはしないから安心しろ。ナイアの知識を取り入れて研究は順調に進んで
    いる。近い内にその成果を見せられるだろう。楽しみにしていろ。そう言って俺は低く笑って
    執務室を出る。


「俺の後日談は以上だ」
 中嶋は煙草に火を点けた。ふむ、と西園寺は呟いた。
「啓太との関係を補完したか」
「ああ、俺は人間だったが、沼男(スワンプ・マン)の崩壊に怯えるのは今までのRP(ロール・プレイ)と合わない。啓太との会話で軽く触れる程度で充分だ。それよりも二人の付かず、離れずの関係を掘り下げた方が面白いだろう」
「そんな信頼の薄い関係で、裏切られるとは思わないのか?」
「それはない。啓太には俺の研究成果が必要で、俺には実験を続けるための資金とコネがない。どちらが欠けても俺達は成り立たないと互いにわかっている」
「成程……今更だが、啓太は神父にしては裕福だな」
 西園寺は軽く啓太を見やった。丹羽が口を挟む。
「あ~、セッション中、俺もちょっとそこは気になったんだよな。いつも年収は決めねえから、RP(ロール・プレイ)には織り込まなかったが……啓太、試しに3D6振ってみろ」
「あっ、はい」
 急に話を振られ、啓太は慌ててダイスを振った。それを皆が覗き込む。
「16、だと」
 丹羽が僅かに目を瞠った。ふふっ、と七条が笑った。
「さすが伊藤君です。年収二千万、財産は一億だそうです」
「そんなに……!」
「親の遺産か、または昔の事件で貰った賠償金かもしれませんね。信者からの寄付もありそうなので、皆が生活を依存しても問題はないですね」
「賠償金って……貰っても嫌ですね、きっと……」
 啓太が少し表情を曇らせたので、七条は優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。伊藤君はそんな目に遭うことはありませんから」
「そう、ですね」
 小さく頷く啓太の隣で和希が無言で冷え切ったコーヒーを口に運んだ。どこか重くなった雰囲気を西園寺の声が吹き飛ばす。
「ところで、中嶋、お前の研究は完成するのか?」
「ああ、そこまで考えてはいない。死よりも深い眠りを追求して終にアザトースの元へ辿り着いて発狂するか、失敗してドリーム・ランドへの道を開いてしまうか……いずれにしろ、まともな死に方はしないだろう」
「ドリーム・ランド?」
 啓太が初耳の言葉を繰り返した。七条がすぐさま説明した。
「ドリーム・ランドとは人間の潜在意識の中に存在するとされている世界です。僕達のいる現実の世界とは並行して存在する別次元で、そこにもニャル様を始めとする様々な神格や屍食鬼(グール)の様な神話生物がいます。ただ、ドリーム・ランドを舞台にしたものはキャトルーという探索者が猫に――……」
「ね、猫っ!!」
 丹羽がガタッと椅子を蹴って立ち上がった。中嶋が小さく息を吐く。
「落ち着け、丹羽、キャトルーはしない」
「そ、そうか……脅かすなよ、七条」
 蒼ざめた顔で丹羽は七条を睨みつけた。すみません、と七条は軽く頭を下げた。
「うっかりしていました。探索者がね……あれなのも、人間とはまた違う面白さがあるので、いつかシナリオを回してみたいですね」
「冗談はやめてくれ」
 丹羽が露骨に顔を顰めた。話が逸れ始めたので、西園寺が続きを促した。
「残るは啓太と遠藤だが、流れ的に啓太が先か?」
 いえ、と和希が言った。
「俺が先にやります」

遠藤 :後日談、第四話……遠藤和希の場合ですが、もう俺は狂信する啓太以外とは会話が成立
    しないので、出来事を客観的に語ることにします。場面は沼男(スワンプ・マン)の事件から
    半年後です。警察は薫子が幾つか使い分けていた携帯電話の通信履歴から頻繁に連絡を
    取っていた何人かに容疑者を絞りました。当然、俺もその中に含まれ、刑事が任意で事情
    聴取をしようと教会に来ました。俺はそれを妄信している啓太から自分を引き離そうとして
    いると思い、ナイフを取り出して激しく抵抗したので逮捕されました。しかし、俺の精神状態
    では取り調べもままならず、その数日後、留置場内で狂死します。


「簡単ですが、俺の後日談は以上です」
 和希が話し終えると、西園寺は静かに紅茶に手を伸ばした。
「折角、人間で生還したのに冤罪で逮捕・死亡エンドか」
「SAN値がなくなった時点でキャラ・ロストするところをKP(キーパー)の温情で最後まで辿り着いたので、後日談で死ぬことにしました。俺を調べれば犯罪の証拠は色々見つかるので、警察はそれ以上の捜査はせず、薫子の一件は被疑者死亡で幕を閉じます」
「有罪の中に一つ混じった冤罪を見抜けるほどクトゥルフの警察は有能ではないか」
 嘆かわしいと西園寺はため息をついた。七条が尋ねる。
「では、薫子を殺したのは誰なんですか?」
「特に決めていない。この辺りはお前達を早く後小路邸へ向かわせるためにシナリオを改変した。だが、強いて犯人を挙げるならば、敵対組織と考えるのが妥当だろう」
「相変わらず、短気ですね、郁」
 クスッと七条は笑った。西園寺はそれを綺麗に無視して啓太に瞳を流した。
「最後は啓太か」
「はい、それじゃあ……あっ、西園寺さん、和希にナイア君のRP(ロール・プレイ)を頼んだんですけど、良いですか?」
「ああ、構わない。そういえば、ナイアについては説明していなかったな。奴は……いや、遠藤、ナイアの設定を送る。巧くRP(ロール・プレイ)に使え」
 そう言うと、西園寺は和希のタブレット型PCにデータを送った。
「有難うございます」
 和希はステータスにざっと目を通した。STR(力)、CON(体力)、SIZ(体格)は子供、INT(知力)とEDU(教育)は大人。予想通りだな……
「啓太、始めて良いよ」
「うん、わかった」
 啓太はキュッと掌を握り締めた。

伊藤 :なら、後日談、第五話……伊藤啓太の場合を始めます。場面は和希が逮捕された日の深
    夜です。俺は食堂で何をするでもなく庭を眺めています。すると、背後に人の気配がして二
    つの声が聞こました。
中嶋 :……感傷か、神父?
伊藤 :そういう訳では……ただ、もうこの庭も見納めですから……
中嶋 :庭などまた作れば良い。遠藤が捕まった以上、朝には家宅捜索が入る。時間を無駄にす
    るな。
ナイア:ふっ、ふっ、ふっ、薔薇の下にあるものを警察が見つけたときが見物だな。一体、幾つ埋
    まってるんだか。
伊藤 :さあ……薄汚い愚か者は大勢いるので、一々数えてなどいられません。きっと遠藤さんも
    覚えてないでしょうね。そうして振り返ると、ナイア君の傍に行って右手を出します。
遠藤 :その手を取ります。ナイアの右肩は肉塊と化して歪に変形しているので、啓太に掴まらな
    いと小さな身体ではバランスが悪くて巧く歩けません。
伊藤 :優しく尋ねます。大丈夫ですか?
ナイア:全く……忌々しい沼男(スワンプ・マン)だ。落ち着いたら、奴らに食われる前までこの身の
    時間を戻して片づけてやる……少し手間だがな。
中嶋 :ほう? そうんなことも出来るのか?
ナイア:当たり前だ。僕は無貌の神の化身だぞ。ただ、下手に時間に干渉すると、ティンダロスの
    猟犬に目をつけられるのが面倒なだけだ。
中嶋 :後小路の二の舞になる、か。
ナイア:僕はそんなヘマはしない……前にもやったことあるしな。
中嶋 :成程……見た目通りの年齢ではないと思っていたが、そういうことか。
ナイア:子供の方が都合が良いんだ。人間は食わないと生きてけねえからな。子供なら食費は少
    なくて済む。
中嶋 :ふっ、神の化身と称しているのに食費の心配か。
ナイア:し、仕方ねえだろう! 貨幣システムは人間が作り上げたものだ。僕達には馴染みがない
    んだ!
伊藤 :ナイア、もうお金の心配をする必要はありません。好きなものを、好きなだけ食べて良いの
    です。ああ、そうだ。ちゃんと身体を元に戻せたら、ケーキでお祝いしてあげましょう。
ナイア:本当か、神父!? なら、チョコレート・ケーキが良い! 大きなマジパンの人形も乗ってる
    やつ! あれ、一度、食べてみたかったんだ!
伊藤 :わかりました。新しい家に着いたら、ケーキ屋さんを探してみますね。
ナイア:あっ、あとカレーも! 半熟卵とチーズも付けて!
伊藤 :ふふっ、ナイアは本当にカレーが好きですね。
ナイア:カレーのレトルトはどんなものでも大抵、美味しかったんだ。でも、作ったのはもっと美味し
    くて驚いた。更にトッピングだろう……本当、カレーって奥が深いよな。
伊藤 :遠藤さんは料理が上手でしたからね。ああいう人が直ぐ見つかると良いのですが。それま
    では私が作ってあげますね。
ナイア:……ちゃんと作れるのか、神父? 遠藤がお前は殆ど料理出来ないって言ってたぞ。
伊藤 :それは昔の話です。以前は栄養管理のために食事は専門の方が作ったものを食べてい
    ましたが、神父になってからは時折、自分で料理をしていました。
ナイア:栄養管理? 何かスポーツでもしてたのか?
伊藤 :ええ、一応……事故で身体を壊して断念しましたが。
中嶋 :神父、お喋りはそのくらいにしろ。
伊藤 :そうでした、つい……ナイア、お願いします。
遠藤 :わかった、と頷いてナイアは口の中で不穏な音を転がします。すると、虹色に波打った窓
    硝子に次元の道が開き、同時にキッチンのコンロから大きな火柱が上がりました。それはた
    ちまち天井に燃え移って炎が辺りを舐める様に広がってゆきます。
伊藤 :それを見た俺は中嶋さんに、お先にどうぞ、と手で示します。
中嶋 :俺は無言で窓に手を伸ばす。一瞬、目眩の様な感覚がした後、俺の身体は窓硝子に吸い
    込まれる。
伊藤 :さあ、私達も行きましょう。
ナイア:あっ、神父……その……僕なら、お前の時間を戻すことも可能だ。面倒だけど、手間はど
    うせ同じだし……だから、もし、お前が望むなら……
伊藤 :ナイア、私はもう戻れません。たとえ、この身の時間は戻せても、胸に刻まれた記憶は永
    遠に消えないからです。純粋に未来を信じて努力していた私を人は無残に踏み躙った。怠
    惰を貪るだけの者より私は何倍も、何倍も、何倍も努力していたのに……!
ナイア:だから、人間が憎いのか?
伊藤 :……憎んでないと言えば嘘になります。人は私の痛みに無関心で、今、この瞬間ものうの
    うと日々を生きている。出来ることなら、彼らに私と同じ苦しみを与えてやりたい。心底、そう
    思います。ですが、所詮、この世は神の見る夢……過去も未来も最初から総てないので
    す。なら、復讐しても意味がありません。だから、好き勝手に壊すことにしました。要らないで
    しょう、こんな世界。違いますか?
ナイア:ふっ、ふっ、ふっ……ああ、その通りだ。これから世界は更なる混沌へと向かう。沼男(スワ
    ンプ・マン)の崩壊に人間どもの正気はどんどん失われ、身勝手な欲望が吹き荒れる。こん
    な世界、さっさと壊れてしまえば良いんだ! そのための力なら、僕が貸してやる!
伊藤 :その言葉に、ふわっと俺は微笑みます。そして、改めてナイア君の手を握り締め、二人一
    緒に窓硝子の向こうへと消えます。無人になった家は火の手に包まれ、やがて遠くから消
    防車のサイレンが聞こえてきました。


「えっと、俺の後日談は以上です。何か良くわからない感じですが……」
 啓太は心配そうに皆を見回した。西園寺が優しく言った。
「いや、なかなか興味深かった。ナイアを巧く手懐けたな」
「最初はナイア君は中嶋さんと知識を共有したら殺して、俺はその後も教会で密かにアザトースへの信仰を説くつもりでした。でも、何て言ったら皆を巧く引き込めるか思いつかなくて諦めました」
 七条が面白そうに口を挟む。
「そういうときは、『共産主義的政治宣伝(プロパガンダ)』を打てば良いんですよ」
「何ですか、それ?」
 啓太は首を傾げた。あ~、と丹羽が唸った。
「七条の話は気にするな、啓太、それは『パラノイア』って言う別のTRPGだ。成功すると、皆、共産主義者(コミー)になる最強のスキルなんだ」
「へえ~、TRPGにも色々あるんですね」
「ああ、『パラノイア』もクトゥルフ(CoC)と同じくアメリカ発祥の完璧で幸福なゲームだが、始めた瞬間に友達がいなくなるぜ」
「えっ!? どうしてですか?」
「RP(ロール・プレイ)の殆どがPvPだから、足の引っ張り合いが壮絶なんだ」
 そうして丹羽はチラッと中嶋と七条に目をやった。あっ、成程……と啓太は苦笑した。そんなTRPGでは二人の間は凍える一方で、とてもゲームを楽しめる雰囲気ではないだろう。クトゥルフ(CoC)はそうでなくて良かった、と啓太は密かに胸を撫で下ろした。
 西園寺が話を元に戻す。
「遠藤、ナイアの啓太への態度は随分と幼くなったな。私は実年齢は外見より上というRP(ロール・プレイ)をしたつもりだったが」
「それは俺なりにナイアの過去を考えた結果です。後小路邸でナイアが王様達と対峙したとき、あれだけの力を持ちながら、目に見える暴力を恐れていたので幼い頃は虐待されていたと思いました。そのため、今でも無意識に大人になることを拒否しています。食費の節約は単なるその副産物に過ぎません。そんなナイアを初めて甘えさせてくれたのが啓太でした。だから、啓太に対しては子供と大人、両方の面を見せる様にしました」
「成程……私のRP(ロール・プレイ)からナイアをそう捉えたか」
「性格があんなに横暴で不愉快なのも、そんな大人を見て育ったからってことか。そう考えると、可哀相な子供だったんだな」
 ポツリと丹羽が零した。中嶋が小さく喉を鳴らした。
「お前はナイアに同情している様だが、後小路に沼男(スワンプ・マン)を作らせたのは奴だということを忘れてないか?」
「いや、俺も同情はしてねえ……けど、やっぱり子供相手に暴力ってのは気分が悪いだろう。俺は基本的にハッピー・エンド主義だから、郁ちゃん好みのバッド・エンドは色々心にくるんだよ」
「失礼な。私はバッド・エンド好きではない」
 心外だと西園寺は丹羽を睨みつけた。そうか、と丹羽は平然と返す。
「郁ちゃんの回すシナリオはいつも結構、えぐいと俺は思うぜ」
「それはお前がハッピー・エンドものばかりするからだ。同じ系統が続くと飽きるだろう。今回も前の二本がトゥルー・ハッピー・エンドだったから、トゥルー・バッド・エンドが見たくなっただけだ」
「母体を殺したあれがトゥルー……やっぱりえぐいじゃねえか」
「そうしなければ、一年後、人類は総て沼男(スワンプ・マン)になってしまうのだから仕方ないだろう」
 不機嫌そうに西園寺は切り捨てた。すると、七条が尋ねた。
「郁、沼男(スワンプ・マン)はショゴスが基になっているんですよね?」
「ああ、沼男(スワンプ・マン)について神話技能を振ったら情報を出すつもりだったが、誰もしなかったからな」
「振る訳ねえだろう。メタだが、成功しても、ろくなことにならねえとわかってるからな」
 丹羽の言葉に啓太は首を傾げた。七条が説明する。
「ショゴスとは外なる神の一柱、ウボ=サスラの身体から作られた虹色の輝きと悪臭を放つ漆黒の粘液状生命体です。知能は低いですが、テケリ・リ、テケリ・リ、と可愛く鳴き、取り込んだものに擬態したり、自在に形態を変えて様々な器官を発生させることが出来る人気の神話生物です」
「可愛いって……」
 啓太は曖昧に語尾を濁した。確かに鳴き声はそうかもしれないが、沼男(スワンプ・マン)の基になったショゴスが可愛いとは思えなかった。
(やっぱり七条さんの感覚ってちょっと変わってる……)
 そんな啓太の内心を知ってか知らずか、七条は楽しそうに話を続けた。
「クトゥルフ(CoC)では、このウボ=サスラが自らの身体から作った不定形の落とし子が進化して地球の生命の起源になったと言われています。つまり、沼男(スワンプ・マン)と僕達は遠い親戚ということです。僕が沼男(スワンプ・マン)肯定派だったら、その辺りを是非RP(ロール・プレイ)したかったですね」
「しなくて良い。そんな冒涜的な知識、知った途端、間違いなくSAN(正気度)チェックだ」
 嫌そうに丹羽は手を振った。和希が小さく腕を組んだ。
「恐らく沙耶はそれを知っていたはずです。話さなかったのはKP(キーパー)の温情だったかもしれませんね。皆、初期SAN値が低かったので、聞いたら間違いなく発狂でしょうから」
「シナリオにあまり関係ないことで判定はしない。だが、沙耶をナイアへ引き渡した場合はかなり大きなSAN(正気度)チェックをするつもりだった」
「ちなみに、どれくらいですか?」
「そうだな……1D10/1D20はあるだろう。ナイアは引き渡された沙耶をその場で殺してショゴスとしての異能を備えた沼男(スワンプ・マン)を何体か作り出す。だが、それには全く知能がなく制御出来なかった。すぐさまナイアは叩き潰され、お前達はSTR(力)62の沼男(スワンプ・マン)、1D6体との戦闘だ。1D10でも軽いくらいだろう」
「……本当にえぐいシナリオだな」
 はあ、と丹羽はため息をついた。それを見て中嶋が小さく口の端を上げた。
「たまにはこういうのも刺激があって良いだろう。いつもPC(プレイヤー・キャラクター)が協力し合う展開では飽きる」
「お前も捻くれてるな、中嶋。ゲームって言っても物語なんだから、救われねえと駄目だろう」
「ふっ、どうやらこのシナリオは本当に気に入らなかった様だな。なら、次は俺がKP(キーパー)をしてやる。お前が本気でハッピー・エンドを目指したくなるシナリオを用意してやろう」
「俺の話を聞いてたか? それって目指さなかったらバッド・エンドってことだろう」
 丹羽は顔を顰めた。西園寺がふと壁の時計を見上げた。
「それ以上は次のシナリオまで取っておけ。そろそろ会計室へ移動する。今日は私の地元から取り寄せたレモン・ゼリーを用意した。上品な酸味と甘みが調和し、疲れた身体には丁度良い一品だ」
「おっ、旨そうだな。実は少し酸っぱいものが欲しかったんだ。甘い菓子は喉が渇くからな」
 嬉しそうに丹羽は言った。西園寺が得意げな顔をする。ふふっ、と七条が笑った。
「さすが郁、先見の明がありますね。このゼリーで疲れを癒したら、明後日の体育もまた出席出来そうです」
「なっ……!」
 途端に西園寺の表情が変わった。また言質を取られまいと慌てて立ち上がる。
「それは明後日の体調次第だ。さあ、早く移動するぞ」
 西園寺は皆を急かすと、七条の返事も聞かず、足早に生徒会室から出て行った。その様子に誰からともなく微笑が零れたが、取り敢えず、西園寺が拗ねる前に会計室へ向かうことにした。



2018.7.1
啓太の後日談に苦戦して時間がかかってしまいました。
黒い啓太は難しかったです。
やはり啓太は素直が一番。
これからも、そのままでいて~

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Café Grace
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